交渉

第51話 揺さぶり

雪のような木が枯れてから、太陽が何度か顔を出しては山の端に消えていった。それと同じ回数だけ月も夜空を横切った。


日々は、平穏だった。


毎日、朝と夕方に、インクをコーヒーカップに注いで水で割り、魔法で魂をほんの少しずつ削っては混ぜ合わせる。日中は草原や森を散歩したり、本を読んだり、植物園でジュリアと話したり、ときにはオリオと街をめぐったり。


僕の周りにはずっと、なんでもない豊かな時間が流れていた。


そんなある朝。

ある変化に気がついて、僕はインクを混ぜるティースプーンを止めた。


僕は今日も植物園で、いつもと全く同じように、感情という魂のかけらを流れ星に変えた。しかし胸から飛び出してきた流れ星は、光が弱く、灰色にくすんでいた。弱々しい灰色の魂は、カップの中に落ちる前に消えてしまった。


おかしいなと首を傾げた。

今までこの魔法を失敗したことなんて、一度もなかった。


ただ魔法を失敗しただけ。それだけなのに、それで全てが崩れ去ってしまうんじゃないかというような、不思議な不安に駆られた。


インクに魂を込めるところをワクワクと眺めていたジュリアが、僕の手の動きが止まったので顔を上げた。ジュリアの作った影が、コーヒーカップの上に落ちている。


「ロミ、どうしたの?」


僕にもどうしてここまで不安になるのか、分からなかった。僕はこのやり場のないモヤモヤした気持ちを、胸に押しとどめることにした。

「いや、珍しく失敗しちゃったな、って思ってただけだよ」




そんなときだった。

植物園の扉が開いて、冷たい風と共に誰かが入ってきた。


僕は驚いてティースプーンを取り落とした。というのも今日は、ウィルは仕事で留守だったし、オリオはマキと一緒に森で魔法の特訓をすると言って外出していたのだ。落としたスプーンとカップがカチャンと衝突音をたてる。ドクンと心臓が跳ね上がる。僕は警戒した視線を扉の方に向けた。

「誰?」


そこには輝くブロンド髪に赤い目をした死神が立っていた。その死神、ハリスは僕に向かって気さくに手を上げた。

「やあ、おはよう。ロミはよく、憂いを帯びた表情をしているね。今日も恋のお悩みかな?」


なんだ、知り合いだった。

僕は頭の中で、安堵の独り言を呟いた。


驚かされた余韻なのか、心臓がまだドクドクと鳴り響く中、僕は笑みを浮かべた。

「おはようございます。今日は、というか今日も、恋のお悩みではないです。強いていうなら、僕の心配事は灰色の流れ星です」


ハリスが「流れ星?」と興味を示したので、僕は今の失敗を説明した。

内容を聞き終えると、ハリスは数秒ほど下を向いて目を閉じた。


彼は真剣に考え込んでいる様子だった。落ち着かない沈黙が植物園に満ちる。植物園の外を吹きすぎる風の音がやけに大きく感じて、僕はみじろぎした。


ハリスは沈黙を守ったままゆっくりと作業台の方へやってきて、僕の目の前に立った。見上げると赤い満月のような瞳と目が合った。彼は言った。

「流れ星とは君の感情だ。つまり流れ星とはロミの魂。それが弱まったとなると、これは一大事だよ」


僕は彼の真剣な声色に、不穏さを感じずにはいられなかった。

「一大事ですか」


不安がる僕の両肩を、ハリスは掴んだ。

「いいかい、魂というのはね、無限のエネルギー源ではないんだよ。一度削れてしまった魂が自然に治癒する速度は、極めて遅い。話によると君は毎日、ジュリアのために魂を少しずつすり減らしてきたそうじゃないか。このことから導かれる結論は一つ! 君の魂は今、削られた部分の回復が追いついていない状態なんだ!」


「つまり、魂を削りすぎてしまったってこと?」


使いすぎた消しゴムが灰色の消しクズを残して小さくすり減っていく光景を連想して、僕は身震いした。


彼は「ああ、そうだ」と小刻みに頷いて、僕に顔を近づけた。

「哀れな人間の少年、ロミ。これ以上、魂を削れば現世に帰れるものも帰れなくなってしまうぞ。そしてなにより、これから花を咲かせようという若木にとって栄養不足は致命的だ。ボクが思うに、人間である君の力だけでジュリアを育てるのは、そろそろ限界なのではないかな?」


僕は思わず、彼の赤い目から視線を逸らした。

「分かりました。それなら、ジュリアのことはウィルに任せます」


ハリスはウィルの名前を聞いて、眉を寄せた。

「いいや。いくらウィルでも荷が重いに違いないよ。なにせ病木は繊細だ。私の見立てによると、ジュリアは今まで見たどの病木とも異なる特殊な性質を持っている。専門家であるボクに任せておいた方が、安心だろうね」


僕はハリスのことを見つめた。


彼が言いたいのはつまり、ジュリアを自分の元へ引き渡して欲しいということだ。

それに気がついた僕は、思わず彼の両手を肩からひきはがした。

「ジュリアが遠くに行ってしまうのは、嫌です」


彼は僕の言葉に被せるように言った。

「大事なジュリアが、先日枯れたあの木ような姿になっても、君はいいというんだな」


僕の視界の端には、この間まで雪のような病の木が立っていた場所が、ぽっかり隙間をあけている。あの木の萎びた寂しい姿が、その隙間に見えるような気がした。


黙っていると、ハリスは最後の一言を投げた。

「君はジュリアのことが大切だと言っているけれど、本当に大切に思うのなら、すぐにでも若木を安心して育つことができる場所に移すはずだ。そうしないところを見ると、君はその木に対して随分と身勝手な愛情を持っていたようだね」


「そんな。そんなことは」

僕はその先を続けられなかった。


病の木の専門家よりも、自分の方が病の木の扱いが上手だなんてことは、到底あり得ない。


それなのに彼女を手放さないのは、僕のわがまま?

もし僕のせいで、彼女が枯れてしまったら?


ハリスはふと、普段の軽やかな口調に戻った。

「まあ、今すぐ決めて欲しいとは言わないよ。ただ、返事はなるべく早めにね。また答えを聞きにくるよ」


彼はそう釘を刺すと、俯いている僕を残して去っていった。

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