前夜
第88話 偽善
マキはベッドに肘をついて、右手に顎を乗せた。その腕には、春の葉っぱの色をした髪が さらりと かかっている。
「何はともあれ、ジュリアを失わずに現世に帰れて、良かったね」
そういって彼女は僕に、柔らかな視線を投げかける。僕は小走りに、彼女の元へ向かって、さっき受け取りを拒否された感謝の言葉を、もう一度彼女に送りなおした。
「本当にありがとう、あのときジュリアを守ってくれて」
もしマキがあのときジュリアを守ってくれていなかったら、僕は帰還許可証のことをこんなに喜ぶことができなかっただろう。僕が嬉しいのは、ただ現世に帰れることじゃない。ジュリアを傷つけずに現世に帰れそうだということなのだ。
しかしまたしても、彼女は視線を落とした。
「偶然いい結果になっただけ。私がジュリアを守ったのは、ただの偽善」
横で僕たちの会話を聞いていたオリオが、「偽善」と繰り返した。
「そういえば、ティルトがそんなこと言ってたね。ジュリアのことを守るのは、ロミのためにならないって」
するとそれが図星だったのか、マキの表情が少し引きつる。
「そう。それそれ。癪だけど、アイツの言っていたことは正しいと思う」
そうやって彼女が自分を嘲笑うような笑い声を立てるので、僕たちは彼女の元気がなかった理由はこれだと 確信した。言葉では『癪だ』なんて言っているけれど、マキの声は苛立っているというより、打ちのめされているようだった。
彼女は静かに、これまでの自分の行いを振り返った。
「『ジュリアには木の精霊がいる』ってロミが私に打ち明けたときから、何かがおかしいって気づいていた。『ジュリアの魔法性症状は幻覚だ』と知って、その違和感はほぼ確信に変わった。でも私は そのことを言い出せなかった。ロミの大切なものを否定するのは、優しさに欠ける行為だと思ったから。でもそれは間違いだったの。私は、ロミのことを間接的に見殺しにしているようなものだった」
それは違う、と僕は口を挟もうとした。
でもそれより前に、彼女はより一層激しい口調で言葉を継ぐ。
「もし、私がもっと早く指摘していれば、ロミは今頃もう ジュリアを切り倒して現世に帰っていたかもしれない。ここにいたら死んでしまうかもしれないんだから、絶対そっちの方がいいに決まっている。なのに、そうしなかったのは、きっと自分が悪役になるのが嫌だっただけ。そんな勝手な都合で、私はロミを殺してしまうところだった」
マキはそれきり、俯いて動かなくなってしまった。その沈黙には今の彼女の気持ちが、痛いほどににじみ出ていた。
マキがこんなに思い詰めているのは、きっと言葉通りの後悔だけのせいではない。
マキは、他の死神たちや人間たちを助け導くことができるような死神になるのが目標だと言っていた。そのために強さが必要なら、どんな鍛錬にも耐えてみせるとも。
それなのに、彼女は自分の心の弱さのために、僕という人間を見殺しにしようとしてしまった。自分が一番、誇りを持っていたことを、彼女は貫けなかったのだ。少なくとも、彼女はそう思っている。
でも僕には、彼女が誇りに背くようなことをしていたとは思えなかった。
「ねえ、マキがジュリアのこと隠していたのは、そしてジュリアのことを必死で守ってくれたのは、目の前にいる人間に、僕に、傷ついてほしくなかったからなんでしょ? それが本物の優しさじゃないなら、一体なんだっていうの」
オリオも すばやく二回、頷いた。
「そうだよ。他人の大切なものを守るために、秘密を自分だけにとどめて、そんな大怪我まで負って、それが偽善だなんてありえない。確かにティルトがジュリアを切ろうとしたのは、彼なりの正義だったんだと思うよ。でもマキがここまで やってきたことだって、立派な優しさだし、強さだよ」
それから僕たちはゆっくりと待った。
この想いが彼女の中へと染み込むまで。
その顔にふっと、この日初めての心からの笑みが浮かんだ。
「そう」
マキはただ短く言った。研究所に行ったときからずっと張り詰めていた心がやっと緩んだのか、その声には安堵がにじんでいた。ふうっと息をついてから、再びこちらを向いた彼女の瞳には、いつもの力強い光が宿っていた。
「二人とも、今日はお見舞いに来てくれて ありがとう。でも私はもう大丈夫。だから今は早く帰って、ウィルにも帰還許可証のことを知らせてきなよ」
僕たちは揃って頷き、それからマキの家をあとにした。
しかし帰った先で待ち構えていたのは、予想外の展開だった。
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作者コメント:
例によって、過去シーン見返し用情報を並べておきます。
ティルトが「お前の優しさは偽善だ」と自論を展開していた場面:第80話 決闘
『ジュリアには木の精霊がいる』ってロミが言ったとき、何かがおかしいって本当は気づいていた by マキ:第54話 同盟
『ジュリアの魔法性症状は幻覚だ』と知って、その違和感はほぼ確信に変わった by マキ:第74話 助っ人
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