第100話 果実

ハリスはよほど急いでここまでやってきたのか、かなりの間、体を管理局の扉に預けてぜいぜいと荒い息をしていた。彼が呼吸を整えて、やっとこさ足を踏み出すまでに、たっぷり一分はかかったと思う。


この場にいる誰もが、呆気に取られて彼の様子を見守っていた。特にウィルとワタリガラス大公は、突然の乱入に少し警戒した色を見せている。


しかしそんな緊張感はどこ吹く風、彼はコンコンと規則的な足音を響かせて、ゆっくりとこちらに歩いてきた。


「間に合ってよかった。すでにロミが帰っていたら、とんだ無駄足になっていたところだ」


ハリスがそう息をついて立ち止まったので、僕はようやく我に返った。


「あの、もしかして。わざわざお見送りに来てくれたんですか?」

「その通り。わざわざ、君に会いにきたのさ」


こんなことを言うと、失礼と思われるかもしれない。

でも、僕はすごく驚いた。

わざわざ、あのハリスが、こんなところまで、僕に会いにくるなんて!


口を開けたまま固まっている僕に、ハリスは表情を引き締めてみせる。


「勘違いしないでくれ。ただ用事もなく会いにきたわけじゃない。今日は、どうしても君に見せたいものがあるんだ」


そう言って、彼はパチンと指を鳴らした。すると向かい合う僕と彼との間、何もなかった空間に突如、一本の若木が現れた。


紫と緑のグラデーションで飾られた、なめらかな幹。

丸みを帯びた葉。

甘酸っぱい香りのピンク色の花。


僕はその木に駆け寄った。


「ジュリア!」


そこに現れたのは紛れもなく、僕の大切な若木、ジュリアだった。記憶にあるより多くの花が咲いているし、背もまた少し伸びているけれど、間違いようがない。


僕はそっとその木に手を伸ばす。

そして、その先に見慣れない物体を見つけて息を呑んだ。


葉っぱの茂った一本の枝。その先端に、手のひらに収まる程度の真っ黒いがついている。それは混じり気のない艶やかな純黒をしていた。中心には滴り落ちる雫のような美しいシルエットの物体があり、その周りには、レースのような繊細な構造がまるでバレリーナのスカートのように重なっている。その繊細なレースの上には、朝露を凍らせて作ったみたいなキラキラした小さな粒が散りばめられていた。


見たことのない物体だった。

でも、僕にはこれが何だか分かった。

そもそも病の木になるものなんて、一つしかない。


それでも僕は信じられない気持ちだったから、ハリスに尋ねた。


「これは、病の果実だよね?」

「そうだよ」


ハリスが頷いて、僕の希望を確信に変えた。


少し前までは、ジュリアの花を見られただけでも、幸運だったと思っていた。

それが、こんなに美しい果実まで見ることができるだなんて。


言葉も仕草も表情も、こんな気持ちを表せるほどの力を持ち合わせていなかった。

僕がどれだけ嬉しいか、きっと神様だって想像することができないだろう。

だから僕は何も言わずに、ただその果実にうっとりと視線を向け続けた。


そんな僕の反応に満足したのか、ハリスはふふんと得意げに笑った。


「予測では、果実が実るのは早くても来月だったというのに、今朝見てみたら、すっかり立派な果実ができていたんだ。これはきっとジュリアが君との別れを惜しんで、一生懸命実らせたのだろうと思わずにはいられなかったよ。だから君に見せにきたのさ。愛する若木の献身を知ることもできずに、現世に帰ってしまったのでは、流石に君の気持ちが晴れないだろうからね」


すると、

「ええっ」

と柄にもない激しい驚きが、ウィルの口から飛び出した。


「ハリス、一体いつの間に、論理主義者からロマンティストに転身したんだい?!」


ハリスはムッとして腕を組んだ。


「別に転身したわけじゃないさ。ボクは昨日も今日も、そして明日も、論理的に正しいことしか信じない。しかしだからといって、他人の心情を推量する能力がないわけではないんだよ」


「そ、そうだったのか。私はてっきり、君には感情を推し量るなんて、そんなは生まれつき備わっていないのかと思っていた」


「心外だね。君が知らないだけで、ボクは情に厚い男だよ」

「嘘は休み休み言ってくれないか・・・・・・?」


「嘘なものか。そもそも証拠もないのに、人をけなすものじゃないぞ。もし君が、ボクには思いやりの心がないと言うのなら、それを示す確たる証拠を提示したまえ。さあ、どうだ。そんな証拠は出せないだろう!」


「そんなもの、ロミとジュリアを引き離したあの命令書だけで十分だろう。大公殿も、そうは思いませんか?」


ウィルはワタリガラス大公に同意を求める。

大公はふっと鼻を鳴らした。


「お前たち・・・・・・毛ほどの役にも立たん、どうでもいい議論で時間を潰すのは感心しないな」


大公のピシャリとした物言いに、にらみあっていた二人は急に冷たい水を浴びたように威勢を削がれてしまって、同時にふいっと視線をそらした。彼らが気まずそうにしていると、大公は付け加えた。


「だがまあしかし、かくいう私も、ハリスがそのような感情的な理由で動いたのは予想外だった。驚きすぎて、今にも全身の羽が逆立ちそうになっているぐらいだ」


彼の言葉が、この不毛な争いに勝者の判定を下す。

負けを悟ったハリスが神妙な顔で黙り込んだ。


さぞ、ウィルは勝ち誇っているのではないか。そう思って見てみたけれど、意外なことに違った。彼もまたどういうわけか、ハリスと同じ神妙な顔つきになっている。


彼は目にかかった前髪を払いつつ、ポツリと呟いた。


「まあ、今回のことで少しは君のことを見直したよ。あくまで少し、だが」

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