第05話:運命の瞬間(とき)

 控室を出るとそこはマスコミの海、典型的なメディアスクラム。私が眼前に広がった光景を理解しようと思ったその瞬間、


「水無瀬さん、これから結果が発表されますが、今の気持ちを一言」


「今回の演奏、とても素晴らしかったです。優勝する自信はありますか?」


「コンテスタントの中でピアノ協奏曲第二番を選んだのは水無瀬さんだけでしたが、なぜ二番を選んだのですか?」


 目の前に突きつけられる無機質なマイク、眼前で瞬くフラッシュ、矢継ぎ早に飛び込んでくる質問の数々。そんな質問という騒音の海の中、息が詰まりそうな人の海の中、私は必死に自らを律し、質問に答えようと試みるものの喉から言葉が出てこない。焦れば焦るほど私の心臓は大きく脈打ち、心は言の葉を頭の牢獄ろうごくに捕らえて放さない。


 マスコミによってあっという間にアラン先生と分断されてしまった私は、無言で下を向き、いつもの自分に戻れるよう必死になっていた。一秒でも早くコンテスタントとして当然すべき笑顔を作り、一秒でも早く前を向かなければならないのに……。そんな焦燥感で頭の中がいっぱいになっていた。しかし、肝心の私の心は、私の気持ちは、そんな健気な努力に冷笑で応え、その顔に困惑した表情を浮かべることしか許さない、その場で立ち尽くすことしか許さない。


「マスコミのみなさん、すみません」


 ふいに向けられる救いの手、マスコミの海から突然現れた正装をした女性、フレデリック国際ピアノコンクールスタッフの声。


「水無瀬さん、お迎えにあがりました。まもなく結果発表です。こちらへどうぞ」


 コンクールスタッフの女性は丁寧にそう告げると私に慈愛に満ちた目を向ける。そしてその刹那、マスコミに向け鋭い視線を向ける。


「マスコミの皆さん、水無瀬さんはこれから人生を賭けた一つの物語に決着をつけなければなりません。もう少し気をつかってもらえませんか? そしてフレデリック国際ピアノコンクールスタッフとしても一言いわせてもらいます。我々はマスコミの皆様のためにもコンクールの進行を遅らせることはできません。私は自らの職権と矜持きょうじにかけて、水無瀬さんの身柄を安全な場所に移す義務があります。それをご理解できたのなら、今すぐ道を開けてもらえませんか?」


 私の困惑をよそに喧騒けんそうの海を切り裂くコンクールスタッフの声。その声に驚き、私がその視線をコンクールスタッフの女性に向けた瞬間、マスコミによって作り出された人の海は大きく二つに割れる。


「行きましょう、水無瀬さん」


 現代に現れたモーゼはそう言って私の手を強引につかむと、紅海のように割られた人の海の先へ私を導いていく。


「コンテスタントに最高のコンディションを用意する、それが我々コンクールスタッフの仕事です。それは演奏が終わった後でも変わりません。だからコンテスタントに悲しい表情をされると私が困るのです。いいですか水無瀬さん、困ったことがあったら遠慮せずに我々に声をかけること、約束ですよ。あなたがコンテスタントでいる限り、私たちは全力をもってあなたをお守りする。それを忘れないでください」


 コンクールスタッフはそう言って、私に人なつっこい笑顔をみせる。


「あ、ありがとうございます」


 私は、たどたどしく、コンクールスタッフに礼を言うと、コンクールスタッフは軽くウインクを返してくれる。


「さぁ、私にできることはここまでです。まもなく結果発表です。その結果が水無瀬さんが望んだものになるよう、私もここで一緒に願わせてもらいます」


 コンクールスタッフはそう言って私に声をかけ、その手を放すと、そこにはフレデリック国際ピアノコンクールの決勝まで残った他のコンテスタントが集まっていた。そしてその光景は、運命の瞬間ときがすぐそこまで迫っていることを告げていた。そしてその現実は、私の心を緊張で氷つかせていた。


