お米の怪盗
@warewaredaikon
お米の怪盗
箸で米を持ち上げて、つい先程まで彼女の本名をすっかり忘れていたことに気がついた。しかし、それは私と彼女が何物にも代えがたい関係を築いた証左なのだと自分に言い聞かせ米を口に放り込む。
米は噛めば甘いのだと彼女は言ったが、まだ米が甘くなるまで噛んだことがない。
噛んでも噛んでも甘くならなかったら。彼女と感覚を共有することが叶わない。この可能性から逃げるために粘土のような味の米を惰性で飲みこんだ。
普段は米を見ても彼女の事を思い出しはしない。彼女以外にも特別な友人はいるし、彼女と別れたのは10年も前のことだ。記憶の隅に追いやっても罰はあたらないはずだ。
唐突に彼女のことを思い出したわけではない。何の気なく見ていたテレビに彼女の名前がうつしだされたのだ。
エリカなんたら容疑者。
長くて一度で言われただけでは聞き取れない名前を見ただけで、それが彼女だと分かった。10年前の思い出が急激に輪郭を確かなものにする。二、三度しか呼んだことがなかったその名前を見つめていたら、彼女の写真がテレビ画面に映し出された。
青色を背負い、虚空を見つめる新緑の瞳。10年も経ったのに彼女は思い出の中の姿のままだった。
彼女は「お米の怪盗」だった。言葉通り、お米を盗むのだ。お米と言っても田んぼから稲穂を無断で刈り取ったり、納屋から米俵を盗むのではない。当時齢11歳だった彼女にとってのお米とは、ほかほかに炊かれて茶碗に盛りつけられたものだった。
カエルが歌い、雨も歓声をあげる季節にわたしたちの学校に彼女がやってきた。何故あんな中途半端な時期に転校してきたのかは分からない。先生が何か説明していた気もするが、忘れてしまった。日本人の父親と外国人の母親から生まれた彼女は、雨音に退屈していた同級生たちを大いに賑わせた。湿気でゆるくうねった髪は鈍色の空の下でも日に照らされたように淡く黄金色に光り、新緑と同じ色の瞳は常に中央に輝きをたずさえていた。
押し並べて黒く沈んだ色の髪と目の子供で埋め尽くされた教室の中、彼女は浮いていた。彼女があらわれた当初は教室中が浮足立っていたが、次第に落ち着きを取り戻し、再びカエルの合唱と雨音が教室の支配者に君臨した。落ち着きを取り戻し、皆が地に足をついた後も彼女の黄金色は浮いたままだった。しかし、ここが自分がおさまる場所だとでも言うようにその新緑は誇らしげだった。
彼女の正体が怪盗であることに気付いた日のことはよく覚えている。鈍色の空も夏休みも運動会も秋のお祭りもクリスマスもお正月も過ぎ去った冬の日だ。四時間目の授業を終え、皆が給食の準備にとりかかる。
皆がせっせと働く中、私と彼女は静かに椅子に座って本を読んだ。これがあの日私たちに与えられた仕事だった。教室にいる全ての児童が動き回ると収集がつかなくなるので、大人しく椅子に座ってるだけの児童が必要だったのだ。図書室から借りてきた本は背伸びをしすぎたのか難しくて退屈で飽きてしまったので、彼女の黄金色の髪を横目に眺めた。私と彼女は席が近かったので、机をくっつけて同じ班で一緒に給食を食べることになっていたのだ。彼女の周囲で人が動きまわると、黄金色は表情を変えた。彼女をぼんやりと眺めているうちにいつの間にか給食の準備は終わり、いただきますの挨拶をして皆が一斉に給食を食べはじめた。
どこか高貴な雰囲気の彼女の前で給食を食べるのは緊張する一方で、私の心を晴れやかにした。普段は「お弁当の方が美味しいのに」と不満をこぼしながら食べる煮物も、酸っぱいだけで本当に栄養があるのか疑わしいワカメの酢の物も、腹を満たすためだけにあるように思えたお米も、彼女の前では上等な物に姿を変えた。
他の班の子たちはお行儀悪くぺちゃくちゃと喋りながら食べていたが、私たちの班は彼女の醸し出す荘厳な雰囲気によりお行儀の悪い振る舞いはできなかった。
「デザート余ったからいる人は前に出て〜」
先生の声にただでさえ騒がしかった教室はより一層賑わった。多くの児童が椅子をガタガタと引き、勇み足で教卓の方へと出た。私の班の彼女の隣の席に座っていたAくんも、隣りにいる彼女のことなんて忘れましたとでも言うように教卓へ向かってしまった。
薄情な奴だね、と彼女へ目配せを送ろうとしたとき、見てしまった。彼女はAくんの茶碗からお米をとり、口に放り込んだ。
彼女は執拗に咀嚼を繰り返していた。それはAくんの茶碗からとってしまったお米を慈しむようだった。故意にやったのかそれとも過失なのか判断しかねてた私には執拗にお米を咀嚼する彼女が聖母にも悪魔にも見えた。ぼうっと彼女を見つめていたら、いつの間にかお米を飲み込んだようだった。そして
「お米を頂いたわ」
とつぶやいた。喧騒に掻き消されるような小さな声だったが、私の耳にはしっかりと届いた。
