第03話:私の音、君のための音
フォルティッシモ。
ショパンのピアノ協奏曲第二番がもつ独特の管弦楽で奏でられる焦燥と不安を表現した長い提示部に対する私の答えはこれに決めていた。大悟が教えてくれたフォルティッシモに決めていた。
必勝の決意を込めて私が鍵盤を強く押し込むと、ピアノは私のフォルティッシモで応えてくれる。私は思わず
艶やかに、そしてロマンティックに。ロマン派のショパンのイメージを崩すことなく、私は、私の中にあるすべての気持ちをピアノにのせる。情熱的で物悲しく、苦悩に満ちた旋律を丁寧に丁寧に紡ぎあげていく。
そして華やかで美しいパッセージに
次に始まるのは第二楽章。ショパンが恋したコンスタンツィヤ・グワトコフスカへの想いを一番表現したといわれる第二楽章。ここは大悟に教えてもらった光の表現で、私の中の大悟への想いを表現するところ。
オーケストラの緩やかな演奏で提示されたメッセージに対し、私はゆったりとした情熱的なピアノで応えてみせる。この穏やかなフレーズに、私はありったけの自分の気持ちをのせる、大悟への想いをすべてのせる。まるで薄氷を踏むかのような慎重さで、燃えるような気持ちを、
曲からにじみ出る焦燥を愛で包んで、まるで夢の中を漂う心のように、ゆったりと流れる大河のように、ささやくように……。私が大悟と初めて会った時の感動を、初めて大悟を異性として好きになった時の感動を、遠くて近いあの日のことを、あの特別な想いを、この音楽にめいっぱい詰め込んで……。
私がそんな心から湧き上がる情感に身を任せ、一気に第二楽章を弾き終えると、曲はいよいよ最後の第三楽章にさしかかる。ここから残りの時間、私はポーランドの民族舞踊マズルカのような旋律の上で、表現という細い一本の糸の上で演奏することを強いられる。しかもその糸は私の苦手なユニゾンだ。ピアノとオーケストラが同じ音を同時に奏でるユニゾン。しかも民族的な表現で紡ぎあげられたユニゾン。私が渡りきるにはあまりにも細い、か細い一本の糸。
ポーランド人でない私は、ポーランド人的な感性を自分の中から引き出すことはできない、それはわかっている。私の表現の引き出しには、教科書的で画一化された、今まで誰かがやってきた表現しか入っていないのだから……。私には誰かがした演奏をトレースすることしかできないのだから……、であるのなら……。
そう、であるのなら、オーケストラの力を借りればいい。そう考えた私は、ピアノが表にでることなく控えめになるよう表現の力を落とす。今、私がすべきことは、オーケストラが奏でるポーランド情緒を崩すことなく、ピアノでそれを支えること。オーケストラの一部になって、オーケストラを彩る様々な音の中に私の音を溶け込ませること。
だから私は、オーケストラを信じて、指揮者を信じて、ただ前に進むだけでいい。いままで私が私を信じて進んできたように、今はオーケストラを信じて、指揮者を信じて、一歩ずつ慎重に、大胆に、前へ進むだけでいい。
そんな私の決意は、オーケストラが作り上げる音楽にささやかな淡い輪郭を描く。それは一直線でゴツゴツした何かではなく、濃淡がついた、時には太く、時には細い、流れるような流線型の輪郭を描く。私はそれを一つずつ丁寧に丁寧に描いていく。
やがて音楽はピアノ独奏パートにさしかかる。私はなんとか心を落ちつかせ、柔らかくオーケストラと調和した輪郭を描きながら、ゆっくりと独奏パートに入っていく。大丈夫、焦る必要はない。独奏といっても完全に独奏になるわけじゃない。オーケストラがちゃんと要所要所を支えてくれる。
今、この瞬間、ピアノが前面に出ていることは間違いない。でもその音は輪郭で、あくまでも淡く、オーケストラに溶け込むように演奏すればいい。ピアノ一音一音を丁寧に、オーケストラが創る音楽に溶け込ませていけばいい。今はそれだけを意識すればいい。自分のピアノを柔らかく、幻想的に表現すればいい。今はそれだけを考えるんだ。
そう、この音は私だけのものじゃない。この音を奏でられるのは私だけの力じゃない。オーケストラの力、私を育ててくれたアラン先生の力、ずっと寄り添ってくれた大悟の力。私を支えてくれたすべての人たちの力。そんな人々の力があったからこそ、私は今ここで、この音を紡ぐことができている。それを忘れちゃダメだ。この気持ちを表現しなくちゃダメなんだ。
必死の想いでピアノを弾く私の耳にホルンのファンファーレが入ってくる。オーケストラは華やかに音を奏で続ける。もう少し、もう少しでフィナーレがくる。焦っちゃだめだ、焦っちゃだめだ。私はその言葉を何度も何度も心の中で繰り返す。
私が細心の注意を払い、大胆な指使いでピアノパートを一気に弾き終えると、すぐさまオーケストラが曲を締めくくる。その刹那巻き起こる「ブラーヴァ」の声、鳴りやまぬ拍手とスタンディングオベーション。
(え、なにこれ? コンクールなのに、コンサートじゃないのに)
今まで経験したことのない観客席の情熱的な反応に私の心は大きく揺れる。確かに私が出せるすべてを出すことができた。だけどあの第三楽章は私を表現できていない。なのに、なぜ。
戸惑いの気持ちと演奏を無事終えた満足感。はたまた、アラン先生への感謝の気持ちと大悟を愛する気持ち。そんな異なる感情群を心の中に抱えた私は、いまだ自分の心を整理できずにいた。しかし時間は無慈悲にすぎる。ここで固まる訳にはいかない。私は今ここで自分がしなければならないことを必死に思い出し、それに集中することに全力を注ぐ。
私はピアノ
そして整理できぬ心を抱えた私がそのまま舞台の袖に降りると、すぐさま背の高いフランス人男性が、アラン先生が私に抱きついてくる。
「ゆき、最高の演奏でした。いままで誰も聞いたことがないピアノ協奏曲第二番でした。ほんとうに最高の演奏でした。特に第二楽章が圧巻でした。もしかしたら、もしかするかもしれませんよ」
私はフランス語で「
いまだ鳴りやまぬ拍手の中、放心状態で控室に戻ると、私はそのまま椅子に座りこみ、小さく丸い息をはいた。
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補足:このお話に対する補足のリンクです。興味があれば読んでみてください。
第03話補足:ショパン-ピアノ協奏曲第二番とショパンの初恋の行方
https://kakuyomu.jp/works/16817330664993422025/episodes/16817330666640360097
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