エンドロールが聞こえない。第三十五話
エンドロールが聞こえない。
第三十五話
…………………………
首を振っていた扇風機は、今夏もぼくにしか顔を向けていない。耳をくすぐる鈴の音、すだれの掛かった窓の外に大きくなる綿のような雲を見た。
「散歩に行ってくる」
「眞昼、遅くなるようなら連絡を頂戴。……いつでもいいから」
「………分かった」
太陽が焼いたアスファルトに白い陽炎が揺らめき、熱風が追い越すと白いワンピースに大きな帽子を被った女の子が走り抜けた、気がした。風に揺れた向日葵が可憐に振り返った甘い笑顔に見えたような、気がした。手を繋ぐ歳の離れた兄弟とすれ違い、商店街の大きな看板をくぐる。よく連れられて来た喫茶店には『しばらくお休みを頂きます』と紙が貼られ、閉まったままのシャッターが普段通りになってしまった。
蝉がわんわんとうるさい坂道を上り、公園の屋根付きベンチは子どもたちに人気で座れず、涼を取ろうと入った図書館の冷房は酷く寒い。一眞兄ちゃんが“夏は居場所がない”と言っていたけれど、今のぼくにも居場所は無い。紙と糊、インクの甘い匂いがくすぐる棚の間を抜けて、兄ちゃんが読んでいた本を探してみた。ほんの少し前の事なのに遠い昔のように感じ、手で本の背をなぞりながら記憶をたどる。指が記憶に触れて、あの日が覚めた。小学生のぼくが読めなかった英題は、今も読めず、辞書で調べると医学書の一冊だったのだ。
兄ちゃんは医学部に行っていない。
本当に、この本だったのかという疑問と考え過ぎかもしれないという困惑。それは頭に痩せたじいちゃんと骨が分かる手や無数の管が浮かんでいたからだ。兄ちゃんは自分の選んだ道を悔やんでいたのかもしれないと、何故か、そう思う。本を収める隙間と反対側の隙間が重なり見えたのは、幼いきみではなくて、凛と佇む水瀬の後ろ姿だった。きみより短い髪から覗く綺麗なうなじや、少し開いた服から見える背中。ぼくが知る肌より白い肌は、誰が見るんだろう。細い佇まいが、思い気に少し伸びた髪を耳にかけてページをめくったから、声を掛けずに図書館を出た。
何年もの想い出と一緒にたどったのに、まだ外は蒸し暑い十三歳の夏で大人には程遠くて、子どもの頃にも戻っていない。生きてきたと言うには、まだまだ短くて、じいちゃんに話すと笑われるはずだ。でも、まだ“今”が続くのは辛いと言えば叱られるだろう。歩道に違法駐輪された自転車やバイクを縫うように、二匹の猫が駆けていく。その猫が足元に擦り寄るから歩きにくそうにする飄々とした猫のような雰囲気の人。
「眞昼に声を掛けられるとは思わなかった」
三駅離れた喫茶店の席に着くなり、そう一眞兄ちゃんが言った。注文を取りに来た店員さんに温かいコーヒーと伝えると、兄ちゃんが少し驚き、目を閉じて「ぼくも」と微笑む。テーブルにふたつ置かれたカップにはミルクと砂糖が入れられたものと、何も加えられていない黒いままのものがあり、ぼくは茶色く甘みがある方をひと口飲んで、覚悟を決めた。
「どうして、家を出たの?」
「長男だからと無理強いされた将来に嫌気がさしたんだよ」
「じいちゃんが……兄ちゃんの彼女と付き合うのを反対したの?」
「眞昼、そんなやさしい話じゃない。決められたお嫁さんがいたんだよ。分かるね?」
所謂、許嫁だ。家や家系を守るとかそういう理由で、親や親類が決めた結婚相手。本人不在の人生を奪うような風習がまだ残っていて、それがうちの家にもあった。兄ちゃんに許嫁がいると告げられたのは高校生の頃だったらしい。その頃から“家に縛り付けられる人生”が死ぬまで続く事と、生涯を共にするパートナーが、勝手に決められた事に息苦しさを感じ始めた。進路相談でも“長男として振る舞わなければ、大学へのお金は出さない”と言われたらしい。兄ちゃんが“家族”というものに不信感を持った二度目の瞬間だった。
