第04話:希望と後悔と

 控室の椅子に座ってからどれくらいの時間が経ったのであろう。私は自分の中で流れている時間とこの世界で流れている時間を共に理解することができずにいた。


 しかし時の川に放したささぶねは、過去から未来へ進み続けている。私の心とは関係なく時は過去から未来へと流れていく。だから私が思考の欠片をかき集め、目の前の現実を理解できるようになるまでには、多くの時間が流れる必要があった。


 私の前にはアラン先生が座っていて、私が今まで聞いたことがない褒め言葉を私にむけてくれている。しかしそのありがたい言葉も私の耳に留まることはなく、ただ頭の中を通りすぎていく。


 そう、私には分かっていたのだ。その誉め言葉は表面上をなぞった意味のないものであるということを……。私の演奏でよかった部分を都合よく切り出して集めた褒め言葉のアルバムにすぎないということを……。


 なぜならアラン先生は、私が私の演奏に自信が持てていなかった部分、つまり第三楽章については褒めてくれなかったし、それどころか一言もコメントをしてくれない。


 でも、そんなの当たり前だ、そんなこと私にだってわかっている。私が第三楽章で表現したのは、オーケストラが提示した世界であって、私が、水無瀬ゆきとして、コンテスタントとして、自分自身が描いた世界ではないのだから……。


 私は後悔で締めつけられる胸の痛みに耐えながら、必死に先生へのお礼の言葉を引きずり出すと、絞り出すように一人にして欲しいと告げる。そんな私の様子をみた先生は、黙ってうなずき、控室から出て行ってくれる。


 こうして私は控室に残される、静寂に満たされた控室に残される。そんな沈黙の中、私はじっと椅子に座り、涙がこぼれてしまうのをじっと堪えていた。ふとももの上でぎゅっとこぶしを握り締め、ただひたすら、涙がこぼれてしまうのをじっと堪え続けていた。


 私の演奏は他のコンテスタントより劣っていた、明らかに劣っていた。先生は口には出さないけれど私にはそれがわかっていた。そんなの当たり前だ。私は先生の指示を無視して、私のピアノの特性が生きる緻密でドラマティックで、ピアノが前面に出るピアノ協奏曲第一番ではなく、難曲で、ピアノとオーケストラのコミュニケーション能力が求められるばかりか、ピアノの個性が出にくいピアノ協奏曲第二番を選んでしまったのだから……。そう、私は、明らかに間違った選択をしたのだ。


 それが証拠に、この歴史あるフレデリック国際ピアノコンクールにおいて、ピアノ協奏曲第二番を演奏して優勝したケースは二回しかない。それがわかっているから、オーケストラもピアノ協奏曲第二番の練習にあまり時間を割かない。そうなればオーケストラの完成度は低くなる、コンクールに不利になる。それがわかっていれば、こんなリスクを負った曲、まともなコンテスタントが選ぶわけがない。そんなことはわかっている、わかりきっているのだ。


 でも私は、それでも私は、ピアノ協奏曲第二番を弾きたかった。大悟が好きなノクターン第二十番が練習曲になっているこの曲を弾きたかった。そしてなにより、私の大悟への気持ちをこの曲で表現したくてたまらなかった。この曲で優勝してこそ意味がある、ノクターン第二十番の先にあるこの曲を弾いて優勝してこそ意味がある。そうでなければ私と大悟は先に進むことができない。そう考えてしまったのだ。


 しかし、このこだわりが、五年に一度しかないチャンスを台無しにしてしまったことを私は理解していた。二十七歳にして初めて回ってきたチャンス、三十歳の年齢制限があるから正真正銘、最後のチャンス。私は、その一生に一度のチャンスを与えるために推薦状を書いてくれたアラン先生の気持ちを無視して、自分の気持ちを優先して、わがままを通してしまったのだ。


 コンクールで求められるのは、演奏する音楽の理解とその理解の上に築き上げる個性と伝達力。しかし私には、第三楽章だけは、その音楽性を伝える伝達力の持ち合わせがなかった、そこから積み上げる個性の持ち合わせもなかった。それは曲を選択する時点でわかっていた。そう、わかっていたのだ。