しばらく目を離せないでいるとAくんが「負けたわ」と言いながら席に帰ってきた。彼女にお米を盗られたことも、そもそもお米が減ったことも気づいてない様子だった。しかしいつか彼女の犯行ごと気付いて、彼女が糾弾される姿を想像して恐ろしくなった。彼女の方を見るも、窃盗なんて無かったかのように平然と自分の給食を口に運んでいた。
私はなんだかいたたまれなくなり、慌てて牛乳を飲み干し、席を立った。給食は食べきれてなかったので、先生には「体調が優れない」と嘘をついた。彼女が糾弾されるイメージから逃れられるのなら嘘つきになるのも厭わなかった。
ホームルームを終え、ぞろぞろと教室を出る群れの中でも彼女は輝いて見えた。給食の時間のことを忘れられない私は、彼女の元に駆け寄り、袖を引っ張った。
「途中まででいいから一緒に帰ろうよ」
彼女は驚いたような表情をした後、
「いいわよ。私と一緒に帰ってくれる人はいないから誘ってもらえて嬉しいわ」
と微笑んだ。品格に溢れた笑みだったので、Aくんのお米を盗んだのは彼女の偽物なのではないか、あるいはお米を盗まざるをえない事情があるのではないかと考えた。
その考えもむなしく彼女に打ち砕かれた。
二人で校門を出て、とりとめもない雑談をしながら、人気のない路地へと入った。ここなら彼女が偽物だった証明か彼女が抱えるのっぴきならない事情を教えてくれると思ったのだ。さんざん雑談をしたのだから前置きはいらないだろう。私は単刀直入に尋ねた。
「どうしてAくんのお米を盗ったの?」
彼女は一瞬だけこぼれてしまいそうな程に目を見開き、すぐに伏せた。視線は私のくたびれたスニーカーのあたりを泳いでいた。彼女の瞳にそんな物を写してしまう決まり悪さを振り払うべく、追い打ちをかける。
「Aくんのお米、美味しそうに食べていたね。なんで?なんで人のものを食べるの?」
「間違えたのよ」
彼女は犯行時と同じように口元をほころばせて言った。目は伏せたままだった。
「間違いじゃないでしょ。だってAくんが席を外した時に盗ってたし、あなたはっきりと『お米を頂いたわ』って言ってた。ちゃんと聞いたけど」
ここまで一息で言い切って呼吸が浅くなる。私だけが彼女を裁く権利を持っているように思えて、どうしようもなく興奮していた。彼女の目はあいも変わらず伏せられたままだ。あたりが薄暗くなったので彼女を早く家に帰すべきだったし、私も家路につくべきだったが、目の前の彼女を裁くことに夢中だった。彼女が黙っているのを良いことに
「そうか。そうなんだ。あなたAくんが好きだからお米を盗ったんだ。興味をひきたかったの?」
とまくしたてた。唾が舌に絡みつく。彼女が恋愛感情に突き動かされて盗みをはたらいた訳ではないことは何となく分かっていたが、彼女の不本意な表情を引き出したかった。先程まで伏せられていた瞳はまっすぐと私を見据えていた。
「ちがう。私は相手がAくんじゃなくても盗んだ。私の行為は他人に影響されてはならない。私の崇高な意思に基づいてのみ実行されるのよ」
なんだか難しい言葉づかいだが、彼女が怒っていることは分かった。暴れたり怒鳴ったりせずに静かに怒りを表明する彼女の姿は、大人びていて、とても他人の給食を食べる子供には見えなかった。
「盗んだのは認めるんだ」
「ええ。私は怪盗だもの」
怪盗だなんて。舞台や本の中でしか聞けない様な現実離れした言葉がおかしかった。
「怪盗なら盗み続けなきゃ。また明日」
と笑いを噛み殺しながら言い放ち、街頭がぽつりぽつりと灯りだした街に駆け出した。あの暗闇のなかに彼女を置いていったのは無責任だったのかもしれない。その日の夕飯はよりによってパンだった。
翌日の給食の時間も「怪盗」の動向を見張っていたが、他人のお米を盗る場面は見られなかった。私にばれて怪盗は引退したのだろうか。善いことなのだろうけど、彼女の鮮やかでいて自然な盗みが二度と誰の目にも触れられないのは世界の損失のように思えた。そんな私のことを見透かしてか、彼女はホームルームを終えた後、教室を出る私の後ろをひょこひょこと追いかけてきた。
「今日はBくんのお米を頂いたけど貴方は気付いたかしら」
と得意気に言い放った。周囲にクラスメイトもいるのに犯行を自白するものだから驚いた。それに彼女も気付いたのか目を白黒させていた。私は呆れを滲ませないように
「今日も一緒に帰ろうよ」と言い彼女の腕を引っ張った。
昨日と同じ路地に入ると彼女は
「ねえ、Bくんのお米を頂いたのよ。貴方は気付いた?」
とまたまた得意気に言う。ここで嘘をつくと彼女との関わりが断たれる気がして正直に言った。
「うーん……気付けなかったよ。ずっと見てたのにね」
「まあ!貴方ほどの洞察力を以ても気付けなかったのね。昨日より精進できた。ということかしら」
一度犯行を目撃しただけでそこまで評価されるのか。皮肉じゃないのか疑ったが、彼女の顔を見て本心であることが分かった。昨日の様子を思い返すに演技のできるタイプではない。彼女の新緑の瞳は爛々と光り、普段は凛とした彼女の顔は小さな子供のようで、尻尾をブンブンとふる子犬の姿さえも連想させた。
