第37話 茨
やがてお医者様も病室を出ていき、鏡の中は再び静寂に包まれた。
僕はたった今見たことを、口に出して繰り返した。
「あの人が、僕のお母さん。やっぱり、僕にも家族がいたんだ」
そんな僕をよそに、ワタリガラス大公は落ち着かなげに、パサリと翼を動かした。
「妙だな。あの医者が言うにはロミ少年の肉体は概ね健全、魂も我々が目視している通り健全。こうした場合、我らが創造神は通常、すぐにでも現世への帰還許可証を発行するはずだ。それなのになぜ、ロミ少年はまだここにいるのだ」
ウィルも難しい顔をする。
「肉体の方に目に見えない異常があるのか、魂の方に我々の感知していない異常があるのか。はたまた神の気まぐれか」
僕は思い当たることを口にした。
「もしかしたら、記憶がないのが問題なのかもしれない。だって僕はまだ、ほとんど現世のことを思い出せていない。それに今だって、お母さんの顔を見たのに、僕は何も思い出さなかった」
僕は自分で口に出しておいて、あとから衝撃を受けた。
お母さんの顔を見たというのに、僕は何も思い出さなかった!
ウィルはさらに考えを巡らせた。
「死の淵に立たされたショックで一時的に記憶を失ってしまう人間など、たくさんいる。現世への帰還を妨げるような大きな問題ではないと思うが」
僕たちはそこで、アイデアが尽きて黙り込んだ。
「愛が不足してるんだよ、ロミ。君に足りないのは、真実の愛だ」
急にオリオが言ったので、僕は彼を二度見した。
「えっと、どうしたのオリオ」
「どうしたのじゃないよ」
オリオは僕の肩を熱っぼくつかんだ。
「君のお母さんは、あんまりだよ。その様子だとロミは気づかなかったみたいだけれど、病室にいる間じゅう、君のお母さんはお医者を責めてばかりで、ロミに見向きもしなかったよ! 僕のお母さんなら、絶対にそんなことはないのに。お母さんは毎日お見舞いにきて、長いこと僕の手を握っていてくれた。たった一人の病室で、それがどれだけの救いになるか、僕は知っているよ。君にはその愛が、致命的に足りないんだ」
「愛が、足りない?」
僕は言われたことをうまく飲み込めなくて、ただ繰り返した。
オリオは首が取れるんじゃないかと思うほどに頷いた。
「そう。愛だよ、ロミ。君を目覚めさせるには真実の愛のキスしかない!」
暴走気味のオリオを前に、僕には返す言葉が思い浮かばない。
「人類が本当にキスで生き返れば、どれだけいいか。私はもう二度と、人間の魂を回収するなどという味気ない仕事に行かなくて良くなるよ」
ウィルはうっかり本音を漏らして、ワタリガラス大公に厳しい目を向けられた。
鏡で見たことや、それについてみんなが話したことについて、頭の中で整理をつけているうちに、研究所から帰る時間になった。僕たちのために、大公がまた馬車を呼んでくれた。
馬がやってくるまでの待ち時間、オリオが一人でこそっと現世鏡の前に立った。
僕はそれを少し離れた位置から、横目で見守った。
すぐに鏡が波打って、波の下から現世のオリオの姿が現れた。
いや、実を言うと、眠っているのが本当にオリオなのか、鏡の映像だけでは判断がつかなかった。
というのは、彼の肉体は茨病の木の枝にそっくりのトゲトゲした黒い模様に、ほとんど隙間なく覆われていたから。
ベッドの横には、一人の女性が座っていた。彼女は茨に支配されたオリオの手を握って、穏やかで優しい声で、一方通行に語りかけている。
「お母さん」
オリオは小さく呟いた。そしてその目を伏せると、足早に鏡の前を立ち去った。
僕は何も映さなくなった鏡に、放心した視線を向け続けた。
オリオの人生の最後のページが、今にも閉じられようとしている。
部屋の外から、ウィルの呼び声が聞こえてきた。
「オリオ、ロミ、おいで。黒い馬車がお迎えにきたよ」
「はーい」
オリオは僕を置いて駆けていく。
「待って」
僕は彼の背中を、急いで追いかけた。
部屋の外に出たところで、僕は見知った人影を見つけた。
長い金色の髪とルビー色の瞳を持った死神。
ウィルとはあまり仲が良くない彼。
そう、ハリスだ。
思い返してみれば、彼は死立研究所に所属していると言っていた気がした。
ハリスはこちらに気がつくと、アーチ窓からの光を横切り、靴音を響かせながら、声をかけた。
「やあやあ、みなさんお揃いで。こんなところで出会うなんて、奇遇だねえ。幸か不幸か知らないけれど」
ウィルはハリスに口元で笑いかけた。
「本当に素晴らしい偶然だ。神はお忙しくて、我々のことまで気が回らないようだね」
それからしばらくの不自然な沈黙。
沈黙を埋める言葉を探してみたけれど、そもそも僕が話すのは場違いかも、と不安がよぎって思いとどまる。
再びハリスがウィルに向けて口を開いた。
「そういえば、君のお弟子さんが、雪のように美しい病木を見つけたらしいじゃないか。今度の休みにでも、また見にいくよ。まあボクは君よりも忙しいから、なかなか時間が取れないだろうけれど。せいぜい、それまで大切に保管しておいてくれ」
ウィルはにこやかに返した。
「ああ、君の訪問を心待ちにしておこう。さて、お忙しいところお邪魔しては申し訳ないから、我々はこれで失礼する。せいぜい、休みなく、仕事に励んでくれたまえ」
二人の静かな戦いが、ここの空気をピリピリと震わせているように感じた。
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