 今、ここにいる八人の中からこのコンクールの勝者が決まる。そして私以外の七人はその顔にほほみをたたえている。しかしそれは、コンテスタントとして求められる当然の立ち振る舞いであり、マナーにすぎない。だからその心の中はわからない。いや、わからないというのは嘘かもしれない。ここにいる七人は、私以外の七人は、自分が優勝することを信じている。みんな優勝を目指して悔いのない演奏をしたのだから、それは当たり前のことだ。しかし優勝者は一人だけ。その自信の裏側には、優勝できないかもという不安も当然同居している。


 つまりその笑顔の一枚後ろには、希望と不安が入り混じった感情が渦巻いている。まるでフィギュアスケートの点数を待つキスアンドクライのように、希望と不安の入り混じった感情がぐつぐつと鍋の中で煮詰まっている。しかし表にだすのは笑顔だけ。みな歯をくいしばり、必死に笑顔をみせている。私には自分の目に映る他のコンテスタントの笑顔は、そう見えて仕方がなかった。


 しかしそんな中、私一人だけ笑顔をつくれずにいる。それはこの場の緊張感によるものと言えなくもなかったが、それよりも自分が決定的なミスを犯してしまったという後悔の念が、不完全燃焼でコンクールを終えてしまったという後悔の念が、いまだ私の顔に笑顔を宿すことを許さない。


 そしてその後悔の念は、顔さえ上げることができない状態に私を縛りつけ、一人だけ下を向いている状態に私を縛りつけ、次々と発表される順位さえ耳に入ってこない状態に縛りつける。


 そんな状態であるにもかかわらず、私は下位の受賞者から読み上げられる名前の中に自分の名前がないことだけはわかっていた。いや「なかったと思う」が正しい表現なのかもしれない。なぜなら、もし私の名前が呼ばれているのなら、マスコミやら周りのコンテスタントが私に向けて拍手を送るはずだから……。さすがにそれには気づくと思うから……。そして私の名前が呼ばれたその瞬間、私はしっかりと前を向き笑顔でこたえなければならない。私が意識していたのは、ただそれだけであった。


「ウィナー オブ コンペティション イズ ユキ ミナセ!!」


 呼ばれた、私の名前だ。私はなけなしの勇気を振り絞り、下を向きながら無理やり笑顔を作る。そしてゆっくりと顔を上げ、この結果を聞きに来た人々にその笑顔を向ける。そう、ひきつって、お世辞にもかわいいということはできない精一杯の笑顔を向ける。


 (大丈夫、大丈夫、次の順位が発表されるまでの我慢だから)


 私は心の中で何度も何度もそう繰り返す。しかし周りの拍手は鳴りやむことはない。次の順位が発表されることもない。私は今なにが起きているのかまったく理解ができなかった。


 これが極度の緊張感が引き起こす時間圧縮というものなの? 私がそんなことを考えていた次の瞬間、隣にいたコンテスタントが私に握手を求めてくる。そればかりではない、他のコンテスタントが一斉に私に握手を求めてくる。そして周りから「Gratulacjeグラトゥラツィエ」というポーランド語が聞こえてくる。


「水無瀬さん、日本人初の優勝おめでとうございます」


「ゆきさん、この喜びを誰に伝えたいですか?」


「応援してくれた日本の皆様に、なにか一言もらえませんか?」


 え、いったい何が起こっているの? あまりにものことに私は理解が追いつかない。必死に作り笑いが崩れないように取り繕うものの、今、なにが起きているのか全然理解ができない。ただ私の周りに祝福の言葉があふれていて、いろいろな質問があふれていて……。でもでも、私は第三楽章で失敗をしていて……、うまく自分の音楽を表現できていなくて……。


 私はしどろもどろになり、当然、要領を得た回答ができるわけがない。困り果てた私は、とっさに先ほどのコンクールスタッフに視線を向ける。


「だめですよ、水無瀬さん。あなたはこの瞬間からコンテスタントではありません。ピアニストです。コンクールに勝つというのはそういうことです。私はコンテスタントを守る仕事をしていますが、ピアニストはその範疇はんちゅうではありません。さぁ、ちゃんと自分の言葉で答えてください、それがあなたのピアニストとしての最初の仕事ですよ」


 コンクールスタッフは悪戯いたずらな笑顔を私に向けてそう言葉を紡ぐと、次の瞬間、各国のマスコミは私を一瞬で取り囲んだ。

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