テーブルの上、コーヒーの前で組まれた兄ちゃんの手がごつごつとした手になっていて、その手にあの手が重なる。
「じいちゃん…………亡くなったんだよ」
「そう……、大分、弱っていたから……」
「知らなかったの?」
「誰とも、連絡を取っていないからね」
家族思いで、家族が大好きだと思っていた兄ちゃんが、家族を犠牲にしなければ自分を生きていけない。それを選んだのは……本当に兄ちゃん自身なのだろうか。生前、じいちゃんが『一眞は我儘過ぎる』と言ったのは、どちらの立場に立って見た“我儘”なんだろう。
「でも……こ、高校生の人を、妊娠………させるのは違うよ」
「そうだね、眞昼。ぼくらを知らなければ“恋の使い方”を間違ったと見える」
ぼくが布団の中に逃げ込んだ“あの夜の喧嘩”も“恋人を妊娠させた事”よりも“そんな相手を作って、家はどうするのか”という話が主になされ、当事者不在の話に呆れて家を出る決断をする。
「ぼくらにとって、あの人達の価値観は不快だ。あそこに、ぼくの中身は必要無いと確信したんだよ」
目を閉じ微笑む。今ならきっと父さんは許してくれると言っても、ゆっくりと首を横に振り「ぼくが許せない」と言うだけ。兄ちゃんは桜があって、ぎしぎしと鳴るのに意味のある長い廊下があって、太い梁が低くなっているのにも意味がある家には無い、幸せの意味が詰まった家がある。
「眞昼はしっかり歩けているみたいだ」
「どういう事?」
「ぼくが言うのは可笑しいけれど、凄く“お兄ちゃんっ子”だったから」
「……うん、一番近くにいる“神様”だった」
「神様?」
「そう“神様”。兄ちゃんが世界の中心で、兄ちゃんと話す事で生きていく為の方角が分かる」
「眞昼は大袈裟だ」
兄ちゃんが温くなったコーヒーの黒い表面を見つめて、少し揺らした。何か考え、言葉にする為の練習をしているようだった。
「人は一期一会だ。例え、家族であっても。それは感情もそうとも言える。ひとつひとつに真摯でなければ、後で後悔しても、もう会えない」
ぼくら家族が兄ちゃんを大切にしなかったから、もう帰ってこない。兄ちゃんの心にいたぼくたちの居場所には新しい家族が居る。
ぽつり、ぽつり沈黙が訪れ、コーヒーが無くなれば一緒にいる理由も無くなる。向かい側のソーサーが、かち、と鳴り、兄ちゃんが、あかるの事を口にした。その答えとして「まだ付き合っているよ」と簡潔に伝えると、安堵しているのか寂しそうなのか分からない表情をする。ぼくの使った“まだ付き合っているよ”という言葉の“まだ”って何だろう。考えがもつれだし、それから逃げるようと映画の話をした。きみと観るようになった映画は苦手な字幕を克服する為の映画で、克服したと自慢をしてもみた。兄ちゃんが好きな古い映画も、よく観るとも話した。
「『雨に唄えば』か。良い映画だし、良い歌だね。『ローマの休日』は観たかい?」
「多分、まだ観てない。多分」
「いずれ観るといい。タイトルの意味や時代背景も調べると、より楽しめるかもしれないね」
「あかるに言ってみようかな」
「眞昼たちが必要になった時でいいんだよ。良い……作品だからね」
カップの底が見えたから喫茶店を出ると、外は最高気温を記録し終わった後だった。空には高さ一万五千メートルを超え、成層圏にも達する大きな積乱雲が覆いかぶさる。二人で飛行機が飛ぶ高さにまで成長した雲を電線越しに眺める。薄い赤や青、紫、輝度を写し、浮かぶ、逢魔が時。
「眞昼、また会う事は出来るだろうか?」
「どうして?会わなくても…………生きていける」
「ぼくは眞昼と話して生きていきたいんだ」
答えがどちらとも取れるくらい小さく首を動かした。本当に小さく。
「日時は眞昼に合わせるよ」
「ねえ?兄ちゃん」
「何だい?」
──── 家族って、何だろう?