彼女の誇らしげな顔がもっと見たくなって
「Bちゃんから盗ったお米は美味しかった?」
と尋ねた。彼女はすぐさま
「ええ!とっても甘美な味わいだったわ。お米って噛めば噛むほど甘くなるの。以前、理科の先生が仰っていたでしょう?でも、だからといって自分のために用意されたお米をよく噛もうだなんて思わないわ。いつでも食べられるものを有り難そうによく噛むなんて可笑しいもの。やっぱり、よく噛んで味わうなら他人から盗ったお米に限るわ」
と興奮した様子で答えてくれた。
その瞳は先程に増して爛々と光っているように見えた。想像通りの表情を引き出せて嬉しかった反面、自分のために用意されたお米を『いつでも食べられるもの』と言い切ってしまったことが心につっかえた。
大人びていて世界のいろはについて知り尽くしているような気高い振る舞いをする彼女も、目の前の世界にしか想像力が及ばない子供なのだと思った。それが失望なのか、年相応の姿を見られた安心感なのか今もよく分かっていない。彼女は自分のお米すらも満足に食べられなくなる明日を想像できない、ただの子供なのだと先刻の言葉から察した。
「立派な怪盗だね。明日も盗み続けなきゃ」
と言い放ち、昨日と同じように別れようとした。しかし彼女は私を引き止めた。
「明日の給食はパンだから盗むことはできないわ」
「パンも盗みなよ」
「嫌よ。私はお米専門の怪盗よ。パンを盗むだなんて私の美学に反するわ」
「びがくなんてあるんだね」
「あるわよ。それより、貴方また私を置いていくつもりね。東公園まで一緒に帰りましょう。一人だと暗くて怖いのよ」
昨日彼女を置いていったことを咎められた。
明日は怪盗業がお休みなら、一緒に帰る理由は無いのか。と考えながらオレンジ色の空の下を歩いた。細長い影が私たちを追いかけていた。二人とも黙りこくったままだった。怪盗業についての報告を終えた私たちの間で交わされるべき言葉は一つも見つからなかった。東公園の入口に立ち「ばいばい」とお別れの挨拶をして彼女に背を向けた。明日は怪盗ではなくただの子供になる彼女に「また明日」とは言えなかった。その日の夕飯はパスタだった。
昨日「また明日」を言えずとも明日はやってくる。給食の時間もやってくる。スープをすくいながら怪盗の動向を見張っていたが、怪盗はコッペパンを千切るのに夢中だった。昨日の宣言通り、今日の彼女は怪盗業はお休み中のただの子供だった。彼女の皿には細かく千切られたコッペパンの欠片が散らばっていた。彼女はいつもパンを先にまとめて千切ってしまってから、後で一気に食べる。今までは何とも思っていなかったが、昨日のことがあったので子供じみた妙なこだわりに見えた。
ホームルームを終えて教室から人が減っていった。視界の端にはランドセルに教科書を詰める彼女がいた。普段はホームルームの前に支度を済ませるのに珍しいと思った。私は学級日誌の自由記入欄に何を描くか筆を迷わせながら、彼女を誘う言葉を探していた。恭しく教科書を詰め終えた彼女はしきりに時計を確認していた。何か用事でもあるのだろうか。いっそのこと早く教室から出ていって欲しかった。彼女にかける言葉を考える仕事を放棄したかったのだ。
学級日誌を職員室に提出し、帰ってきた時には彼女の姿は無かった。彼女を誘うための言葉を未だに見つけられなかった私は胸をなでおろした。
給食がパンの日は彼女と一緒に帰ることは無かったし一言も話せなかったが、お米の日は業務報告のために一緒に帰るのが慣例となっていた。
「今日はAくんからお米を頂いたわ」
「今日はBくんがお手洗いに立ったタイミングで頂いたわ」
「今日はBくんが欠席だったから的が一個減って面白みに欠けたわ。でもAくんからはばっちり頂いたわ」
「今日はお米は頂けなかったわ。ピラフはツルツルしてるから難しいのよ」
「デザートがある日は良いわね。余り物のデザートを貰いに席を外す人が多いもの。今日はAくんとBくんの二人から二回ずつお米を頂いたわ」
「今日は無理だったわ。カレーライスの日はどう立ち回るといいのかしら」
彼女は盗みが成功しようが失敗しようが、業務報告を欠かさなかった。彼女は食事中に席を立つことはなかったので、盗みはいつも彼女の手の届く範囲の中でのみ行われた。そのため、怪盗の被害者となるのは席が近いAくんとBくんのどちらか、あるいは両方と決まっていた。
彼女、私、Aくん、Bくんの四人の班で犯行を知っている私は的にされなかった。二人に恨みがあって執拗に標的にし続けているのではないか疑ったが、課外授業で好きな生徒と自由に班を組んでお弁当を食べられる日に
「Cちゃんからお米を頂いたわ。やっぱりお弁当は給食のお米とは勝手が違うのね。ピンク色でうさぎの形をしていたわ。耳の端っこを頂いたわ」
