紅の雷

第96話 儀式

翌朝。


目が覚めた僕は、長い旅行に出かける日の朝のように、いつもより空気がパリッと引き締まっているのを感じた。立ち上がった後の床の感触も、階段をトントンと降りる自分の足音も、今日で最後だと思うと全てが名残惜しくなる。


いつもと同じようにリビングに向かうと、ウィルも落ち着かない様子で窓の外を眺めていた。起きてきたばかりの僕に、彼は挨拶代わりにこう声をかける。


「ロミ。結局、帰還許可証の実物は届かないまま、今日を迎えてしまったね」


言われて僕は、パチクリと目を瞬いた。


そうだ、期間許可証。

すっかり忘れていたけれど、たしかに彼の言うとおりだ。


『種々の用事を片付けおえたら、許可証を届けにくる』

ワタリガラス大公は間違いなくそう言っていたのに、約束は果たされないままになっている。


「忙しかったのかな?」


僕は思いついたことを口にして、肩をすくめた。この事態をそれほど深刻にはとらえていなかったのだ。しかしウィルはというと、どうにも釈然としない様子だ。


「儀式の準備もあるから、忙しいには違いないのだが。グリモーナの統治者たる彼が果たしてそんな理由だけで、約束を反故にするだろうか」


それも一理ある気がする。けれどやっぱり忙しかったんじゃないだろうか、と僕は思った。どんなに立派な人だって、一度や二度ぐらい、小さな約束を忘れてしまうこともあるだろう。


つまり、僕にとっては期間許可証の約束はそんなに気になることではなかった。

むしろ、もっと気になることが他にあった。


「ねえ、儀式ってどんなものなの?」


するとウィルは我に返った。彼は咳払いして気持ちを切り替えると、期待したよりもずっと詳しく儀式について説明してくれた。


「儀式とは、『この手順を踏んだ後には、必ずこの魔法が発動する』と事前に決めておくことで、魔法の失敗を防ぐ手法のことだよ。知っての通り、魔法とは想像力を駆使して発動するものだ。しかしながら、想像というのは曖昧だ。ものを浮かせたり出現させたりといった思い浮かべるのが簡単な魔法なら扱えても、複雑な魔法になると細部までその効力を詳細に思い描くことはできない。儀式はそういった複雑な魔法を使うときに、必要になるのだよ」


そう聞いて僕は息を呑む。


「僕が現世に帰るのって、儀式が必要なほど難しいことなの?」


彼はおもむろに頷いた。


「人一人生き返らせるというのは、単純な回復魔法とは訳が違う。儀式なしでは発動できない、神秘的で強力な魔法なのだよ」


心の中に、むくむくと不安な気持ちが湧いてきた。


儀式と聞いて思い出すのは、すみれのあの人との最後の記憶。

ナイフを突き立てられた、あの記憶だ。


あのときの儀式では、痛い思いをする羽目になった。

今日の儀式も、何かそういう怖いことをされるんじゃないだろうか。


そんな憂鬱な心配が顔に表れていたのだろうか。

ウィルは優しい笑顔を向けて、僕を安心させてくれた。


「なあに。儀式と言っても名ばかりで、実際それほど大仰なことは行わない。大公殿が祭壇に立ち、帰還許可証の文面を読み上げ、君がそれを耳を傾ける。たったそれだけだよ。言わば式典のような代物だ」


「なんだ、それだけか」


僕はほっと息をついた。大公の話を聞くだけならば、苦しいことなんて何もなさそうだ。安心したのが伝わったのか、ウィルは陽気に宣言した。


「さて、私はいつもの黒い仕事着ローブを取ってこよう。あれは死神にとっての正装だ。最後ぐらい、きちんとした格好で君を見送らなくてはね」

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