エンドロールが聞こえない。第三十四話
ちりん、ちりりん、ちりん。
今年もぼくが風鈴を下げた。去年より蝉が耳元で喚くように騒がしい気がする。夏休みが始まったのだけど、文化部の活動がある日は図書室を開けるとの事だから、いつもと変わらない朝だ。
「まひるくん、おはよお」
ぼくを見付け、走り出すあかるに「危ないよ」と言いながら準備をする。あかるは「わあっ!」と、のんびりとした声を出して躓き、支えようと出した腕に、洗濯物のようにぶら下がった。
ちりん、ちりりん、ちりん。
「もう付き合って一年半くらいなんだからさ……」
「うぅ、ごめんなさい。で、でもっ、まひるくんが助けてくれる!」
重要なのは、そこ?
図書室の大きく開いた窓から真夏の空の下で運動部員が響かせる声が入ってくる。そろそろ大会への地区予選が始まる頃だから最後のアピールや調整に向けて、頑張る時だ。この声の中には半井の声も混ざっているけれど、彼はもうメンバーに選ばれている。だけど、もっと先を見ているから、走り切るまでは手を抜くような奴じゃない。以前と違い、不思議なのが、彼が成した事と、これから成す事に嫉妬や羨ましさを感じない事だった。
かっかっ、こつ。しゃあ。………ざっ、ざっ、かっ、しゃっ、しゃっ。
あれから水瀬との噂話には辞書に載っている通り“尾ひれ”が付き、先生達も問題視し始めた。夏休みに入り、初めて図書室に勉強をしに来た日、いつも通り気怠そうな長野先生が「おー、ちょうどいいや。お前たち、ちょっと職員室に来てくれ」と水瀬とぼくが呼ばれる。そこには六人ほどの先生がいて、ぼくらに“弁解の場”というものが設けられていた。
「まあ、本来は口出しする事じゃあないんだが、事が事だ」
そう長野先生が腕を組んで机に寄りかかり話すと、他の先生も似たような事をぼくらにする。先生達が知りたい事は、噂話の事実と確認。だから、水瀬とぼくは、そのような事は無い、と伝え、それに先生達が目を合わせた。少しの沈黙のあとに、教頭先生が「夏休み明けの全校生徒集会で注意をするから安心しなさい」と言う。たとえ、教頭先生が注意をしたとしても、他人の悪い事や性の事で好き勝手に妄想して遊ぶのは収まらないよ。だって、ぼくらは“子ども”で“馬鹿”だからだ。
「お前達が悪い訳じゃないんだろうが、他の先生も、もちろん、俺も。怖いんだよ、思春期というやつが」
職員室を出て図書室までの廊下で歩きながら話てくれた長野先生の言葉が、妙に安心する。他の先生達が使っていた言葉は綺麗すぎて、きっと、嘘を付いている。だから、他の先生達は“弁解”なんて言っていたんだろう。声を大きくする所は綺麗でも、小さな、その端々に、ぼくらを疑う言葉があった。
「関口くん、ここってさ……」
無実の罪、罪なき罪が晴れたから、と言って、水瀬は変わらず隣にいる。ただ、ぼくは言葉少なく、彼女に対して表面上で接している、だけ。水瀬も今まで以上でも、以下でも無く、ただ、ぼくの変化に触れないようにしている、だけ。
八月を二日後に控えた今日。雲が厚みを持ち、大雨や雷を鳴らす為の練習をする夕方。学校から“さよならの神社”までの道を歩く、短い影が急に「あのっ、そのっ」と、わたわたとしだすから、少しだけ……いや、少しとかでは無く、凄く、いやらしいきみの姿を重ねて、穢らわしくも期待をしてしまった。
「は、八月……なんですけどっ、あまり……会えなぃ…です」
そう残念がる様子を見せながらも、とても表情は明るい。理由は一年生の文化祭で主役を演じ切ったのが評価されて、今年も主役候補に挙がっている事と、
「八月の終わりに………市民ホールの舞台に立つの」
しっかりと、あかるも自分の夢に手を掛けて、自分のものとする為に歩み出していた。文化祭の体育館で保護者や学校関係者とは違い、壁際に立っていた大人達のなかには劇団の人たちがいたらしく、そのひとつの劇団から誘いがあったのだと言った。
「が、学校に連絡があって……練習期間は一ヶ月もありません。わたしに与えられる役は大きく無いけれど……大切にしたい」
「……………うん。そう」
遠くで雷鳴がする、ぼくの心が喜ばない。あかるに自分のしたい事は頑張れと言ったのは、ぼくだろう。きみは苦手な事にも立ち向かい、主役をやり遂げ、その演技は人の感情を揺らして、本物の劇団から誘われたんだ。あかるの手を取って、良くやったね、凄いね、頑張ったね、と、一緒に喜べよ。抱きしめて、いつかみたく、たくさん頭を撫でてやれよ。それなのにどうして、喜べない?どうして、苛立ってくる?
