第70話 圧迫
マキが乗ってきた黒い馬車に二人で乗り込んだ。馬車は森のへりに沿った小道を走っていき、あっという間に彼女の邸宅が見えてくる。
マキは馬車の窓から身を乗り出した。
「ハリス。もう来てるみたい」
反対側の窓から目的地の方を確認すると、開け放たれた門の前には、すでに別の黒い馬車が一台止まっていた。きっとハリスが乗ってきたものだと、ごくりと唾を飲み込んだ。
馬車を降りて、小走りに足を動かした。門の向こうには、まるで王宮のような華やかな庭園が広がっている。ザクリと靴音を立てながら庭園に足を踏み入れると、道の両側に散りばめられた赤と白の花々が、やけに眩しく視界の端を突っついた。
斜め前を走るマキが、様子を伺うように振り返った。
「緊張してる?」
「うん。かなり」
僕は正直にうなずいた。庭園の奥にそびえる純白の館のどこかに、ジュリアを奪っていった死神がいる。そう思うと、僕はまるで自分が初陣に出る兵士になったかのように感じるのだ。
ジュリアを返してほしいなんて頼んだら、ハリスは疎ましがるだろう。少なくとも以前のように、気さくに話してもらえる雰囲気にはなりそうもない。
「緊張したって構わない。でも、あいつに屈するのだけはナシ。いい?」
マキは深海色のローブをはためかせながら、試すように問いかける。
僕は手に力を込めた。
「もちろん。そのつもりだよ」
玄関ホールにたどり着いた。白い大理石の壁に、神殿のような柱、そして赤いカーペット。格式高い空気に囲まれて、二人は足を止めた。
「客人が使う出入り口はこの玄関しかない。だからここで、ハリスが戻ってくるのを待ち伏せするよ」
マキの提案に、僕は従った。
物音ひとつしない空間で、黙って待ち続けた。廊下の奥を今か今かと見つめるうちに、指の間に汗がにじんでくる。
ハリスはジュリアを返す気になってくれるだろうか。
いやそれ以前に、彼は僕の話を聞いてくれるだろうか。
彼にはこちらの言い分を聞くメリットは全くない。
それにたとえ無視されなかったとしても、せっかく手に入れたジュリアを返せなんて言われたら、彼は腹を立てるかもしれない。あの赤い月のような瞳で睨みつけられたら、きっと喉はたちまち震えて、言葉を発さなくなってしまうだろう。
ここで失敗したら僕はジュリアからまた一歩遠のいてしまうというのに、考えれば考えるほど彼を説得するなど不可能に思えてくる。
静かに過ぎていく時間が、少しずつ心を圧迫して縮めていった。
そんな永遠にも思われる静寂のあとようやく、トントンと規則的に床を打つ音が廊下の奥から近づいてきた。やがて、音の主がその姿を現す。
端正な顔立ちに赤い瞳を宿した死神が、そこにいた。
彼は一人だった。きっと何度もここに来ているのだろう。家主の案内がなくとも、彼は迷う様子もなく一直線に歩いてくる。
僕は意を決して、彼の行手に足を踏み出した。マキがその横にピッタリと続いて、二人で廊下に並び立つ。
「ハリス」
呼びかけると彼は、目の前に人がいることに今初めて気がついたというように足を止めた。
彼が口を開きかける。
僕はどんな冷たい言葉が飛んできても心が折れないように、グッと足を踏み締めた。
しかし。
彼は意外にも、軽やかな物腰でヒラヒラと手を振った。
「やあやあ、ロミ。それにマキ嬢。二人揃ってそんな深刻そうな顔をして、一体どうしたんだい?」
彼はまるで僕たちの間には何もなかったかのように、柔らかい笑顔を浮かべていた。
意外なことに、心に巣食っていた不安な予想は外れたみたいだ。
僕は肺に溜まった重たい息が、溶けるように出ていくのを感じた。
「今日は、ジュリアのことでお話があってきました」
僕は早速、本題を切り出した。
ああ、とハリスは頷く。
「先日は急にカラスがたくさん押しかけていったから、驚かせてしまったかもしれないね。まあしかし、安心したまえ。ジュリアは研究所でも元気にしているよ」
彼の声は温和そのものだ。全く後ろ暗いところを感じさせないその態度に、僕は困惑した。てっきりジュリアの話をしたら、もっと気まずい空気になると思っていたのに。
「あの、カラスのことは平気でしたし、ジュリアが元気なのは安心しました。でも僕が言いたいのはそうじゃなくて」
出鼻をくじかれ、まごつきながらも、視線だけはしっかりと彼の赤い目に注ぎ込む。
「ジュリアのことを、返していただくことはできませんか?」
「それはできないよ」
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