第79話 狂気

忍び込んだ研究室は夢の中と違って、それほど殺風景ではなかった。研究対象の植物たちに加えて、ハサミ、シャーレ、試験管、顕微鏡、とにかく植物の分析に必要そうなありとあらゆるものが、整然とあるべき場所に収まっている。


窓から差し込む月明かりだけでジュリアを探し当てるのは難しかった。かといって部屋の明かりをつける勇気はなかったから、僕はたくさんある植物の鉢を一個一個回って確かめた。


「ジュリア、どこにいるの?」

「こっちよ」


どこかから声が聞こえた。部屋全体にサッと注意を走らせる。

間違いない、今のはジュリアの声だ。


「こっちって?」

「ここよ!」


声がする方を振り返る。


するとそこにはジュリアがいた。


彼女はいつも通りの儚い気配をまといながら、月の光がよく当たる大きな台の上に、ちょこんと腰掛けていた。


「やっと見つけた!」


ジュリアの元に駆け寄った。彼女も台を飛び降りる。僕たちは、彼女の本体である美しい病の木の前で再会した。


夢じゃない。

今度こそ現実に、僕たちは会えたんだ。


ハイタッチをするように、ジュリアと両手を結び合わせた。

両手がじんわりと温かくなる。

指先が溶けてしまいそうなほどの、優しい温かさだ。


「ロミ。会いたかった。私、あなたのことが恋しくてたまらなかった!」

「僕もだよ、ジュリア。だからこうして、迎えにきた」


暗闇の中。たった独り。孤独と恐怖を耐え抜いたジュリア。

でも、もう大丈夫。ジュリアは独りじゃない。


そう伝えるのには、微笑みかけるだけで十分だった。


彼女は葉にかかる朝露のような涙を浮かべて、泣き笑った。


「もう。私がロミに会いにいくから、心配しないでって言っていたのに」

「ごめんよ。でも、どうしても待ちきれなくなったんだ」


「あら、のんびりした性格だと思っていたけれど、案外せっかちなのね?」

「ふふ、そうかもね」


彼女は指の先で涙を払った。


「私、本当はとても怖かった。あなたに迎えにきて欲しかったの」

「うん。分かってるよ。だから一緒に帰ろう」


「ええ。ありがとう、ロミ」

「どういたしまして」


ジュリアが満開の花のように微笑む。

つられて僕も笑顔が溢れてくる。


幸せだけに満たされた時間が、束の間、二人を包み込む。


そのとき。

僕はうなじに突き刺さるような強烈な視線を感じた。


まさか、もう追っ手が来てしまったのだろうか?

不安に駆られ、弾かれたように身をひるがえす。


すると、そこに立っていたオリオと目が合った。


僕は胸を撫で下ろした。

なんだ、彼が見ていただけか。


しかし、すぐに異変に気づいた。


オリオの目が、まるで幽霊でも見たかのように大きく見開かれている。

見開かれた目が、真っ直ぐに僕を見ている。


「どうしたの?」


心配になって尋ねると、彼は息を呑んだ。そのまぶたが忙しなく、閉じたり開いたりを繰り返す。彼は恐る恐る口を開いた。


「もしかして、今、君にはジュリアが・・・・・・若木ではなくて、少女の姿のジュリアが見えているの?」


そういえば、ジュリアは僕以外には見えないんだっけ。彼を安心させるため、僕は落ち着いた声で説明した。


「そうだよ。ごめんね。ジュリアに会えたのがあまりに嬉しかったから、伝えるのを忘れていた」


オリオは震えるように首を振った。僕は不思議に思う。

なぜ彼は、こんなに怯えた目を僕に向けるのだろう。


「オリオ、どうしたの? 正直に言ってよ」


彼はゴクリと音が鳴るほどに唾を飲み込んだ。


「ジュリアはロミ以外には見えない。分かってる。分かってるけどさ」


彼は目を閉じて深呼吸をしてから、その手をグッと胸の前で握り込んだ。


「僕には、君が何もない虚空に向かって話しかけているように見える。何もない場所に、君は涙を浮かべながら微笑んでいる。今の君は、まるで、まるで」


取り乱した声。青ざめた表情。

その口から飛び出した言葉が、僕の心を平手打ちした。


「気がふれてしまったみたいだ」


言葉を失って、オリオを見つめ返した。


その瞳の中には、困惑顔の僕だけが映っている。

その瞳の中では、僕の背後には誰もいない。


引きつるような恐怖を感じて、僕はパッと振り返った。


「ジュリア!」


しかしさっきまで彼女がいた場所には、誰もいない。

ただ見慣れた病の木が一本、立っているだけ。


「ジュリア? どこに行ったの?」


僕は右往左往と、少女の姿を探した。

しかし、どこにも見当たらない。


焦る僕の脳内に、一つの記憶が蘇る。

前にも一度、ジュリアが姿を消したように感じたときがあった。


植物園でウィルに問いかけられたときだ。

『ロミ、さっきから一体、君は誰と話しているのだ?』

あのときのウィルは、今のオリオと同じ目をしていた。


次第に僕は、自分が侵入者であることも忘れて、ありったけの声で叫び始めた。


「ジュリア! ねえ、返事をして! ジュリア!」


そのとき。


「ロミ!」


反応があった。

ハッと声のした方を見ると、そこには少女の姿のジュリアが立っていた。


ああ、良かった。

彼女はそこにいる。

消えてしまってなどいない。


「もう。急にいなくなったりしないでよ。びっくりしたんだから」


僕は彼女にぎこちない笑みを向けた。

彼女は静かに、例の花のような愛しい微笑みを返す。


「もしジュリアが本当にいなくなったりしたら、どうしようかと思った」


そう言って、僕は額に張り付いた汗を拭った。


そのとき突然、ジュリアがハッと表情を凍りつかせた。

彼女はまるでガラスが砕け散るような甲高い悲鳴をあげた。


「嫌! やめて!」


驚いて彼女の視線の先を見る。


ジュリアが見ていたのは、彼女の本体である美しい病の木だった。

そしてその後ろには、氷のように冷たい表情のティルトが立っている。


彼はジュリアの幹に向けて、持っていた死神の鎌を勢いよく振り抜いた。







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作者コメント:

『ロミ、さっきから一体、君は誰と話しているのだ?』がどこのシーンか気になって眠れない読者様へ。


めちゃくちゃ真剣に本作を読み込んでくださって、本当にありがとうございます。『第48話 違和感』 です。

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