帰還

第103話 川縁

目を刺し、脳まで刺し貫くような白い光が晴れると、僕は知らない場所に一人で座り込んでいた。


手をついた地面には湿った短い草。

その向こうには青白い川面。

スティクス川と少し似ているけれど、それよりもさらに青白さが際立っている。

周囲には薄い霧がかかっていて、川の向こうは見通せない。


人の気配がまるでしない、薄暗い川縁だ。


しかしそんなのは全て、どうでもいいことだった。

今の僕は、ここの景色なんか見ていなかった。


見えるのはただ、紫色が赤色に塗りつぶされるあの光景だけ。

ジュリアが倒れる瞬間の光景だけが、何度も何度も繰り返す。


「そんな。いやだ。嘘だ・・・・・・ジュリア!」


潰れるような声で呼ぶ。それでもあの光景は、頭から離れない。

強烈な紅色がジュリアを消し飛ばしてしまうその光景に、心が焼き尽くされていく。


『人間の命は、病の命よりもはるかに重い』


唸る地響きのような言葉が、赤い飛沫と交互に脳内を駆け巡った。


ジュリアは殺されてしまった。

僕の命を現世に帰すために。


僕が生き残るために、ジュリアが死んだのだ。

僕のせいでジュリアが死んだのだ。


「僕が、ジュリアを殺してしまったんだ!」


地面を叩き、引っ掻いた。草が爪に引っかかって、指から爪を引き離そうとする。その痛みだけが、奇妙に現実味を帯びていた。ああ、もっと痛めばいい。爪なんて剥がれてしまえばいい。手も、足も、この身体も、全部なくなればいい。


ジュリアを殺したこんな命なんて、なくなってしまえばいい!

周囲の草は引きちぎられ、指には血が滲んだ。


「神様、どうして」


口をついて出てきた言葉が、脳髄を激しく揺り動かす。

神様、一体どうして!


もし僕の命と引き換えにしてジュリアが生き返るのなら、僕はこんな命、迷わず差し出せるのに。なぜ神様は、そんな簡単なことも分からないんだろう!


僕は耐えられなくなって、地面に突っ伏した。


そこへザクザクと草を踏みしめ走る、一つの足音が近づいてくる。しかし僕はもう、誰が来ていようがどうでもいい気がして、顔を上げなかった。


その人物は僕のすぐ近くまでやってきて、足を止めた。


「ああ、ロミ。可哀想に。そんなにボロボロになってしまって」


彼は言いながら、僕の横に膝をついた。


「すまない。ワタリガラス大公が帰還許可証を頑なに見せようとしなかった時点で、君が知ったら現世への帰還を拒むようなことが、許可証には書かれているのではないかと気づいていた。それだというのに、私は事態を止められなかった・・・・・・。いや、今は私の話はよそう。ロミ、まずは顔を上げてくれ。気をたしかに持つんだ」


その人物は一方的に話しながら、僕の傷ついた右手を包み込むように持ち上げた。その動きに引っ張られるようにして顔を上げると、そこには黒いローブを身にまとったウィルがいた。


彼はそっと腕を引いて、僕を助け起こそうとする。

でも僕は、その手を乱暴に振り払った。


「気をたしかになんて、持てないよ。 だってジュリアが死んでしまったんだ!」


僕がわめくように訴えると、ウィルはうろたえた。いつもと全く違う僕の様子に、どうしていいか分からないかのようだった。


「ああ。君の気持ちは痛いほど分かる。だから頼む、今は深呼吸をして。とにかく一度、落ち着いておくれ」


彼は再び手を差し伸べる。

僕はその手を突き放した。


「気持ちが分かるだなんて、冗談じゃない。所詮、ウィルにとってはジュリアはだったんでしょう。だからそんなに落ち着いていられるんだ。でも僕にとってジュリアは、ただの木じゃなかった。ジュリアはジュリアだったんだ!」


「ロミ!」


ウィルは珍しく声を荒げて、僕の両腕を掴んだ。すると蛇口が閉められたように言葉が喉につっかえて出てこなくなった。


彼は、激しい感情がないまぜになって震えが止まらない僕の肩を、そっと抱きよせた。


「たしかに私は、その少女に出会ったことはない。しかし、君がどれだけジュリアを大切にしてきたのか、私はこの目でずっと見てきた。君がどれだけあの木に愛を注いだか、私は見てきた。そして今まで見聞きした全ての事柄が、君にとってあの木は愛する少女に他ならなかったことを物語っている。他人にとっては幻覚でも、君にとっては本物だったのだ。だから私にとっても、あの木はただの木ではない。ジュリアという、この世界にたった一本の大切な木だった」


その穏やかな声色に微かな悲しみを感じ取って、僕は不意に我に返った。


この薄暗い、見知らぬ川縁。ここはきっとグリモーナと現世の狭間だ。そんな辺境までウィルは、追いかけてきてくれたのだ。


僕に手を差し伸べるために。


そんな彼の手を、乱暴に振り払ってしまった。

挙句に酷いことまで言ってしまった。


さっきまで心を満たしていた激しい怒りは、後悔の濁流に取って代わった。


こんな僕が、ジュリアの命を踏み台にして生きているなんて。

あんまりだ。


だから僕はこう言った。


「ごめんねウィル、八つ当たりみたいに酷いことをして。僕は本当に最低だ・・・・・・ジュリアの命を引き換えにしてまで、生きる価値のあるような人間じゃない。だから最後にお願いがある。今ここで、死神の鎌で、僕の首を切り落として」

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