第06話:朝陽が照らすもの

 夜のとばりが光に包まれ始めた頃合いに、私はやっとの思いでホテルに辿たどり着く。時刻は朝六時、遠くから聞こえる鳥のさえずり、車が出す遠雷の響き、空が奏でる風のざわめき。そんな音たちがこの街を彩りはじめ、ハーモニーを奏ではじめている。まるでこれから始まる一日のプレリュード前奏曲のように……


 なんとか自分の部屋に辿たどり着いた私であったのだけれども、新たな一日が奏で始めた音楽に耳を傾ける余力はさすがにない。このとき私ができたことといえば、世界が奏でる音楽に耳をふさぎ、窓のカーテンを閉めること。「はぁ」という大きなため息をつき、靴を脱ぎ捨てベッドに倒れ込むこと。


 もうダメ動けない、今すぐにでも眠ってしまいそう。そんな圧倒的な眠気に襲われていた私であったのだけれども、夢をかなえた余韻は心に強く残っていた。今まで眠りの世界でしか描くことができなかった夢の先の世界を、これからは現実の世界で描いていくことができる。その喜びは、なにごとにも代えがたい特別なものであったから……。


 ふかふかの枕に顔をうずめると思わず口角が緩む。足が自然にバタバタと動く。私の人生の夜が明け、世界が輝きだす瞬間。それが今なんだという確信。これからはすべてがうまくいくという予感。


 そんな漠然とした期待に胸を膨らませていた私であったのだけれども、心に刺さっているとげが少しだけ気になっていた。帰り際、アラン先生に言われた一言が気になっていた。


 「私のピアノには致命的な欠点があるか……」


 思わず私は独り言をつぶやいた。確かにそれは認めざる得ない。私はミスタッチが少ない演奏家だ。だから楽譜通りの正確な演奏を求められるコンクールにおいて有利な演奏家だといってもいい。しかし私が表現できる音楽の幅は狭い。それが証拠にベートーヴェンの曲を満足に表現することさえできないのだから……。


 つまり、私の得意な澄んだ音・・・・透る音・・・では、広大なクラシック世界の限られた一部しか表現することができないのだ。今回のコンクールは、たまたま私が表現できる音で戦えたにすぎないのだ。


「困ったなぁ」


 私はいつの間にかうずめていた顔を枕からはなし、真っ白な天井をじっと見つめていた。正確には、じっと虚空を見つめていた。私が表現できる音楽の幅は狭い。それはなんとなく分かっている。なら、それを克服するために何が必要なのか? そこがわからない。


 「うーん」と私がそんなことを深く考えこもうとした瞬間、けたたましく鳴る着信音。私はあわててかばんからスマートフォンを取り出すと、すぐに電話に出る。


「フレデリック国際ピアノコンクール優勝おめでとう!!」


 電話口から届く大悟の興奮気味の声、私が一番聞きたかった声。この声を聞いた瞬間、さっきまでのモヤモヤが一気に吹っ飛んでしまう。


「ゆき、本当におめでとう、本当に本当におめでとう。ゆきが夢をかなえた瞬間とき、俺たちの夢がかなった瞬間とき、俺は、俺は……」


 大悟の言葉にならない言葉が私の心に響く、熱い祝辞が私の心に届く。そして思わずこぼれ落ちる涙、喉からでる隠しようのない涙声。


「ありがとう大悟、私、嬉しくて……、本当に嬉しくて……。でも、やっと夢に手が届いたよ。最後の最後で、やっと夢に手が届いたんだよ……」


 顔一面、涙でぐしょぐしょの私は、自分の想いを、今まで積み重ねてきた想いを必死に言葉に出そうとする。でも、その言葉はつたなくて、たどたどしくて……。


「六年前、一緒に博多に帰ってきた時からは考えられないことが起きたんだな……。あの時の俺たちはどん底だったから……。フランスでチャンスをつかめず、失意の帰国だったから……。でも、ゆきは本当に頑張ったよ。BARバー Mianミアンでピアノを弾きながらずっと夢を諦めず努力を重ねてきたし、コンクールで結果が出なくてもずっと挑戦し続けていたんだから……。俺はゆきの夢がかなった以上に、ゆきの努力が実を結んだことの方が嬉しいよ」