やっぱり、ぼくはどこかおかしいんだ。
「まひる、くん?……何か、わたし」
「いいや。凄いなと思って言葉が出なくなっちゃった」
「えと……っ、あの、うん」
「頑張ったね、あかる」
片手で、くしゃっとあかるの髪を雑に撫でた。ぼくは何をしているんだろう。きみに嫌な感情でも隠さないと約束したのに、素直に“どうしてか分からないけれど、腹が立つんだ、ごめん”と言えない。格好の悪い嫉妬が心の底の方から、ずぶずぶと溢れ出て溺れていく。
誰か、誰か、ぼくを助けてよ。お願い。
立ち止まり、脚元から伸びる長い影を見る。影が、ずぶずぶと沈んでいく汚い何かに見える。お前は長く伸びるばかりで、その大きさの割に何も無く、空っぽだな。
「まひるくん?」
ぼくのシャツの袖を引っ張る短い影の中には、きっとたくさんのきらきらとした宝石が詰まっている。
「ごめん、あかる。少し……独りになりたい」
独りになっても何の解決もしない。余計に苦しくなるだけなのに、そうするしか方法が浮かばない。外から与えられる“羨ましさ”や、きみの心配に痛みを感じて逃げたがばかりに、もう一歩先にある苦しみに自ら脚を踏み入れる。
自分で自分が上手く扱えない。
自動販売機で買った缶コーヒーの中身は、少しも減らず、口を開いた飲み口を眺めるだけで、暮れた公園のベンチに座っていた。それに意味なんて無いけれど、これ以外に出来る事が浮かばなかった。何も出来ない苦しみは、どう耐えればいいんだろう。ただ、こうして耐えるしかないのか。
「関口くん?どうしたの?こんな所で……」
掛けられた声に顔を上げると、私服姿にバッグを斜めにかけた水瀬が立っていた。公園の街灯に光る陰影の強い姿が、少し驚いているのはどうしてだろう。
「水瀬こそ。なんで、ここにいるの?」
「これから塾で前を通ったんだよ…………関口くん、制服……」
何だか、家に帰りたくないんだ、と告げると、さらに彼女が驚き、そして、“大丈夫?”と聞かれる。だからさ、みんな“大丈夫?大丈夫?”って、それって、どういう意味なの。何が大丈夫で、何が大丈夫じゃないのか教えてよ。
長身で細い身体が滑らかに隣に座ると、ぼくと同じように背もたれに身を預け、だらりと空を見上げた。あかるみたいに慌てて言葉を探したり、聞いてきたりする訳では無く、彼女も夜空を見るだけ。しばらく経ち「水瀬、塾は?」と聞くと「ああ……うん、忘れてた。まあ、いいや。休むよ」と夜空を見たままだ。そんな事をして、親に怒られ……………まあ、いいや。ぼくは水瀬じゃないし、関係が無い。
ぼくと水瀬の間には、学校で借りた本と二冊の教科書とノートが入っただけの痩せたリュックと、淡い色にとても明るい色の線が入ったシンプルで重たそうなバッグがある。最初から二人の距離は、この距離で良かった。図書室で水瀬が声を掛けてきた日から何も変わらず、むしろ、水瀬のひとつ、ひとつに過剰に反応したから間違ったんだ。無実の罪、罪なき罪に振り回されていただけ、ぼくやあかるや水瀬には何もない。彼女の、本当にそれが現実だったらいいのにという歯痒さと、現実では無いのに悪いのだと認めさせ、態度を変えるようにと押し付けようとした価値観に苛立ちを感じているだけだ。
夏の星座すら見えないのに見上げて、二人して何も話さない。空を隠そうとゆっくりと現れた紫雲に、何かが終わりそうな感覚がして、それが静かな救いだと思った。目を閉じる、耳が音を探し始める。隣で、あかるの呼吸では無い音がする。
「関口くん?」
「……うん?」
「もう二十一時過ぎたからさ、帰りなよ。さすがに心配するよ」
驚いて、ベンチにもたれていた身体を起こし、公園の時計を見た。
「……え、ぼく?」
「寝てたよ」
「…………水瀬はどうしてたの?」
「空を見てた。たまに寝ている君を見ていた……でもあるけれどね」
そんな胸を打つ間隔が短くなる言葉を、涼しい微笑みで言う水瀬が“大人”だなんて思ってしまった。水瀬の細い長身がベンチから立ち、背を伸ばして欠伸をする。さすがに、二時間も座っているのは辛いね、と、はにかむ。
「帰ろう。関口くん」
帰ろう、どんな家でも。
待ってくれている人がいるなら、帰ろうよ。
八月に入ると「ご、ごめんなさいっ」と小動物のように全身を使い、ふるふると謝るあかるがいた。平日の部活だけではなく、土日に劇団の練習が入るのだと謝る。大体、予想は出来ていたから驚きはしなかったけれど、ひとつ、あかるに思う事がふつふつと沸点に近付いていた。
