第50話:その青空の下で(完)

 天高く輝く陽の光が地中海に降り注ぎ、海面はまばゆいばかりの輝きを放っている。私と大悟は、そのどこまでも続くあおともあおともいえぬ大海原を一緒にぼんやりと眺めていた。


「どう、思い出のカフェテラスの欠片は見つかった?」


 そんな私の問いに大悟は「あぁ」と短く答え、じっと遠くを見つめている。ここはギリシャ、サントリーニ島。大悟の両親が経営していたカフェテラスの思い出の欠片が残る島。そして、たぶん、大悟が思い出の両親と会話ができる唯一の場所。


「ゆき、今日は晴れてよかったな」


「そうね。この時期は雨が少ないと聞いていたけれど、不安といえば、不安だったから……」


 私は石灰で塗り固められた典型的なキクラデス様式の真っ白なバルコニーに立ち、そのバルコニーガードに手を当てながら海の向こうに見える街並みをぼんやりと眺めていた。まるで大悟の描いたカフェテラスの絵のような、真っ白な壁と真っ青な屋根の数々を、宝石箱のように輝く海と空を、ただ、ぼんやりと眺めていた。


 私はこの美しい風景を見て、大悟の両親がなぜこの島の建物にこだわったのか理解できた気がしていた。言葉で表現するのは難しいのだけれども、遠くに見えるこの風景は、ぼんやりとぼやけて瞳に映るそれは、どんな解像度の高い風景よりも美しく、鮮明な印象を私に与えてくれているのだから……。


「なぁ、ゆき」


 ふいに隣から大悟の声。


「俺にこんな美しいウェディングドレス姿を見せてくれて本当にありがとう」


 急に真顔でそんなことを言うものだから、私は反応に困ってしまう。


「さすがにそれは……。だって、私、もう四十よ」


 私は下を向き、そう応えるのが精一杯。


「そんなことはないさ。今のゆきは、このサントリーニ島の美しさにも負けないくらい美しい。俺はそんなゆきの姿を見えただけで、わざわざギリシャまで来た甲斐があったと思っているよ」


 大悟はそう言って、静かに笑ってみせる。


「十二年も待たせてしまって本当にすまなかった。本当はもっと早くこうしたかったんだけどな……」


「しかたがないじゃない、この十二年いろいろあったんだから……。でもね、あの病気がなかったとしても、私は忙しさにかまけて結婚式をしようと思わなかったと思うの。だからそういう意味ではあの病気、あれはあれでよかったかもね。こうして私も憧れのウェディングドレスを着ることができたんだしね」


 私はそう言ってくるっと一回転してみせると、ウェディングドレスについたビーズが太陽の光を反射してキラキラと輝いた。


「今更なんだが、俺はあの時、ゆきがピアニストを辞めるというのを止めきれなくてずっと後悔していたんだ。ゆきのピアノは世界中のファンのためのものだと思っていたから、ファンにとってかけがえのないものだと思っていたから……。だから俺がそれを奪ってしまったという後悔が、いまだに俺の心に残り続けているんだ……」


「ほんと今更の話ね」


 私は思わず苦笑する。


「でもね、大悟。私も大悟が病気になるまで大悟の気持ちに寄り添うことができていなかったの。あの時の私は、大悟の絵が認められて欲しい、大悟が世界に認められて欲しい。その気持ちでいっぱいだった。だからあの時、私は選択を間違えていたのだと思うの。あの時ちゃんと大悟に寄り添えていたら、ちゃんと大悟の気持ちに寄り添って言葉を選べていたとしたら、大悟はあの病気にならなかったんじゃないか? 私の十年は、そんな後悔の繰り返しだったの……。だから私は、あの時の決断を、ピアニストをやめるという決断を後悔したことは一度もない。私はこの十年、大悟に寄り添って、気持ちに寄り添って生きてきた。この十年になんの後悔もない。これは私の本心よ」


「そしてあの決断は、私のピアノにとってもいいことだったと思っているの。だってあのまま私がピアノを続けていたとしても、今以上の名声を得ることはできなかったと思うから……。アラン先生にも指摘されていたのだけれども、私のピアノには深みがなかったの、上っ面の美しさしかなかったの。だから、もし、あのままピアニストを続けていたとしたら、私は消えゆくピアニストの一人にすぎなかったと思うの」


 私はそう言って、紺碧こんぺきのエーゲ海に視線を向ける。


「だからね、二人で過ごしたあの十年があったからこそ、あの苦しい日々があったからこそ、私のピアノは新たな境地に辿たどり着くことができたと思うの。だって昔の私だったら、多くの人の前で色々な感情を素直に表現することなんてできなかったんだし、あんな情熱的なベートーヴェンを弾くことなんてできなかったんだし……。だからあの十年は、私のピアノにとっても、私の人生にとっても、いいことだったんだと思うことにしてるんだ」


 私がそう笑顔で大悟に語りかけた瞬間、オープンエアのチャペルに夏の潮風が吹き抜ける。塩の香りが郷愁を運んでくる。潮騒の音が私の耳に心地よく響く。


「でも大悟、結婚式を企画してくれて本当にありがとう。きれいな私ではないけれど、結婚式をするというのは、女性として大きな夢のひとつだからね」


「そんなことはないさ、俺にとってゆきは美しい。それはいつまでたっても変わらない。美の女神ミューズに仕える俺がいっているんだ。それは誰にも否定できない真実さ」



Excuse meすいません、, it's almost timeそろそろお時間です。. Are you alrightよろしいでしょうか?」


 急に背後から聞こえる英語の声。今日の結婚式を取り仕切ってくれる神父の声。私はその声に明るく「yes」と答えると、神父は静かにうなずいた。


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補足:このお話に対する補足のリンクです。興味があれば読んでみてください。


第50話補足:サントリーニ島

https://kakuyomu.jp/works/16817330664993422025/episodes/16817330666793075042

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