ぼくなりに、ばあちゃんやじいちゃん、父さん、母さんに思う事がある。家族という最小単位の繋がりが兄ちゃんにとって苦痛で、ぼくはそれが苦痛だ。家族が家族の足枷になる意味が分からない。
「ぼくも分からないな。今は……まだ分からない」
兄ちゃんと別れ、三十分もしないうちに冷たい風と雷を伴った大きな雨粒が空から落ちてきた。駅舎から見る、ばたばたと落ちる大きな粒はバス停から家まで向かううちに、ずぶ濡れになって風邪をひくかも、と、駅舎に磔にされる。
今は“妻”と一歳になる“子ども”の三人で暮らしている。
兄ちゃんはずぶ濡れになりながら、家族の待つ家まで走っていると思う。『雨に唄えば』のように踊りながら向かっているかもしれない。そこに兄ちゃんが好きな家族が、いるから。
“眞昼は、ぼくらが“堕ろす選択”をしたと思っていたんだね”
兄ちゃんが家族の話をした時、そう言われて苦笑いをした。相変わらず、ぼくが何を考えているのか分かるんだね。でも、大学生と高校生、その間の子ども。そんなの………絶対に産めないと思っていた。だから、きっと保健の授業で習った“中絶”を選んだのだと兄ちゃんがした行為を蔑んでいた。
「どんな事があったにせよ、ぼくらの責任だ。そして、どの選択をしてもぼくらの責任。また、選んだ道の責任もぼくらは取るよ」
ぼくら。
そう表現する兄ちゃんは、大学を辞めて働いている。だから、滑らかだった手がごつごつとした働く手に変わっていた。
一時間程降り続けた雨は嘘みたいに去っていった。駅の公衆電話から母さんに「遅くなるから」とだけ伝え、どろどろと重たい音で揺れるバスに乗る。車窓に流れる灯りを眺めながら、兄ちゃんと大切な人は“快楽”や“だらしなさ”で“その行為”をしたんじゃないと求めていた答えを知ったのに、酷く動揺していた。
『どっ、どちらっさまですかっ!?』
インターホン越しに、びくびくと危機を感じている小動物みたいな声。
「眞昼です」
『まっ!まひりゅ、違う!まひるくんっ!?』
スピーカーの向こうで『まっ、待っててくださいっ!あっ、わ!きゃっ』と慌ただしく通話が切れ、玄関から飛び出て、数段の階段を駆け降りてくる音。ぼくまでの数歩前で、それは起きる。きみが「きゃっ!」と躓き、門に隔てられたぼくは手を出せず、がちゃん!と、きみが門を掴んで転けずに済んだ。
「び、びっくりしたっ」
「いや……だからさ」
いつもの出来事と怪我がなかった事にも安堵して、門を開けてくれたきみのパジャマのボタンも、また、ちぐはぐだ。
「こ、こんな時間に、どっ、どうしたんですかっ?」
「うん……あかる、ボタンがちぐはぐだ」
あかるの胸元に手を伸ばし、ひとつずつ直していく。小さく「ひゃっ、ひゔ〜」と“そういう”声で固まり、違うと気付いて真っ赤な顔で、もじもじとする。
「こんな所ではしないよ」
「いじ……わる、ですっ」
招き入れられた白い家の廊下は、きみが麦茶やお菓子を用意してくれている所以外に光がない。本当に、お父さんもお母さんもいなくて、今夜もきみは独りなんだろう。部屋の本棚には“孤悲”の和歌が載る本が納められ、机の上に積まれた問題集や参考書は増えていた。
ぺたんと横に座るきみが、ぽわぽわとした笑顔でパジャマのボタンを掛け違えていたのは、シャワーを浴びて身体を拭いている時にチャイムが鳴ったからだと教えてくれる。スピーカー越しに話をしていた時は裸だったって。いくら付き合っているからと言っても危機感がなく、ふわふわとしていて、不用心だ。
「悪い人だったら、危ないんだよ。あかる」
「ごめんなさい。だから……まひるくんでよかった」
きみの牡丹色に染まる頬に手の甲で触れる。その手に、いつも通りやわらかい頬を擦り付けて甘える、きみ。
「ねえ、あかる?」
「はい」
もし、ぼくがコンドームを着けずにセックスをしたいって言ったら、あかるはどうする?
