第57話 人の心
ウィルにティルトからの手紙を手渡すと、彼はその短い内容を間違いのないように何度も読み返した。そして、ティルトが本当にオリオの師匠を引き受けるつもりだと確信すると、手紙を置いて天井を見上げた。
「自分で話を振っておいてなんだが、ティルトよ、一体何があってそんな殊勝な心変わりをしたのだ。さっぱり分からんぞ」
「もはや怪奇現象だよ、こんなの」
と、ティルトの善意かもしれない提案を、オリオは失礼なやり方で否定する。
僕も九割ぐらいこれは怪奇現象の類だろうと思っていたけれど、残りの一割の部分で、この手紙は文字通りに受け止めていいのではないか、という考えが引っかかっていた。その一割は、人を疑いたくないと思ってしまう僕の心の隙かもしれないし、ジュリアのことを剪定してくれた彼への、ほんの少しの感謝かもしれなかった。
何はともあれ、ウィルはこの誘いを受けいれ、スティクス川へ行くことに決めたようだった。彼は言った。
「オリオ、使うかもしれないから練習用の鎌を持っておいで」
スティクス川というのはどこにあるのだろうと思っていたけれど、ウィルが案内したのは僕が最初に目覚めた場所に流れていたあの小川だった。ジュリアと出会った橋のあるところまで歩いたあと、橋は渡らずにそのまま下流の方へと進んだ。
下流に向かうほど、森は深くて暗い緑に包まれた。地面を覆う短い草は、日の光が当たらないせいか少し湿っている。落ちていた枝が、足の下でメキッと不気味な音を立てた。
さらに数分、小川に沿って歩いた。すると川のほとりに、イチョウの葉のような形に開けた場所が出てきた。川と森に囲まれたそのささやかな広場には、慎ましい小屋があった。
先頭を歩いていたウィルが振り返った。
「君たち、到着だ。ここがティルトの住まいだよ」
オリオと僕は、サリアの家に訪れたときとは違う意味で目を見張った。
あの真っ赤なジャケットに身を包んだ彼が、こんな童話的な小川のほとりに住んでいるなんて。何というか僕は、ロック歌手の部屋にテディベアが飾ってあるのを見たような気持ちになった。
ウィルは小川の向こうに広がる、鬱蒼とした森に目を向けた。
「他の地域であれば、もっとマシな空き物件もあったのだが、スティクス川のほとりはこの一軒だけでね。彼は住居の雰囲気よりも、立地を重視したようだ」
「立地? ということは、ここは何か特別なところなの?」
尋ねるとウィルは、小川を指し示した。
「言い伝えでは、この川は現世とグリモーナの境界線とされている。実際、生死を彷徨っている人間の魂は、この川沿いの地域に流れ着くことが多い。ロミもそうだっただろう?」
「そうだね」
と答えて、青白く光る水面を見つめた。僕はこの川にかかる橋を、向こう側からこっち側へと渡ってきたのだ。
「川の向こうは現世なの?」
僕は噂話の真偽を確かめるような気持ちで尋ねる。
ウィルは首を振った。
「いや。実際はただ、小川の向こうには延々と森が広がっているだけだよ」
「そうなんだね」
期待はしていなかったので、僕は穏やかに返した。
「何にせよ、生活するには不便そうな場所だ」
オリオが現実的な感想を述べた。
ウィルがノッカーをコツコツと叩くと、扉が外側に開いて、ティルトが姿を現した。彼は後ろ手で扉を閉めながら、小屋から出てきた。同じく背後に置かれた反対側の手には、いつもの鋭い死神の鎌が握られている。
「手紙は見たよ。あれは本当かい?」
ウィルが挨拶代わりに尋ねた。
しかしティルトは質問に答えなかった。
「あんたには、一つ言っておきたいことがある」
「なんだい?」
「俺はやはり、人間が死神の世界に定着するのは間違っていると思う。即刻、追い返すべきだ」
オリオが隣で練習用の鎌を握り直した。
ピリリと森の空気が緊張する。
ティルトは構わず、ウィルだけを見て続けた。
「俺なら、無理やり引っ張ってでも、一生恨まれようとも、人間は一人残らず現世に送り返す。現世で悪霊化する可能性があろうが、もう一度死に戻る羽目になろうが、そんなことは関係ない。ただこの鎌で首を切って、魂を現世に追い返す。逆になぜあんたは、そうしないんだ?」
ティルトの目はいつになく鋭くて、そしていつもほど冷静ではないように見えた。
僕は首に当てられた鎌の感触をまた思い出して、じっとりと汗がにじんだ。隣ではオリオが鎌を握る手に力を込めている。
この場で普段通りの穏やかさを保っていたのは、ウィルだけだった。彼だけは、むしろ優しい目をしていた。
「実に君らしいアイデアだね、ティルト。しかし私には分からないのだよ、君がどうしてそこまで、現世で生きることにこだわるのか。オリオもロミも、現世の肉体は眠ったままで動かない。しかしこの世界にいる限り、魂だけはこうして自由気ままに過ごすことができるじゃないか? 彼らを無理に現世に戻すことに、私は意味を感じないよ」
ティルトはウィルの話を、真剣な表情で聞いていた。
僕は二人の死神を見比べた。二人の間には、敵意が行き交っているわけではなかった。お互いに相手の意見を一理あると思っていて、その上で自分の意見の方が理にかなっていると相手に分かって欲しがっている。そんな気がした。
ティルトはしばらく黙っていたけれど、諦めたようにため息をついた。
「あんたには、人の心ってのはないのかよ?」
ウィルは肩をすくめた。
「死神だからね」
二人の会話を理解するのは、難しすぎる単語で書かれた本を読むように感じられた。
ティルトがそれ以上何も言わなかったので、ウィルは再びスタート地点に戻った。
「それで、君は本当にオリオの師匠を引き受ける気になってくれたのかい?」
ティルトは口を開いた。
「それは」
カァ!
ティルトが言いかけた言葉は、突然やってきたカラスの大声でさえぎられてしまった。
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