と報告してきた。彼女は人を見ていないのだろう。ただ目の前にある盗むべきお米だけを見ている。
それならば私からお米を盗んだとの報告を一度も受けなかったのが不思議に思えた。私だって彼女の手の届く範囲にいたはずだ。彼女は私をただのお米の持ち主ではなく個人として見てくれていてターゲットから除外したのか。それとも私が間抜けなあまり、盗まれても気づかなかったのだろうか。今になっては分からない。彼女に聞けばよかったのだが、それには大きな躊躇いがあった。
怪盗業が成功したと報告を受けると私は彼女を褒める言葉を一言だけかけ、その後は東公園まで一緒に歩いた。その間は互いに一言も言葉を発さないのが暗黙の了解となっていた。しかし、怪盗業の結果が芳しくないと報告を受ける日は違った。私はしょぼくれ顔の怪盗にありったけの慰めの言葉をかけた。それの言葉はほんの二、三分と少しの時間で怪盗をただの子供へ戻してしまった。私はただの子供に戻った彼女とお喋りをするのが好きだった。彼女と幸福を分かち合える気がした。テレビドラマの話、今流行っているゲームの話、図書館で読める簡単で面白い本の話、30分間電車に揺られた先にあるデパートの話。11歳の子供の手に届くものについてなら何でも話した。しかし、怪盗業や家族の話の様な互いの心の柔らかな部分を傷つけるリスクのある話は慎重に避けていた。
幸福は分かち合えても、それ以外のものを分かち合うことはできないと思っていた。
怪盗ではない彼女とお喋りをする帰り道が好きだったので、怪盗業は毎回失敗に終わって欲しいと願った。
もはや成功する望みなんて無いのに律儀に私のもとへ結果を報告しにくる彼女の姿と、儀式のような慰めを終えた後の帰り道を寝る前の布団の中で想像した。
しかし、私の望みをつゆ知らず彼女は彼女の「びがく」を貫き通した。彼女は怪盗としての腕を上げていった。終業式が近づき、午前授業で給食が食べられない日が増えだした頃には盗みに失敗したと報告を受けることは無くなった。彼女は思うままにお米を盗む技術を身につけていた。席替えが一学期に一回しかないせいで標的にされ続けているAくんとBくんに不審感を持たれないように、盗む量を調節したし、配膳当番の子にAくんとBくんの茶碗によそぐご飯の量を詳細に指示するようにもなった。
配膳当番の子を巻き込んだせいで、彼女がAくんとBくんを好きだなんて浮かれた噂もささやかれた。しかし彼女は意に介していないようだった。私が初めて彼女の犯行を目撃し、咎めた日のことを思い出した。私は彼女は「Aくんが好きだから」お米を盗んだんだと言った。あの日の彼女は静かに激昂していたが、今なら軽くあしらうのだろう。彼女は自分の中で確固たる「怪盗の美学」を築き上げ、ただの子供に戻ることはないのだろう。
そんな期待と尊敬は彼女に打ち砕かれた。終業式も目前になり、今年度の最後の給食の日だった。普段より幾分豪華なメニューや桜色の小さなケーキに教室中が浮足立つ中、私は怪盗のことで頭がいっぱいだった。彼女もどうやってお米を盗むのが吉か思考を巡らせているようだった。せっかく今年度最後ということで好きな子と一緒に給食を食べられることになっていた。
私が友人たちと机を寄せ合っていると、彼女が寄ってきて一緒に食べることになった。お米を盗むにあたっての最適解が偶然私の近くにあっただけで、私目当てで寄って来たわけではないことは分かっていた。彼女はお米は見るが人は見ない。
それでも隣に座る彼女は怪盗でもただの子供でもない、一人の友人に見えて嬉しかった。
いただきます。
と皆で声を出した後に箸がぶつかる音が響きだす。今年度最後の給食といっても感慨深さや別れを惜しみ哀愁を感じている子はいないようだった。
終業式は明日だし、私たちはまだ小学五年生だったのでここで本物のお別れがくるはずなんてないのだ。普段通り過ごしてなんら問題は無い。しかし、私と彼女は違った。給食がパンの日は一言も言葉を交わさず、お米の日だけ一緒に帰る。たったこれだけの弱い繋がりだ。クラス替えがあっても尚保たれる繋がりには見えなかった。今日がちゃんとお喋りできるかもしれない最後の日だ。
今日の彼女は妙に挙動が不審だった。普段はしなやかな腕の動きは骨の軋む音が聞こえてきそうなほどギクシャクとしていた。新緑の瞳からは誇らしげな光が消え、申し訳なさそうな気弱な光がぼんやりと瞳の中央を陣取っていた。
こんな状態でお米を盗むべきではない。と彼女に目で訴えたつもりだったが、まるで通じていない。彼女は弱弱しい瞳で隣に座るDちゃんの茶碗を見つめ、思案していた。彼女の悪行を知る唯一の者としてきちんと見ておかないと。しかし、あんな情けない姿を見られるのは彼女も辛いのだろうと思った。
弱々しい彼女から目を逸らした時だった
「エリカちゃん、それ私の茶碗だけど」