「わたしは言いました。あなたが欲しいと」
「でも、もし妊娠したらぼくたちは一緒にいれない」
「はい。だから……あの…………その、えと……」
まひるくんが気持ちよくなる時は、お腹でも、胸でも、お顔でも……好きなところに出して?
なかじゃなくて、外にお願いします。
あかるの口から出てきた言葉は快楽の為なんだろうか、それとも覚悟なんだろうか。一眞兄ちゃんは『ぼくらはさ、互いに選んだんだよ。二人の子が欲しいって。だから、快楽や間違いで子どもが出来た訳じゃないんだ』と幸せそうに話していた。二十歳を超えた兄ちゃんと中学生のぼくでは立場が違う。覚悟をしても、あかると生きていけない、子どもも生まれてこない。
こんな分かりきった事で避妊をしないのは、ただの無責任じゃないのか?
あかるに一眞兄ちゃんと会えた事を話した。そして、兄ちゃんが家を出ていった本当の理由と恋人との間に子どもがいる事。ふたりで覚悟してセックスをした事も、全部、きみに伝えた。
「そう……だったんですね」
「あかる。覚悟とか好きか嫌いかとかじゃなく、選べない事もある……かもしれない」
避妊をせず“間違った”その一瞬から、望まない未来が待っている。ぼくらの歳では何を言っても、それは“言い訳”だ。ぼくは、きみと大人になっていきたい。
「やっぱり、まひるくんはやさしい」
いいや、だから違うよ。きみがやさしさに見えるぼくは、ただ怖くて力加減が分からない、生き方も分からない、あやふやで穢れた人間なんだと伝え、温まった肌と甘い石鹸の匂いに甘えた。無防備に「もっと……どーぞ……っ」なんて言うから、やわらかく膨らんだ胸に顔を埋める。あかるの左胸を内側から蹴る心臓と、くすぐる声に自分が何をしているのか覚め、離れようとすると抱きしめて「話してくれて、ありがとお。わたしは、そんなまひるくんも好きです。あなたは……何も悪くなくてね?だから、このまま、わたしの胸で泣いていてください」と、やさしさが鳴る。
あかるも避妊をしない事が、どういう意味なのか分かっていたはずだ。きみは何を急いでいるんだろう。水瀬との噂?それとも独りは嫌だから?ぼくの事を“王子様”なんて言えちゃう強い想い?
ぼくらは動物のそれみたいに身体の中を擦り、きみの奥、もっと奥を知ろうと、深く求める。潤んだ瞳で、熱い息で、絶え絶えに、きみの声で呼ばれる名前。身体を押さえ付けて、届かないと分かっているのに一番深くに密着させて、出す。きみも、か弱い力でぼくを抱き寄せるのだけど、届かないコンマ数ミリの隔たり。二人では越えられない壁があると知っているのに、何度も、何度も、前より、もっと、もっと、と。
ぼくたちはコンドームで受け止めた性液のような白濁色のどろどろした思春期を送っている。こんな、間抜けな姿をぼくの家の庭にある桜は、また栄養として綺麗な花を咲かす栄養に………。
…………………………
エンドロールが聞こえない。
第三十五話、終わり。
*本、第三十五話にて一時休載と致します。
再開をお待ち下さい。
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エンドロールが聞こえない。 ヲトブソラ @sola_wotv
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