第27話 境界
僕はジュリアに言った。
「君はさっき、僕にお礼が言いたかったと話していたけれど、僕も君に感謝したいことがあるんだ」
ジュリアは一瞬、考えるように視線を天井に向けた。
「何かしら。私、いつもその場で、じっとしているだけよ?」
僕はクスッと笑った。
「木だからね。でも、それだけで嬉しかったんだ。あのね、覚えてる? 僕たちが出会った森のこと」
「覚えているわ」
「僕がこの世界に来て、初めて出会ったのがジュリアだった。あの森のあの場所に、君が芽吹いてくれたから、僕は一人だったけれど、独りじゃなかった。だから、ありがとう」
ジュリアは愉快そうに笑い声を立てた。
「なんだ、そんなことなの。それなら、私もあなたにもう一つ、ありがとうを言わせて。ロミが初めて出会ったのが私なら、私が初めて出会ったのもロミなのよ」
「ええ、そうなの?」
「そうなの! ロミが、生まれたばかりの私に気が付いた最初の人。私あなたと目があって、すごくすごく、嬉しかったの」
そっか、と僕は笑った。
「じゃあ、僕からもう一つ。今まで元気に育ってくれてありがとう。僕は君のことを見るたびに、何度でも幸せな気持ちになれた」
「それをいうなら、いつも面倒見てくれてありがとう、ロミ。物語のインクも、感情のこもった流れ星も、私にとってはとても大切。水だけだったら私、今頃、枯れ木だわ」
「ああ、これじゃ感謝のしあいっこにキリがないよ」
「ふふ、本当ね」
僕たちはそう言って、笑い合った。
僕は今この瞬間のこの幸せが、ずっと続けばいいのにと願った。
けれど、今この瞬間が幸せであればあるほど、次にやってくる感情がつらくなることも分かっていた。
僕はひとしきり笑い終えると、はぁと深く息を吐いた。
出ていった息の代わりをするように、心の中に黒い闇が入り込んでくる。
窓の外では厚い雲が、喜劇はおしまいだと言いたげに月を覆い隠した。
「ああ、ジュリア」
僕は思わず胸に手を当てて、彼女の名前を呼んだ。
「どうしたの?」
尋ねる彼女の背後には、あの木が、黒いとげで全身を覆った茨病の木が、真っ暗な影を落としていた。その木は、ジュリアを仲間に入れようとするように、大きく枝を伸ばしている。
「ああ、ジュリア。どうして君は、病の木なんだろう」
僕は叫び出しそうなのを、なんとかこらえて言った。
「僕は君と出会えてこんなに嬉しいのに、このまま君を育て続けたら、いつか誰かを、深く傷つけることになるかもしれない」
ジュリアは大きな目を、さらに大きく見開いた。
それから、首に残った真新しい傷をなぞった。
彼女は静かに言った。
「そうね。私自身、まだどんな病に育つのか想像もつかないけれど、もしかしたらあの茨病の木のように、恐ろしい魔物になってしまうかもしれない」
僕は目を伏せた。
「君と一緒にいたことを、後悔するときが来てしまうのが恐ろしい」
ジュリアは月の光のように儚い声で言った。
「いいわ、ロミ。もし私が、あなたを後悔させるような酷い病に育ってしまったら、ロミが私のことを切り倒して。切られても、あなたなら許してあげる。でもその時は、一思いに幹をすっかり断ち切って。そして二度と芽吹かないように、果実も全て燃やしてちょうだい」
僕はあまりのことに、首を激しく振った。
「そんな残酷なこと、君にできないよ」
それから祈るように、どうにもならないことを口にした。
「もしも君が幸せのなる木だったら、どんなに良かっただろう」
ジュリアは悲しげにささやいた。
「せめてロミを悲しませないような木でいられるよう、神様にお願いしておくわ」
窓の外では、朝焼けの雲が漂い始めていた。
「私、そろそろ行かなくちゃ」
ジュリアは言った。
「そうだね、僕もそろそろ起きる時間だ」
僕が言うと、ジュリアは笑った。
「あら、ロミって今、眠ってるの?」
「ここは僕の夢の中なんだよ」
「夢? 本当に?」
彼女はからかうように言った。
僕は手を振った。
「またね、ジュリア。起きたらインクのコーヒーを持って会いに行くよ」
ジュリアはひらひらと手を振り返した。
「楽しみに待ってるわ」
朝日が完全に顔を出して、僕たちの目をくらませた。眩しくて目を細める。目が慣れて、再びきちんとまぶたを開いたときには、彼女は消えていた。
植木鉢の中で若木のジュリアが、太陽の光を浴びて気持ちよさそうに伸びをした。
ような気がした。
僕はその木を見つめながら、夢が終わって現実に引き戻されるのを待った。
しかし、太陽が森から離れて空へと上がっていっても、僕はまだ植物園の中にいた。
不思議に思っていると、急にガチャリと植物園のドアが開いた。やってきたのはウィルだった。彼は機嫌よく鼻歌を歌っていたけれど、僕がいるのに気がつくとハッと歌をやめた。
「やあ、ロミ。早起きだね」
ウィルは言った。
僕はしばらく、ポカンとしていた。
現れたウィルは、あまりにもちゃんとウィルだった。
「あれ、もしかして夢じゃない?」
僕が頬を引っ張ると、ウィルはクイっと眉を上げた。
「もしかして早起きではなく、昨夜からここで夢にまどろんでいたのかい?」
僕は昨夜のことを思い起こした。
「いや、たしかにオリオと一緒に植物園を出たはずだよ」
でもどうやら、ここはもう夢ではなかった。
暗闇を歩き回ってからジュリアと別れるまでの間のどこかで、夢は現実に切り替わっていた。
でも、僕にはその境界線がどこにあったのか、どうしても分からなかった。
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