Dちゃんが彼女の名前を呼ぶのが聞こえた。私が彼女が怪盗であることを知って以降、一度も呼ぶことがなかった名前だ。
問題はそこではなかった。彼女が手に持つ箸はDちゃんの茶碗の中でお米を掴んでいた。犯行を私以外の人間に目撃されてしまった。私が全身から血の気が引き、脳みそが遠くに行ってしまうような浮遊感に襲われているなか、彼女は平静を保とうとしていた。
「間違えてしまったわ。ごめんなさい」
「いいよ、いいよー。あたしがご飯とスープを反対に置いてたせいで間違えたのかもね」
「箸をつけてしまったので私のと交換しましょう。自分のお米にはまだ箸をつけていないの」
「そだね。でも私のはエリカちゃんには多いかも」
自然に誤魔化すものだから関心してしまった。その反面に今まで連綿と築いてきた彼女への尊敬や親愛の念はスルスルと解けていった。「間違い」をきっかけにし彼女とDちゃんの談笑は続いていた。時々私に話題をふってくるのでそれに受け答えながら、家庭科の授業のことを思い出した。
裁縫の練習をした時のことだ。私は玉止めをせずに縫った糸を切ってしまった。残った小さい糸を指で無理やりつまんで結んで失敗を誤魔化そうとしたものの、緊張と焦りで震える手ではうまくいかない。もういいやと諦めて糸を引くとき、ごわごわしたフェルトが抵抗するのを感じた。
ふわふわする脳がどこかから引っ張りだしてきた些細な記憶は、今現在の私の心の動きを冷静に分析してくれるようで安心した。涙がでそうになったが、お米を執拗に噛んでこらえた。口の中で甘味と少しの塩味が広がるが、お米の甘さなのか喉に鼻水が降りてきたのか分からなかった。
「今日は大失敗だったわね」
放課後、いつもの人気のない路地で彼女はけろりと笑顔で言った。まるで失敗を恥じている様子ではなかった。
「でも盗みをはたらいているとはバレなかっただけ良かったわ。六年生になったらもっと精進しないといけないわ」
失敗を糧に前へ進もうとする彼女の姿は美しかった。しかし、その少し弾んだ声を聞くとある疑念が湧いてくる。
彼女は臆病者なのではないか。
常々疑問だった。彼女は何故お米しか盗まないのか。「怪盗」を名乗るなら給食や弁当のお米だけではなく、もっと多様なものを盗んだっていいじゃないか。図書館の本、知らない誰かの傘、先生のカーディガンのボタン、お母さんの財布、百葉箱の中身、盗める物は星の数だけある。
どれも犯行がバレてしまったらそれなりに叱られるだろう。持ち主は悲しむだろう。今日のように「間違えた」で誤魔化せるはずがない。もし犯行が失敗してもその場で笑ってみせれば誤魔化せるからお米を選んだのではないか。
彼女のような可憐な少女に笑いかけられたら誰だって許してしまうだろうし、自分の茶碗に箸をつけられた事にドギマギする浮かれた子だっているかもしれない。
わざわざ放課後に犯行を咎めにきた私は彼女にとって想定外の存在だったのだろう。あの日の零れそうな程に目を見開いた彼女の顔を思い出した。
誤魔化しが効く代わりに盗みをはたらくリスクは多少減るだろう。彼女の犯行を知ったあの日から「怪盗」が登場する本を図書室で何冊か借りて読んでみた。彼らは盗みに伴うリスクさえもスリルとして享受していた。それなのに彼女は安全な道を歩いていた。
血が煮えたぎるままの頭で考えたことを彼女にそのままぶつけたいと思った。しかし彼女を傷つけて関係が途絶えるのは不本意だ。必死に言葉を選んで、でもほんの少しの悪意は滲ませるよう気を付けて伝えた。
「あなたって自分の手の届く範囲のお米しか盗まないよね。六年生になったら先生のお米も盗んでよ。ああ、クラスが別になったら私のとこまで盗みに来てよ」
「あら、貴方がそんな提案をしてくるなんて意外だったわ!ありがとう。一応参考にはするけど私の美学には反するかもしれないわ」
何が「びがく」だ。遠くにいくことを恐れているだけじゃないか。本の中に登場した怪盗は盗むためならどこにだって現れた。彼女にはもう「怪盗」なんてやめてただの子どもに戻って欲しかった。怪盗の仮面を剥ごうと一つ尋ねてみる。
「あなたの、美学……ってなに?ぐ、たいてきな内容はいっかいも、きいたこと、ない」
涙をこらえようとしたせいで上手くしゃべれなかった。それでも彼女は意図を汲んでくれたようで
「あら、一回も伝えてなかったのね。なのに私の活動に理解を示してくれてたのね!お米の怪盗の美学その一!『身の丈にあった盗みをすること』」
とハツラツとした声で答えてくれた。
身の丈にあった……やはり私の分析は正しかったようだ。だからといってこれ以上失望することはなかった。もう私の感情は地の底まで落ち切っていたようだ。『その一』ということはその二、三、四と続くのだろうか。いま彼女の美学を全て知ったらもう一度彼女を尊敬しなおすチャンスが失われると思った。
