第49話:この先も続いていくもの

 東京都港区赤坂トゥリアトリーホール。私はピアニストとしてここに帰ってきた。私がアラン先生の生のピアノを始めて聞いた思い出のコンサートホール。大悟と会うことで自分のピアノが変わったことが実感できた思い出のコンサートホール。私は、今、万感の思いをこめ、ゆっくりとグランドピアノに向かう。


 リニューアルをしたためか、十二年前と照明や舞台の雰囲気は違うものの、コンサートホールを満たすお客さまの熱意と期待はあの時となにも変わらない。もしかしたらあの時以上なのかもしれない。まるで私が帰ってくるのを待っていてくれたかのような……、そんな空気がそこにはあった。


 観客席はお客さまで埋まっている。二〇〇六席の観客席が全部埋まっている。私はその光景を見て涙があふれそうになる。でも今はダメ、たとえ泣くとしても演奏がすべて終わってから、そう決めているんだから。


 私は満員の観客席にむけ一礼すると、静かにピアノの前に座り大きく深呼吸をする。今日はいつものショパンじゃない。今日演奏するのはベートーヴェン。ピアノソナタ第二十九番、変ロ長調、作品一〇六、ハンマークラヴィーア。


 あまりにもの難曲で、当時、人が弾くのは不可能と言われた曲。ベートーヴェンが「五十年てば人も弾く」と断言し、一切の妥協をしなかった名曲中の名曲。そしてその二十年後、私が尊敬するクララ・シューマンがレパートリー化し、各地で演奏した名曲。まさに私の復帰を飾るのにふさわしい曲。


「大悟、ちゃんと見ていてくれている?」


 私は、小声でそうつぶやいて観客席を見る。すると私が用意した席に大悟はちゃんと座ってくれている。私も大悟に負けるわけにはいかないからね。私は心の中でそうつぶやくと、その指で鍵盤をたたく。


 序奏がなく、激しくたたきつけるような第一主題から始まるこの曲は、私がフレデリック国際ピアノコンクールに勝った時の喜びを表現するかのような激しい衝撃から始まる。そしてそれは希望に満ちた短い音楽で、それを少しずつ積み重ねる音楽で……。まるで私のピアニストとしての人生が順調に積み重なっていくような期待がこもっているかのような音楽で……。私はその旋律に、当時のフワフワとした期待感を力いっぱい込めて、やっと夢を掴んだ喜びの感情を力いっぱい込めて、一気に第一楽章を弾ききった。


 続けて始まるのは第二楽章、明るい曲調で高揚感のあるフレーズを繰り返すカノン形式は、Mianミアンで倉木さんと出会ってから一気にひらけた大悟の画業のようで……。マチアス先生に認められ、個展でも成功し、そんな様々な喜びが波のように押し寄せてきた日々のようで……。でもその合間に、私が自分の音楽の欠点がわからなかった不安や大悟の印象派の絵が認められなかった焦燥感の波も混ざっているようで……。そんなメロディーで……。私はそんな不安定で落ち着かない旋律に、あの頃の希望と不安を丁寧に丁寧に織り込んでいく。


 そして始まるすべてに絶望した第三楽章。深い悲しみをたたえた大規模な緩徐で始まるこの楽章で、今までに私達に起きた悲劇を、大悟の印象派の絵が認められなかった悲劇を、イップスに襲われた悲劇を、私が優しく丁寧にピアノに語りかけると、ピアノは声にもならない叫びで応えてくれる。


 私は細かい音楽の連続を少しずつ発展させてクライマックスを形創り、次々と新しいエピソードを紡いでいく。しかしそれは盛り上がっては落ち込んでの繰り返し。私はそこに希望があるかのような旋律で彩ってみせると、すぐにそれを打ち消してみせる。まるで手ですくった水がこぼれ落ちてしまうかのように、はかなげで、寂し気で、絶望に満ちて消えていくなにかのように……。


 最後に希望が萌芽ほうがする第四楽章。幅広くゆっくりと喜びを、大悟がイップスを乗り越えた喜びを私は力強く表現してみせる。それは徐々に速度を増してゆき、まるでこの世界に喜びを爆発させるような、そんな強い感情をこめ私はピアノをたたく。


 高音のソプラノの問いかけに低音のバスが主題を返すという旋律を何度も何度も繰り返すフーガが曲全体を包みこみ、希望にみちたエピソードが丁寧に音楽を紡いでいく。そしてそれは一音一音単位に及び、私はその一音一音を激しく強調するかのように、強いアクセントスフォルツァンドによって重厚さを加えていく。しかしその重厚さも長く続くものではなく、やがてそれは軽やかな喜びの旋律に戻っていく。やがてその旋律も疲れ果て力尽きるかのように、その緊張が頂点に達したところで一小節の全休止を迎え、終わりを告げる。


 そしてその全休止の静寂を破るのは、穏やかな表情を持つ新しいエピソード。このエピソードが生み出すつかの落ち着きは、しばらくして次第に緊迫感を増していき、テノールとバスとソプラノによる一音ずらしの和音、つまりアルペジオによって彩られていく。やがてその旋律は、テンポを最初のそれに戻すと、そこで曲の頂点を作り上げ、力強い和音によって曲を締めくくった。


 ふぅ、と大きなため息とともに曲を弾き終えた私は、自分が信じられないくらいの充足感に満たされていることを理解した。私はこの曲に十三年間の想いをこめた。そしてその想いにピアノは応えてくれた。この一点こそ、私のピアニストとしての新たな境地にたどりついた絶対的な証拠であった。


 会場から沸き起こる大歓声と信じられないくらいの拍手。まだ一曲目だというのに、最後の曲を演奏したかのような拍手とスタンディングオベーション。飛び交うブラーヴァの声。私はこの瞬間、初めて自分がクラシック音楽の世界に、ピアノの世界に帰ってきたと実感する。そしてここが新しい人生のスタートであると実感する。


 私と大悟の未来はここでは終わらない。ここから始まり、この先もずっと続いていくのだ。この世界に終わりがないように、私の音楽も、大悟の絵画もこれからずっとずっと続いていくのだ。私たちの明るい未来に向け、一直線に続いていくのだ。


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補足:このお話に対する補足のリンクです。興味があれば読んでみてください。


第49話補足:ベートーヴェン-ピアノソナタ第29番 「ハンマークラヴィーア 」

https://kakuyomu.jp/works/16817330664993422025/episodes/16817330666696561576

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