02.東京の狭い空

第07話:東京の狭い空

 長い夜がぼのぼのと明けはじめる頃合いに、暁の光が私の閉じた瞳を明るく照らす。もう朝か、私はそう独り言をつぶやいてゆっくりと目を覚ます。西暦二〇二五年、東京、十二月のある日の朝。


 私はベッドから起き上がり、窓を開けてバルコニーに出る。地上二十四階から眺める朝日はところどころイワシ雲に遮られ、小さなエンジェルラダーを作り上げていた。それはまるで私を希望に満ちた未来に導いてくれるかのような、天空に描かれたはかなげな光の狭路のようであった。


 フレデリック国際ピアノコンクールのガラコンサート、つまり特別公演を終えた私は東京に帰ってきていた。連日目が回るほど忙しい。フレデリック国際ピアノコンクールに優勝して以来、信じられないほどのオファーが舞い込んで、私はその練習に忙殺されるばかりか、テレビや雑誌の取材にも追われ、自分の時間というものをここ二か月まともに取れたためしがない。


 十月末のコンクールが終わってからあっという間の二か月間。もう一年の終わりの十二月。結局、私のスケジュールのせいで大悟と一緒に大和展も見に行けていない。それどころか、この三か月、大悟に会うことさえできていない。博多と東京の距離の壁があるとはいえ、三か月も会っていないなんて、つきあいはじめてから初めてのことだ。


 今、大悟は何をしているんだろう。ちゃんと絵は描けているのだろうか? ちゃんとご飯を食べているのだろうか? あの人、一度絵を描き始めるとご飯をほとんど食べなくなるし、お風呂にさえ入らなくなるものね。私がいくら呼んでもイーゼルから離れないしね。


 私は大悟のことを心から心配していたものの、そんな思いをせている自分の口角が自然に緩んでいることに気がついた。


「そろそろ、行かないと」


 私は、誰が聞くわけでもない独り言をぽつりとつぶやくと、飲みかけの冷めたコーヒーを口に含み、朝の身支度を始める。とりあえずメイクはコンサートホールでメイクさんがしてくれるから適当でいいとして、このパスは忘れたらまずいからかばんに入れてっと。私はそんなズボラなことを考えながら、朝、化粧に膨大な時間をかけなくてよくなった今の生活をちょっとだけ嬉しく思う。


 そんな私は最低限の身支度をすますと、帽子を深々とかぶり、マスクをしてマンションの扉をくぐる。高層マンションの外に広がるのはビルの山々。私が歩くのはそんなビルの谷間。今日のコンサートは原宿か、ちょっと遠いな。私はそんなことを考えながら、ふと空を見上げる。


 そこに広がるのは澄んだ雄大な青い空、そうであってほしかった。少なくとも私が子供の頃に過ごした空はそうであったのだから……。でも、今、私の眼前に広がるのはビルの輪郭で無残に切り取られた濁った青い空……。


 私が見たい空はこんなんじゃない。いつも大悟が描いてくれる光にあふれた空はこんなんじゃない。こんなすすけていて、濁っていて、純度が低くて、見ることで苦痛を感じる空じゃない。私は、そんなやるせない気持ちを抱えたまま、ビルの輪郭で切り取られた濁った青い空の街道の下で思わず立ち止まり、大悟が送ってきてくれた描きかけの絵の画像データを眺めてみる。


 筆の動きが明確に追えるタッチ、日常生活の中に光の移ろいを映し出した美しい描写、大胆なアングル、そして最高の青い空。典型的な印象派、そう、古典的でオーソドックスな印象派の絵。繊細で、今にも壊れてしまいそうだけれども、どこか芯が通っていて、のびのびとした自然の広がりを表すタッチ。私が好きな大悟の心を映したかのような美しい絵。


 そして私は再び空を見上げる。この空は、あの人の絵の空に比べてどれだけの価値を持っているのであろうか? 私は、私を覆う朝の匂いを胸いっぱい吸い込むと、その汚れた空気に思わずせき込んだ。いつもと代り映えのしない街、暗く濁った空の街道、忙殺されるだけの日々。そんな毎日が私に容赦なく襲いかかる。


 確かに、私はフレデリック国際ピアノコンクールで優勝したし、仕事も増えた。ピアニストとしての私は順調だし、きっと順風満帆といえる日々なのであろう。でも私の幸せはそれだけじゃない。もちろん私のピアノが認められたことは信じられないくらいうれしい。でもそれは私の幸せの一部にすぎないし、私だけの幸せにすぎない。この感覚は、大悟と共有できてはじめて私たちの幸せになる。私が欲しいのは私だけの幸せじゃない、私たちの幸せが欲しいのだ。


 見慣れたホームの端に立ち、山の手のレールにのる。人工的で無機質な温風が私を包む。そんな味気ない電車の中で、そんな寒々しい電車の中で、私は、八年前から何も変わらない考えを、決して変わることのない考えを、山の手のレールのようにぐるぐる何度も何度も繰り返し考る。


 そして電車の窓から見える青空をただ眺めてみる。今、私の心を幸せにできるのは、この空の下に、同じ空の下に、大悟がいてくれるという事実だけ。でも、その空でさえ、私が見たい空ではない。私の見たい空は、大悟の夢のように、大悟の絵画のように、大きく世界に広がっている、どこまでも続いていく澄んだ青い空なのだから……。


 電車から降り、再びホームに立つ私の横を冬の風が通り過ぎる。木枯らしが私の心を通りすぎる。私はその木枯らしを、まるで心を切り裂くナイフのように感じていた。私はそんな木枯らしに切り裂かれた心を抱いて、歯を食いしばって、ゆっくりとコンサートホールに向かい歩きはじめた。


「大悟、私、さみしいよ。この街には私の心を満たしてくれるものはなにもない。住めば都なんて大うそ、大悟がいるところだけが、私の都なんだよ」


 私の心を引き裂いていた木枯らしは、いつしか私の目元にまでおよび、気がついた時には瞳から涙がこぼれ落ちていた。

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