私は泣きながら「弱虫」と彼女に言った。今度こそ彼女は嗚咽交じりの言葉の意図を汲みとれるはずがないと思った。それを良いことに
「弱虫、弱虫。皆から盗めばいいじゃん。身の丈になんてあわなくていいじゃん」と言った。
涙でぼやける視界をクリアにするため、二度瞬きをしてみると、先ほどの笑顔がさっぱり消え失せていた。「あの日」と同じ顔だった。彼女を「恋愛感情に振り回される哀れな子ども」という型に押し込めてやったときと同じ顔だ。暴れず、怒鳴らず、静かに怒りを表明している。しかしすぐに口元を綻ばせた。
「隣の人からお米を盗むのだって大変なのよ。皆から盗むなんて今の私には難しいわ。子どものうちは身の丈にあった盗みをするのが堅実だわ。貴方も一度盗んでみると大変さが分かるんじゃないかしら。あ、無理にとは言わないわ」
盗みを強要はしないのが腹立たしかった。強要されないなら盗まざるをえない。
「わかった」
「盗んだら報告しに来てね。春休み中はずっと家にいるわ」
彼女の顔にはさらに笑顔が浮かぶ。それすらも恨めしくなって、彼女に背を向けて走り出した。「あの日」と一緒だ。怪盗を、ただの子供を一人きりにしてしまった。でも「あの日」とは違い春の陽気が近づいてきている日のことだ。辺りはまだ明るいから、一人にしたって大丈夫だろう。と自分に言い聞かせた。
彼女のことなんて忘れてしまおうとも思ったが、今日の夕飯は我が家にしては珍しくお米だったうえに、準備は私がすることになっていたので思い出してしまった。今日は両親共に帰りが遅くなるので私と妹の二人きりで夕飯を食べるよう言われたのだ。脚をバタつかせながら夕飯を待つ妹は、まさか私が怪盗(それも炊き上げられたお米限定のスケールの小さいもの)になるとは考えてもいないだろう。
椅子に腰掛け妹と向かいあって夕飯を食べはじめる。両親の目がないので「いただきます」とは言わなかった。箸の音が静かに響いた。お喋りをしても良かったが、幼い妹に話せることなんて一つもなかった。両親の目がないのを良いことに妹はテレビをつけた。ボタンを複数回押して録画していた幼児向けの番組をうつす。楽しげな音楽と芝居がかった歌のお姉さんの声がする。
妹はテレビに夢中で食事の手を止めていた。彼女ならどうするか、そう考えるより前に手が動いていた。幼児用の小さな茶碗の中で大人用の箸を動かすのは緊張した。箸が音を立てないように気を使った。しかし無事にお米を盗れた。口に放り込む。初めて盗んだお米は冷たかった。幼い妹は火傷をするリスクのある炊きたてのお米は一切口にせず、冷やご飯だけを食べたがる。
リスク。彼女は同い年の赤の他人からお米を盗み続けた。かたや私はひとつ屋根の下で暮らす幼い妹から盗った。妹は今が食事の時間であることなんか忘れてテレビに釘付けになっている。こんな無防備な相手から盗っておいて、安全牌を打つ彼女を責める権利なんて無い。
散々彼女を責めていたが、一つ見落としていたことがあった。彼女の盗みを目撃したあの日、彼女は犯行の後「お米を頂いたわ」と呟いた。小さな声だったが私には届く声だった。あの言葉があったから彼女と私の関係は始まったのだ。彼女は「誰かに見つかるかもしれない」リスクが伴う賭けに出て、少なくとも一度は敗けたのだ。それでも賭けに出続けた。私に律儀に怪盗業の報告を続けたのは、賭けに敗けた者としての彼女なりの誠意、怪盗の美学だったのかもしれない。
冷たかったお米も口内の温度で暖かくなってきた。よく噛まずに飲み込んでしまう。ここで賭けに出なければ今晩は眠れない予感がした。犯行がバレるリスクを、犯行が咎められるリスクを背負ってまで彼女が言いたかった言葉だ。小さく深呼吸をしてから声にした。
「お米を頂いたわ」
思った以上に大きな声だった。テレビに釘付けになっていた妹が不思議そうにこちらを見ている。まさか自分のお米が盗られたなんて想像もしていない様子だったので安心した。
「『いただきます』言ってないでしょ。あんたも言いな」
「うん」
いただきます。
テレビの音に掻き消されてしまうほどの小さな声で妹は言った。まだその言葉の意味は分かっていないようだった。
お米は盗んだ。「お米を頂いたわ」とも言った。彼女に言われた以上のことを一応はやった。それなのに眠れなくてあっという間に朝が来た。母には「珍しく早起きして偉い」と褒められていたたまれなくなった。「せっかくなら早めに学校行きなよ」と提案された。普段なら断固として拒否するが、徹夜をした罪滅ぼしだと思い、受け入れた。
朝の通学路は空気が澄んでいて、私がいるべき場所では無いと思った。正門も正面玄関もまだ空いていなかったので職員用の門から入った。ここも私がいるべき場所ではなかった。終業式の日ということで、学校中の掲示物や児童の荷物は取り去られ、生活の跡すらも無くなっていた。どこもかしこも私を疎外しているようだった。