「何が、ごめんなさい、なの?」
「えっ、え、あのっ、いま……言い、ました」
「うん、聞いた。一週間、練習なんでしょ?」
あかるは“察して欲しい”という前提で話す事が多く、大事な所は、ぼくに言わせる事が多いと思う。そういう伝え方は違う………でしょ。
「まあ……いいや」
「えとっ、あのっ!わたし……っ」
「あかるの家に行くんでしょ?」
どうして『練習があるから会えなくなる』とか『今からわたしの家でセックスがしたいです』とか、そんな大事な事を言ってくれないんだろう。いつもぼくが察して、いつもぼくが言葉の形にして、いつもぼくが責任を負うみたいになる。あかるの考えていた事と間違えれば「違いますよっ」と言われる。それだったら初めから自分で言葉にしなよ。
がたがた、ごとごと、と、酷くうるさい電車の椅子は傷んでいて、バネが分かるくらいなのに、この路線の電車は放ったらかしだ。あかると並んで座るも、この間、水瀬とベンチに座ったリュックと鞄を挟んだ距離より遠く感じる。反対側を走る電車とすれ違う度、風に押された窓が、ばたばたと揺れるのが気になって見た窓は、いつの間にか少しも開けられないように固定されていた。またひとつ、逃げ出せる場所が失くなった気がして、息苦しくなる。頭の上に被さっている空という名前のお椀といい、ぼくの周りで閉じ込めるように居る人といい、息苦しい。隣で、そわそわと何度も口を開きかけるあかるの姿を、横目に見ながら見えていないふりをしていた。
ねえ、どうして、そんなに話していないとそわそわしたり、慌てたりするの?どうして、ぼくと会話が無いと不安がるの?水瀬は、そんな事を気にせず、ぼくとの空間を共有していたんだよ。
息苦しい。
「あかる?そんなに、ぼくとは話していないと落ち着かない?」
「え、えっ」
「会話を探さないと、そんなにも気まずい?」
「あ、え……えっと…………」
ぼくは自分の扱い方が分からない。せめて、“恋の使い方”の正体が何なのかだけでも知りたいんだ。もしかしたら“恋の使い方”も“庭の桜”のように、ぼくを間違えさせて遊んでいるじゃないのか?
「ぼくはあかるが隣にいるだけでいい。美味しそうにワッフルを食べる顔を見るだけでいいのに」
「……っ!あ……っ、まひるくん……っ?」
「“よい子”でいようとするあかるなら、もういいよ」
きみがぼくの左腕に顔を埋めて、肩を揺らし、腕が熱く濡れていく。ぼくらは互いに不器用だ。同じ過ちや間違いを、何度も、何度も、繰り返している。その度に泣いて、喚いて、焦って、喧嘩をして、抱き合って、抱き合って、抱き合って、キスをして、セックスをする。感情がずれ落ちていく前に、肌や身体の粘膜やコンドームの厚さくらいの隔たりで気持ちを確かめるのに、結局、こうやって分厚い隔たりを感じてしまう。
「っふ!………………ぷはっ!」
あかるの家に入るなり玄関でキスをした。驚いて瞳孔が心臓の音と共に開いたり、閉じたりを繰り返すきみ。
「今日は……積極的っ、です……ねっ」
「……しばらく、出来そうにないから」
去年、脚を怪我したせいで行けなかった花火大会は、今年も行けない。お祭りにも行けないかもしれない。きみがぼくに求める事は叶えてきたように思う。でも、ぼくはまだ………。ぼくがまだまだ子どもなのかな。それとも、あかるへの嫉妬?もしかして、あかるに足りない所を……………、水瀬?
きみと会えない時間が長くなる。ぼくはその間にどんな風になるんだろう。あんな短い間で声が変わって、身長なんか身体から音がするくらいに伸びていくのに、たった一ヶ月、会えなくなる間に、きみを想う事が出来なくなっていたら、どうしよう。
ぼくがきみの“王子様”だったのは、いつまでだろう。きみがぼくの気になる“女の子”だったのは、いつまでだろう。小学生から中学、高校生の年齢は、きらきらした世界から酷く澱んで、どろどろとした世界に沈んでいく時間に感じていた。ぼくと一緒に穢れていくきみを望み、穢れたきみに嫌悪する。“思春期”を越えてきたぼくらは、自分の事でさえ分からずに、誰かの事には一方的な美しさを求めていた気がする。
…………………………
エンドロールが聞こえない。
第三十四話、終わり。
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