第111話 新聞記事
「僕は生きている」と、すみれのあの人に伝える。それがグリモーナから現世に帰還したときに決めた、目標だった。それなのに彼女はもう、この世にはいない。
「信じられないよ・・・・・・」
すっかり途方に暮れて、僕はつぶやいた。するとお医者様は、何を思ったのか「少し待っていてください」と言って、病室を出て行ってしまう。数分後、戻ってきた彼の手には、一枚の新聞記事が握られていた。
それは、とある誘拐殺人未遂事件について書かれたものだった。容疑者のファーストネームであるジュリエットという文字列が、視界に飛び込んでくる。その瞬間、僕は察した。
これは、僕が刺されたあの日のことを書いた記事だ。
僕は食い入るように、その先の文章を読み進める。
とある日の未明、「少年が血を流して倒れている」と匿名で救急通報があり、駆けつけた救急隊員は、少年と女が血を流して倒れているのを発見した。現場の状況などから、警察は女が少年を刺し、そのあと女は自ら命を絶ったと推測している。匿名の緊急通報が女性の声で行われていたことから、警察は女が自殺する直前に通報を行ったとみて、調べを進めている。
それが記事の内容だった。
読み終えると、僕は力が抜けたように記事を膝に下ろした。
そこに綴られていた文章は、嘘だとはねつけるには、あまりにも現実的すぎた。
どうやらジュリエットが死んだのは、疑いようもない事実だ。
僕はしばらく何も言えなくて、ぼんやりと黙り込む。
するとお医者様は、僕の手から新聞記事をそっと取り戻した。彼はそれを折りたたんで、白衣のポケットにしまう。
「今はこれ以上、ジュリエットのことを考えるのは、やめましょうか」
優しい声でなだめられて、僕は頷いた。
お医者様は僕の気持ちを別のことに逸らすため、次の話題を提案した。
「彼女のこと以外に、何か、ほんの少しでもいいですから、覚えていることはありませんか? 例えば、ご家族やお友達のこととか」
そう問われて、僕は目を閉じて考えた。
しかしいくら待ってみても、記憶は浮かび上がってこない。
考えても、考えても、思い出の断片すら戻ってこない。
そのうちに、いつも自分が何かを思い出すときに何をどうやっていたのか、そのやり方すら自信がなくなっていった。
「分かりません、何も」
僕は力なくうつむく。
ジュリエットのことはある程度、覚えている。
それなのに、家族のことは思い出せない。
それがとても情けなかった。
僕だってかつては、現世で暮らしていたのだ。家族や友人になんの思い入れもないわけがない。きっとたくさんの思い出があったはずだ。
僕のことを大切にしてくれた人が、現世にはきっとたくさんいたはずだ。
それなのに僕は、自分を刺し殺そうとしたジュリエットのことしか覚えていないだなんて!
そう思うと、心が鉛のように重たくなった。僕はなんて恩知らずな人間なんだろう。責めるように、繰り返し自問する。
僕は一体なぜ、ジュリエットのことばかり覚えているの?
僕にとっては、ジュリエットの方が家族や友人よりも大事だったということ?
でも彼女は、僕を刺し殺そうとした張本人だ。
いくら彼女と仲が良かったとしても。
いくら彼女が最後には悔い改めたとしても。
自分を育ててくれた家族より、彼女の方が大切だなんてことがありえるだろうか。
分からない。
せめてジュリエットにこのことを聞いてみることができれば、何かがわかったかもしれない。それがきっかけになって、記憶を取り戻すことだって、あったかもしれない。
それなのに、もう彼女は死んでしまった。
僕は両手をぎゅっと握りしめる。
どうして、ジュリエット?
勝手に死んじゃうなんて、あんまりだよ・・・・・・。
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