教室の扉を開けると、彼女がいて驚いた。彼女の方も驚いたようで「珍しいわね」と話しかけてきた。放課後でなくても、給食がお米の日でなくても話していいのだと思った。
「う、うん。今日は早く起きたから。」
「素晴らしいことね」
「あなたはいつも早く起きて学校に来るの?」
「ええ、早起きすると一日が長くなって嬉しいの」
「そっか……」
気の利いたことが言えないでいるせいで気まずい沈黙が場を支配しそうになる。
「ねえ、」
彼女はいとも簡単に沈黙を打ち破ってしまう。
「なに」
「貴方、全然わたしの名前を呼んでくれないのね」
遂に指摘されてしまった。意図的に彼女の名前を呼ぶのは避けていた。意図がバレないように、彼女を傷つけないように気をつけて答える。
「それは、なんか違うと思って」
「違うって?」
「あなたは怪盗、だから………その、あなたの悪行を知ってる私が、その辺の子にやるみたいに普通に名前を呼ぶって……なんか失礼でしょ」
意図なんて本当は無い。ただ気恥ずかしかっただけだ。言葉を区切って、恐る恐る彼女の顔を見ると頬を赤く染めて嬉しそうな顔をしていたから驚いた。驚きつつも、もっと喜ばせたいと考えてしまう。
「怪盗が本名で活動するなんて変だからあなたのことは名前で呼ばない……」
「そうよね!貴方の言う通りだわ!」
彼女の喜ばしげな声は、早朝の澄んだ空気に相応しかった。人も物もない、がらんどうの教室に充満していた寂しさを取り去ってくれた。
「怪盗のとき専用の名前をつけないといけないわ。考えてみるわ!」
ノートと鉛筆をを取り出し、カリカリと音を立てだした。名前を考えるのに夢中なようで一言も喋らない。私も大人しく自分の席に座り、本でも読もうと思ったが、図書館の本は返してしまったのだ。仕方がないから私もノートと鉛筆を取りだした。
静寂の中、二本の鉛筆がノートを引っ掻く音が響く。彼女が怪盗業に成功した日の、路地から東公園までの気まずい沈黙が嘘のように心地良かった。徐々に教室に人が増えだす。お喋りの声で騒がしくなっても彼女の鉛筆の声は聞こえていた。
先生も教室に入ってきたタイミングで彼女は私の肩を叩いた。
「完成したわ」
両手で大切そうに抱えていたノートを私の机に広げてくれた。そこには文字でびっしりと埋まっていた。
「どれが完成した名前?」
「これ」
ある一点を指した。
俵笑舞米
本の中で見たことはあっても授業ではまだ習っていない漢字が混ざっている。読み方はおおよそ予想がついていたが、大切な名前を読み間違えてはいけないから尋ねてみる。
「なんて読むの?」
彼女は目をパチクリさせ、口を少し開いてすぐに閉じ、私の左手をとった。私の掌を人差し指でなぞり出す。
た わ ら わ ら ま い ま い
くすぐったくて笑いそうになりながら、書かれた文字を忘れないように反芻した。
「読みは分かったかしら?」
「うん、分かったけど手に書くことないでしょ。くすぐったいよ」
「記憶に残るからいいじゃない。この名前なら貴方も呼べるでしょ?」
予鈴が鳴り、舞米は軽い足取りでノートをパタパタと羽ばたかせながら自分の席に帰っていった。
自分の机の上のノートに目をみやる。
昨晩、妹からお米を盗んだことを文章で舞米に伝えようとした。丁度書ききったところだったので渡したかったが、始業のチャイムに阻まれて渡せなかった。ついでに、「舞米だって私の名前を呼んだことないじゃん」と言ってやることもできなかった。
終業式以降、舞米と言葉を交わすことは無かった。進級した舞米と私は別々のクラスになってしまった。私が新しいクラスでできた友達にかまけている内に舞米は転校してしまった。梅雨に入りたての、鈍色の空の日に知った。両親の仕事の都合だそうだ。
連絡先は知らないので二度と会うことは無いのだと思った。仕方がないので終業式の朝に彼女に教えてもらった名前を眠る前に呪文のように唱えた。まいまい、まいまい。呪文を唱えてもよく眠れる訳ではなかった。
会話として不自然になろうと彼女の名前は「ねえ」や「あなた」で埋めあわせ続けた、あの日々の償いとして「まいまい」と唱え続けよう、と思った。しかし彼女と親密だったのはたったの二ヶ月半で、しかも給食がお米の日に限ることに気付いた日にすぐにやめた。二年も「まいまい」と唱えているのだ。もう償いつくしたはずだ。それに、彼女の人差し指が私の手をたどる感触は覚えていても「た わ ら わ ら ま い ま い」の正しいイントネーションは教えられていないし、ノートに書かれていた漢字を正確に思い出すことのできない私がこれ以上無闇に呪文を唱えるのは彼女に不躾だと思った。
呪文を唱えることをやめると、すぐに彼女のことは記憶の隅に追いやってしまった。薄情なやつだ、と自分でも思った。
