第90話 叱責
「ハリスか・・・・・・今この瞬間、最も会いたくない人ランキング堂々の第一位かもしれない」
オリオが率直な感想を述べると、ウィルは神妙な顔をした。
「私もだよ」
ウィルはそれから、少し恨めしそうな視線を向けてくる。
「君たち。今回の件はちょっとやりすぎたんじゃないのかい? あの男をあれほど怒らせるなんて、並大抵のことではないよ」
言われてみれば、ハリスが柔らかい物腰でジュリアを渡せと要請してきたり、朗らかな口調でこちらの要求を跳ねつけたりしたことはあったけれど、怒った顔をしているところや、声を荒げているところは今まで見たことがない。楽しみにしていた雪のような病の木が枯れてしまったときでさえ、残念がりはしたけれど、怒った様子は見せなていなかった。
その彼があからさまに機嫌が悪いとなると、確かに相当なことだ。今になって、自分がどれだけ迷惑をかけたのかが身に染みてきた。
「「ごめんなさい」」
僕たちはしおらしく、声を揃えて謝った。
「まあ、しばらく放っておいたら彼の機嫌も少しは落ち着くだろうから、それまでは様子見だな・・・・・・」
ウィルがそう深々とため息をついたのは、つい先程のこと。
にもかかわらず、僕は一人で植物園の前にやってきていた。
ウィルの考えに従って、一度は部屋に戻ったのだ。でも、そうやって植物園から意識を離そうとすればするほど、ハリスのことが気になって、もう何をするにしても手がつかなかくなってしまった。
だって実際、僕は咎められるほどのことをしているのだ。それなのに、自分は安全地帯に隠れているだなんて。僕が自分自身に耐えられなくなるのは時間の問題だった。
恐る恐る植物園の扉を押し開ける。
すると、中はいつもとまるきり違う雰囲気になっていた。円形の壁沿いに並ぶ木々と、真ん中にある作業台の間に、無数の青い光が浮かんでいたのだ。いや、ただの光じゃない。それらは全て、空中に書かれたメモ書きだった。空間のありとあらゆる場所に、ぎっしりと、難しそうな単語や数式が並んでいる。それら全てはおそらく、作業台の椅子に座って難しい顔をしているハリスによって書かれたものだ。
扉が開いたことに気がついて、彼はふっと顔を上げた。
目と目が合う。
彼はその目を冷たく光らせながら、口元を吊り上げた。
「やあやあ、ロミ。先日はよくもやってくれたね」
「その節は本当に、申し訳ありませんでした」
視線の圧に射すくめられて、体が反射的に動く。
彼は僕から目を離さずに、肩までかかる長い髪を巻き込みながら頬杖をついた。
「研究所に勝手に忍び込むだけでは飽き足らず、そこを戦場にしてしまうとは、一体どこの野蛮人なんだい君たちは。床にぶちまけられた血痕をきれいに掃除するのが、どれだけ大変だったか! 君、知っているかい? 血痕ってやつは、普通の汚れよりも段違いに落ちにくい上に、一滴でも残すと不快極まりないんだよ」
いつもは軽やかなその口調には、刺々しい愚痴っぽさが混ざっている。
それに、彼の言い分はもっともだと思った。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
僕は心の底から、そう繰り返す。
彼はその様子を見て何を思ったのか、視線の圧が少し緩んだ。
「まあいい。折角来たんだ。ゆっくりしていきたまえ」
彼はまるで自分がその場所の主であるかのように、作業台の横に余っているもう一つの椅子を指し示した。もちろん僕に拒否権はないし、そんな意思もない。ああ、この椅子に座るときは、大抵もう片方の椅子にとんでもなく緊張する相手が座っている気がする。
「あの、今日はどうしてここに?」
おずおずと こちらから話題を切り出すと、彼はボソリと低く呟いた。
「逃げてきたんだよ」
「え、何からですか?」
「会議だよ」
「か、会議?」
「そう。君たちがいとも簡単に研究所に侵入してくれたせいで、研究所の警備体制を強化するべきだという議論が持ち上がった。そのための会議にボクも呼ばれていたんだよ」
「えっと、行かなくてよかったんですか?」
尋ねると、彼はまた作業台に頬杖をつく。
「そんなものにボクが出席して、何になると思う? ボクは病木の専門家であって、警備に関しては素人だ。そんなことに時間を使うぐらいなら、これまでの実験結果の見直しでもしていた方がよほど有益だよ」
彼は周囲に浮かんでいるメモ書きや、作業台に広げられた大量の紙面を示して言った。この膨大な情報量全てが、彼の研究の軌跡。その事実に 僕は圧倒される。
ハリスは続けた。
「幸い、研究所の死神たちは、ボクがウィルと親密でないことぐらいは知っている。きっとここまでは探しに来ないだろうから、ここは緊急避難場所に うってつけだったというわけさ。ウィルと顔を合わせるのは、不本意だけどね」
彼は言いながら、本当に不本意そうに眉をひそめる。
そこまでして作業を止めたくなかったのかと思うと、僕はまた申し訳ない気持ちになった。彼の病の木に向き合う姿勢は、どこまでもまっすぐだ。
「いろいろ迷惑かけてしまって、すみません」
僕はまたしても謝ることしかできなくて、さらに申し訳ない気持ちが深まっていく。ハリスは軽く息をついた。
「全く。散々だよ。この上、もしジュリアが切られでもしていたら、ボクは君の魂を呪い漬けにして、病木の肥料の足しにするところだった」
病の木には、病気や呪いに冒されて腐ってしまった人間の魂を栄養として与える。彼が言っているのは、つまりそういうことだろう。
一歩間違えば、僕は今ごろ肥料になっていたというわけだ。
さらりと発された言葉の恐ろしさに返す言葉を失っていると、ハリスは僕の反応を楽しんでいるかのように、ふっと笑った。
「冗談だよ。無闇に人間を殺したら、また神にお咎めをくらってしまうからね」
なんだ冗談だったのか。よかった。
そう息を吐くと同時に、次なる不安が湧き上がってくる。
僕は思わず呟いた。
「また・・・・・・?」
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エピソード見返し情報コーナー:
楽しみにしていた雪のような病の木が枯れてしまったときでさえ、残念がりはしたけれど、怒った様子は見せなていなかった。→ 『第50話 効率』
ああ、この椅子に座るときは、大抵もう片方の椅子にとんでもなく緊張する相手が座っている気がする → 『第32話 雪のような木』
32話では、ハリスではなく ティルトに座れと命令されていました。
座らされがちなロミ、かわいいですね(自画自賛)
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