第55話 棺桶
次の日。
「起きて、ロミ。早く起きてってば!」
僕は揺り起こされて、目が覚めた。
ぼやけた視界を、目をこすって振り払う。白い天井には、まだ朝焼けの薄明かりが反射している。
「ロミ!」
もう一度、僕を呼ぶ声が聞こえた。
寝ぼけたまま顔を動かすと、紫色のワンピースとウェーブのかかった長い髪が視界に入った。視線を上げると、朝焼けにきらめく宝石のような瞳がこちらを見下ろしている。
そこに立っていた少女は、僕の肩をわさわさと揺すった。
僕は少女の名前を呼んで、起き上がった。
「ジュリア」
彼女と植物園以外の場所で出会うのは、夢の中を除けばこれが初めてだった。しかしジュリアがここにいることに、僕はそれほど驚かなかった。彼女だって植物園の外に出たくなることくらいあるだろう、それくらいにしか思わなかった。
「早起きだね」
ベッドの上から微笑みかけると、彼女は僕の右手を引っ張った。
「そうなの、早起きしたの。だって今日の私は特別なんだから。ロミ、今すぐ植物園に来てちょうだい!」
手を引かれるがままに、僕は植物園に向かった。作業台の前で立ち止まったジュリアは、ポップコーンが弾けるように、喜びと期待にはずんだ様子でこちらを振り返った。
「ロミが私と一緒にいたいのと同じだけ、私もロミと一緒にいたい。だから私、頑張ったの。これであの無情な植物学者は、ぐうの音も出ないはずよ!」
彼女は体を一歩横に動かして、両手で作業台の上の若木を指し示した。
「わあっ」
僕は思わず若木に駆け寄った。
若木の枝の先には、最初の一輪の花が開いていた。
それはピンクがかった紫色の小さな花びらが集まってできた、可愛らしい花だった。バラよりもみずみずしく、すみれよりも儚いその花は、少女の姿のジュリアをそのまま花にしたようだった。
ジュリアは僕の反応を見て、えっへんと胸を張った。
「ハリスは『これから花を咲かせようという若木にとって栄養不足は致命的だ』なんてロミに吹聴していたけれど、栄養不足だなんてとんでもないわ! 研究所なんかに行かなくても、私、ここで十分咲き誇っていられるんだもの」
咲いたばかりの花は、小さいながらも一生懸命、その顔を太陽に向けている。
「すごいよ、ジュリア!」
できることなら世界中のあらゆる褒め言葉で、彼女を褒めちぎってあげたかった。だけれどあまりに大きな喜びが一気に心に溢れたせいで、言葉を紡ぐ機能が埋もれてしまったようだった。
だから僕はもう一度、同じことを言った。
「すごいよ、ジュリア」
彼女は足取り軽く僕の手を引いて、植木鉢のすぐ近くまでやってきた。
「もっとよく見て。ロミのために頑張ったんだから」
彼女に促されるまま、その一輪を特等席で愛でた。顔を近づけると、ふんわりと甘酸っぱい香りがした。初めて出会う香りのはずなのに、ほんのり懐かしい気持ちになる。
その瞬間、心臓にズキンと鋭い痛みが走った。
反射的に、パッと花からあとずさった。
それからドキドキと脈打つ心臓を抑えるように、胸に手を当てる。
花の香の中で感じた一瞬のうずきは、心臓をナイフで突かれる感覚に似ていた。そう、記憶が戻ってくるときに感じる、あの感覚。
そう気づいた途端、記憶の中で聞いた声が蘇る。
ねえ、ロミ。あなたは私の大切な人みたいに、急にいなくなったりしないって約束してくれる?
実を言うと、ここ最近、現世で待っているはずのすみれの女性のことを考える時間は、日に日に少なくなっていた。
彼女のことを考えないようにしているわけではない。ただ、グリモーナで出会った人々との日常や、ジュリアとの思い出がたくさん積み重なって、彼女と僕の心の距離を遠くしていた。最近の僕は、自分の命が風前の灯だということを忘れて、この世界での生活にすっかり馴染んでいた。
ジュリアの花に視線を向けた。
この美しい花を見るという、ジュリアとの約束を僕は果たした。次は、すみれの女性との約束も果たさなければならない。
覚悟を決めてきつく目をつぶると、いつもの強い痛みが僕の心臓を貫いた。
目を開けると、そこはサリアの家で思い出した記憶と同じ、すみれの彼女の家の一室だった。部屋には前と同じように、本や魔道具が溢れていた。四角いテーブルの上には、前に作っていた新しい魔法の試薬も載っている。
ただ今日のこの部屋には、前にはなかったものが追加されていた。
それは、二つの黒い棺桶だった。
棺桶の蓋は開けられ、中には紫色の花が敷き詰められている。
僕はそれらに、逃げ出したくなるほどの不安を覚えた。
無意識に右足が一歩後ろに下がる。
「ロミ」
背後から声をかけられた。
ぞくっとして振り返ると、そこにはいつもの女性がいた。ブロンドのくせ毛に、黒いワンピース。彼女はまるで何かを隠し持っているかのように、両手を後ろに回している。
「新しい魔法を作っているって、言っていたでしょ。あれ、完成したの。見てもらえるかしら?」
彼女は僕に訊いた。
僕は不安を押し隠して、微笑んだ。
「もちろん。見せてほしいよ。楽しみにしていたんだ」
彼女は微笑み返した。その表情が作り物のように見えたのは、この胸を埋め尽くす言いようのない不安感のせいだろうか。
彼女はすっと指さした。
「じゃあロミ。まずはその棺桶に横になってみてくれる?」
「え」
僕は横目で不気味な棺桶を見やった。
足がすくんだ。
心が叫んでいる。
棺桶を使う魔法なんて、きっと恐ろしいものに違いない!
棺桶には入っちゃだめだ!
でも僕には、彼女の頼み事を断ることができなかった。
せっかく新しい魔法を見せてくれようとしているのに、断ったりしたら、彼女が悲しむかもしれない。
「わかった」
僕はおとなしく棺桶に横になった。
棺桶を埋めている紫の花は、甘酸っぱい匂いで僕の全身を包んだ。
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