テレビにうつる彼女の顔写真は卒業アルバム用に撮られていた物の様で、私の知らない学校の制服がちらりとのぞいていた。朝食をたべながら事態を把握するのは難しそうだったので一回箸を置いた。報道番組によると、彼女は政治家や大企業の社長など要人が多く集まる食事会に不法侵入し、お米を盗み、その場で取り押さえられたようだ。プライバシーを守るために声を加工され顔も隠された男性が
「もう大変でしたよ。どこからともなく現れて、小さい釜に入った米を手づかみで食べだしたんですよ。あんなに熱々だった米を手づかみって、ねえ。お行儀が悪いね。ってお行儀以前の問題か!がはは」
と笑っていた。警備体制に不備があったのではないかとの質問には「いま言えることはない」と答えていた。彼女は犯行時に「俵笑舞米」と名乗っていたそうだ。
そういえば11歳のときの彼女はお米を盗む際、必ず箸を使っていた。犯行は給食の時間と決まっていたのだから箸を使わざるを得なかったのだ。番組は別のコーナーに切り替わったので、再び箸を持って、パチパチと動かしてみた。
2歳の時から箸を使いだしたと仮定すると19年以上は箸を使っている。母親のハイソな趣味の影響でお米よりパンやパスタを食べることの多かった私でも箸を自分の指のように自由自在に操ることができた。道具は人間の機能を拡張すると学校の講義で聞いたことがある。義足や眼鏡が分かりやすい例えだが、箸もその例に漏れないはずだ。
当時の私は彼女は「自分の手の届く範囲の中でしか盗まない」と分析し、それは的を射ていた。しかし、彼女は箸を使い「自分の手の届く範囲」を拡張していた。ただの子どもなりの方法で手を伸ばして、世界を広げて、やがてテレビで報道される程のことをしでかすようになった。それを11歳の彼女がそれを意図していたのかは分からない。箸を使わざるを得ないから使っていただけかもしれない。ただ思い出を美化したいがための屁理屈なのかもしれない。
それでも、要人たちが集まる食事会に現れた彼女は、10年前の薄暗い帰り道を歩いていた時よりもずっと前に進んでいたのは確かだった。
「俵笑舞米」
震えそうな指でスマートフォンに彼女の名を打ち込んだ。トップに出てきたニュースサイトのリンクを軽くたたき、数回画面をスワイプすると彼女の犯行に対するコメントが連なっていた。治安の悪化の兆候ではないかと嘆く人、彼女の出自が犯行の引き金になったと勝手な分析をする人、色んな人がいたが、大抵は彼女の行為を「奇行」とみなして面白がっているようだった。
「お米の怪盗 俵笑舞米」
彼女の肩書と名前を笑う人もいた。
彼女は今まで俵何個分のお米を盗んできたのだろう、「あの日」の時点で鮮やかで自然で洗練されていた盗みはどの域まで達したのだろう。きっと伝統的な舞踊のように可憐で荘厳なのだろう。心からの笑顔でもいい、嘲笑だとしてもかまわない。一体どれだけの人が今日の報道を見て口元を綻ばせてくれるのだろう。
私が一番に教えてもらった名前を、箸で掌に書きながら考えた。
食べかけの朝食を置いて、家の外に出た。まだ街は目を覚ましていなくて、ひんやりとした空気が心地よかった。彼女が手で掴んだお米の熱と、大人に取り押さえられても誇りを失わない新緑の瞳を思い描きながら歩いた。
彼女は10年間で彼女なりに前へ進だ。私も私なりに前へ進んだ。それでも彼女のことを考えると妙に引け目を感じる。彼女と離れ離れになっただけでなく、道を違えたことが悔しかった。彼女は怪盗をやめて本当の本当にただのこどもに戻るチャンスはいくらでもあったのではないか。私も彼女と同じ道を歩むことだってできたのではないか。出会ったときから私と彼女は何もかもが違ったはずだから無理な話なのに、こんな想像が際限なしに湧いてでてくる。
歩き続けて足の裏がじんわりと痛くなるとコンビニが見えてくる。次の行動を考えながら入店した。恐らく出勤や通学前の人たちがぽつりぽつりといた。店内を見て回る。今日のお昼は何を食べようか考えている風を装った。茶色いブレザーを着た女の子がホットスナックを注文したタイミングで、手の近くに陳列されていたおにぎりをショルダーバッグに入れた。店内を一周したあと、レジ横に置いてあった大福を買って店をでた。
店をでて、公園まで走った。こんなに長距離を走るのは久しぶりで、息は上がり背中に汗がつたった。ベンチに座りカバンの中を恭しく見る。適当にとったおにぎりは塩むすびだった。恐らくあの店にある米類の中で一番安価な商品なので安心した。
手に取ると案外軽かった。袋を破き、小さく深呼吸をして齧り付いた。冷たかった。10年前の怪盗になった日に妹の茶碗から盗ったお米と同じ温度だった。口内と同じ温度になりつつあるお米を執拗に咀嚼してみたが、どんなに噛んでも甘くはならなかった。頬の内側の肉まで噛んでしまい、出血した。
ようやく口の中に甘味が広がりはじめた。
お米の怪盗 @warewaredaikon
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