「ありがとう大悟、本当にありがとう。でもね、今回の件はアラン先生の力が大きかったと思うの。六年前にリヨン国立高等音楽舞踊学校コンセトバトワールを卒業した私のことを覚えていてくれたどころか、私が送った音源データを聞いただけで推薦状を書いてくれたんだから……。でもね、大悟。努力が実を結んだという意味では大悟も同じだと思うの。大悟だって Mianミアンでホールをしながら、ずっと絵を描き続けてきたじゃない。公募に出し続けてきたじゃない。その努力が実ったからこそ、日本で一番権威のある美術展の一つ、大和展で内閣総理大臣賞をとれたんだから……」


 私が大悟にそう語り掛けると私と大悟の会話は止まる。沈黙が私と大悟を包む。でも、それは気まずい沈黙ではなくて……。私たちの八年間を、夢を信じて頑張ってきた八年間を思い出すための沈黙であって……。


「私が夢をかなえたんだから、次は大悟の個展を開くという夢をかなえなくちゃね。でも、私、思うんだ。このまま大悟の夢もすぐにかなってしまうんじゃないかって、そして、私の二つ目の夢もすぐにかなってしまうんじゃないかって」


 私が感慨深くそう話しかけると「二つ目の夢?」と大悟はすぐに聞き返してくる。そう問われた私は思わずハッとなり口をつぐむ。我を忘れ、余計なことを言ってしまった自分を恥じる。


 カーテンの生地からにじむ陽の光。カーテンの隙間から差し込んでくる朝の光。部屋に漂うほこりに輝きを与える一条の光。再び二人に流れる静寂の時間とき


「ところで、ゆき」


 そんな沈黙に大悟はそっと言葉を添える。


「日本にはいつ帰ってこれそうなんだ? やっぱり予定通りというわけにはいかないんだよな?」


「ごめんなさい。この後ガラコンサートとかあるから、十一月三日までに帰れそうにないの。だから大悟の内閣総理大臣賞の授賞式には行けないと思う。もしかしたら日本に帰ったあとも忙しくて時間がとれないかも……」


 申し訳なさそうに私がそう答えると、電話口の向こうから大悟の落胆した気持ちが伝わってくる。私の心もっと締めつけられる。しかしそんな感情も刹那で終わる。だって、大悟が再び私に優しい言葉をかけてくれたから……。


「気にすることはないさ、ゆき。授賞式の様子は動画に取ってくれるらしいから、あとでそれを一緒に見ればいいじゃないか」


 そう言って大悟は一呼吸おく。


「ただ大和展はゆきと一緒にいきたいんだ。内閣総理大臣賞と書いてある俺の絵をゆきと一緒に見たいんだ。ゆきがいてくれたからこそ描けた絵を、ゆきがいてくれたからこそ賞がとれた絵を、ゆきと一緒に見たいんだ」


「もちろん、それは私も行きたい。やっと世間に認めてもらえた大悟の絵、私も一緒に見に行きたい。なんとか時間が取れるように頑張ってみるね」


 私は大悟の問いにそう答え、涙をぬぐい、明るい声で再び大悟に話しかける。


「あと日本に帰ったら祝勝会をしないとね。私、賞金いっぱいもらっちゃったから、少しは贅沢ぜいたくできると思うから」


「ははは、それは楽しみだ」


 大悟も明るい声でそう応えてくれたものの、急になにかを思い出したかのように声色を真剣なものに変える。


「ゆき、いつも俺に勇気をくれてありがとう、希望をくれてありがとう。俺はピアニストではなく、いつも頑張っているゆきがどうしようもなく好きなんだ。俺のすべてはゆきの笑顔から始まっている気がしてならないんだ。心から愛しているよ、ゆき」


 大悟のこの言葉に「私もよ、大悟」と心の中で答えたものの、私はそれを声に出して言うことはできなかった。しかしこの言葉を聞いた時、私は自分の顔が信じられないくらい赤くなっていることには気がついていた。


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補足:このお話に対する補足のリンクです。興味があれば読んでみてください。


第06話補足:日展

https://kakuyomu.jp/works/16817330664993422025/episodes/16817330667508431452

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