 にもかかわらず、私は勝負に徹することができず、自分の感傷を優先してしまった。この忸怩じくじたる思いが、私を控室から外に出ることをためらわせている。あんな中途半端な第三楽章を弾いてしまったのだから仕方がないと言えば仕方がない。私は自分の苦手を克服することを諦めて、安易にオーケストラが作り出す世界に乗っかってしまったのだ。これは音楽家としてあるまじき行為だ。決して許されるものではない。私にはそれがわかっていたのだ。


「ゆき、いい加減に控室から出てきてもらえませんか?」


 ふいに私の耳に入るアラン先生の声。先生はいっこうに控室から出てこない私を心配して、戻ってきてくれたみたいだ。


「先生、ごめんなさい。私はコンテスタントとして恥ずべき演奏をしてしまいました。あの第三楽章、私は自分の世界をピアノで表現することをしませんでした。あろうことか私はオーケストラが提示した世界にただ乗りしてしまったのです。こんな恥ずべき演奏をしたのは生まれて初めてです」


「ゆき、何をいっているんですか? 指揮者のゲルギエフはそんなこと一言も言っていませんでしたよ。そもそもピアノ協奏曲でピアノがオーケストラとの調和を選んで何が悪いんですか?」


 アラン先生の無防備な笑顔が私の心に突き刺さる。


「でも、先生。私はポーランドの文化なんてわからなくて、そこに自分の個性を上乗せすることができなくて、オーケストラに頼っちゃって、ピアノコンクールなのに私は自分のピアノを表現しなかったのです。私がしたことは、ゲルギエフ先生が表現したい音楽をピアノで表現したにすぎないのです。そこには私の音楽はなかった、なかったのです」


 私は、喉に詰まっていた言葉を必死に、本当に、必死に絞り出してアラン先生にぶつけてしまう。そしてその瞬間、ずっと我慢していた熱い何かが私の頬をしたたり落ちる。


「それはわかっています、ちゃんとわかっていますよ、ゆき。確かにあのピアノはゆきのピアノではありませんでした。ソリストとしては、ゆきの意見は正しいと思います。でも、ゆきの夢はピアニストになることじゃなかったんですか? ピアノはソロで演奏するばかりではありません。今日みたいにオーケストラに入って演奏することもあるはずです。つまり指揮者が描きたい世界に応えるのもピアニストとして大事な仕事であるはずです。ピアニストの仕事は自分を表現することだけではないのです。時には指揮者の作りたい世界に合わせて音をつくり、時には観客の求める音楽に合わせて音をつくる。それもピアニストとして大切な仕事です。そういう意味では、今日のゆきの演奏は立派なものでした。素晴らしいものでした。私はこんな弟子を持てて幸せものです」


「でも、先生……」


「そう、審査員がそれをどう評価するかはわからない。それは事実です。コンテストという側面で考えれば、確かに自分のピアノを表現することが求められます。だからこそ多くのコンテスタントは、自分を表現しやすいピアノ協奏曲第一番を選ぶのです。でも、それでも、ゆきはピアノ協奏曲第二番を選びました。そこには何か強い思いがあったはずです。それは私にも伝わってきましたし、あの演奏にはそんな強い決意に支えられた何かがありました。そして第三楽章では、いつもの自己主張が強いゆきのピアノではなく、控えめでオーケストラを生かす演奏をしてくれました。私はこの演奏を聴いて、コンテスタントではない、ピアニストとしてのゆきの可能性を感じることができました。ほんとうに頑張りましたね。ゆき」


 私はアラン先生のその言葉に小さくうなずくと、アラン先生に導かれるように控室の扉をくぐり、部屋の外に足を踏み出した。


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補足:このお話に対する補足のリンクです。興味があれば読んでみてください。


第04話補足:ショパン国際ピアノコンクール

https://kakuyomu.jp/works/16817330664993422025/episodes/16817330666641993683

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