エンドロールが聞こえない。第三十三話

 ──── まひるくんを誰にも渡したくない。


 あかるが口癖のように言うそれは、図書室から始まったぼくと水瀬の関係を知っていたからだろうか。もしかすると、水瀬が声をかけて、すぐに根も葉もない噂が図書室で聞こえてくる“ひそひそ話”のように、煙を上げ始めていたのだろうか。ぼくと水瀬の噂話とあかるの意味深な言葉、水瀬のぼくに対する想いや、頭を駆け回る答えの出ない正体不明の悩みから抜け出すみたいに、じいちゃんの好みだった熱い湯船から出た。


 お風呂上がりに飲むサイダー。ぱちぱちとコップの底から水面まで浮かんで弾けるように、少し揺らせば、何もかも消えてしまえばいいのに。


 先々週の土曜日が梅雨の最後だと思っていた通りに、その日が梅雨明けだったと宣言をされた。だから、宇宙まで抜けたふりをしている青が、ぼくらの頭上を覆っている。蝉も鳴きわめき出し、今年の夏も暑くなるらしい。いつもの神社、いつもの鳥居の前、いつもの時間より少し早く家を出てあかるを待つ。一学期、最後の登校するまばらな生徒の中に、一際ちんまいきみが、ぼくを見つけ駆けてくる。そして、ぼくは彼女の事を知っているから、一歩、一歩と近付いて“準備”をする。


「きゃっ!」


 きみは走ると必ず躓くでしょ。そろそろ、自分でも覚えてよ。ぼくが覚えているから、こうやって、膝を擦りむかないように支えられるだけなんだよ。


「び、びっくりしたっ」

「相変わらずだね。おはよう、あかる」


「まひるくん、おはよお」


 きみの“おはよお”も、相変わらずのままだ。


 この日は少し変則的な時間割で三限まで授業があり、そのまま昼食の時間を挟んで部の活動も行われた。だから、あかるを待つ為に図書室へ顔を出したのだけど、やはりというか、そうだよな、と、思うくらいに図書室にいる生徒は少なく、ひっそりとしている。書き進めるシャーペンの先がノートの上を擦り、心地よく鳴る。頬杖をして、伏せ目がちに参考書とノートを行ったり来たりしていた。たまに頭を抱え、部活を辞めて伸びた髪の毛をくしゃっと握り、ひらめいて、またペンを進める。隣から聞こえてくる、さぁ、しゃっ、と、参考書をめくる音。


「関口くん?何か怒ってる?」


 少し呆れた表情を作って、気怠く声の主を見ると、眼鏡を掛けた水瀬が緊張した面持ちで膝に手を突き、腕を伸ばして少し俯いていた。彼女に何を言うべきだろう。まず、何から聞くべきなんだろう。


「あのさ、どうして隣に座るの?」


 こくっと小さく喉が鳴ったように思う。


「何も……悪い事をしている訳じゃ、ないもん」

「でも、こういうのがどうなったのか……分かるでしょ?」


 彼女はゆっくりと天井を見上げながら、すーっ、と、息を吸い、そのまま目を閉じ、言葉を発し辛そうに「どうして、私たちが気を使わないといけないの?」と振り絞った。私たち?私……“たち”って何だよ。君のその行動で変な噂を流されて、あかるの耳にまで入った。君が取った軽率な行動に困っているのに、“私たち”って……。


「ぼくは迷惑している」


 冷静に言葉を選んだつもりだった。また小さく、こくっ、と、水瀬の喉が鳴ったように聞こえたから、また言葉を間違ったんだと思う。ぼくは、全部、水瀬のせいにしようとしていた。ぼくもあかるとの事があるから、少し距離を取って話そうとか言わなかったのに、そんな事は棚に上げている。辛い時は水瀬に甘えていた癖に、ややこしい事になれば、これだ。やっぱり、水瀬に何かを期待している真っ黒で、泥臭く、“あれ”みたいに生臭くて、濁っている本当のぼくが、心の奥底に棲んでいるんだ。


「どうして、私ばかりが曲げなければいけないの?」

「そういう……の、じゃなくてさ」


 自分で使ったずるい言葉への答えに自分が辛くなり、シャーペンを置いた手で長くなった前髪を、くしゃっと握った。


 この時、ぼくは不器用な癖に聞こえのいい綺麗な言葉ばかりを使って、水瀬に話していた。それは、誰ひとりの事も考えていなくて、何も失わず、水瀬との心地良い関係も保とうとしていたからだと、今は思う。何もかもを欲した自分が、穢らわしい自分が、心の底に本当に棲んでいるなんて、ぼんやりと目があっていただけだ。心の底に棲む穢らわしいぼくが選んだ欲で間違い、傷付けていく方を選んでしまった。“恋の使い方”を間違え、自分だけ綺麗なままに守ろうとしたから、水瀬にこんな事を言ってしまったのだと思う。


「ぼくはさ、あかると付き合っていて、水瀬の事はどうでもいい。だから、噂話になるような事をされ続けるのは迷惑だ」


 水瀬の伏せていた目が開いた。こちらを見た瞳や唇が小刻みに振るえていた。ぼくは身勝手だ。この噂をあかるの声で聞くまで普通に話していて、似た境遇だから話せる愚痴や辛さを理解してもらっていたろ。自分に大きな疑いが掛かったように思えて、自尊心から来る“あかるを大切にしている”という大嘘吐き。あかるのいやらしい姿に、一瞬でも水瀬を重ねていた癖に。それなのに…………、ぼくは、本当に都合がいい。


「私はさ、いつも関口くんが独りに見えていたんだ」

「だからさ……っ」

「藤原さんって、一方的でしょ」

「……………今はそんな話じゃないでしょ!」


「私にはいつも………関口くんが気を使っているように見えるよっ!」


 水瀬の一方的な会話は、ぼくが何を思って図書室でこんな話をして、どうなりたかったのかも全部知られているからされるような話だった。


「私……この話、前にもしたよね?藤原さんが一方的に見えるって」


 小学生の頃は、ごちゃ混ぜに一緒だった男女というものが徐々に分かれ始め、中学生になると完全にふたつに分かれていた。最近は男女関係なく、人と人、個と個すら分かれていっているように思う。互いに身体も心も擦れ合せないと気持ち良くも、分かりあう事も出来なくなっていっている。本当に面倒なんだよ。大人が言う理解し合おう、分かり合おうだなんて考え方が、人の事を考えるのが面倒なんだ。面倒臭くて仕方がないんだよ。






 あかるが一方的で、ぼくが独り。それでも、互いに擦り合わせて気持ちが良いんだから、それでもいいじゃないか。


 感情的になっていたから、つい……、なんて思っても、そう思った事が本音だとは思いたくない。


 部活が終わる時間に近付くと、引き締まっていた気持ちがだらだらとした声で、ぐだぐだ走り始める。気持ちが引き締まったままの声と、だらしない靴音に履き替えていないのは、一部だ。その一部に上手い奴や伸びていく奴が多い。昇降口を出て、グラウンドに降りる大きな階段に座ってサッカー部を見ていた。


「終わっぞっ!!二年ーっ!!」


 一年生の時に見ていた三年生から二年生への“あたり”は厳しく、噂通りにそれは受け継がれているようだった。グラウンドから用具倉庫への間、名前どころか顔も知らない一年生が片付けをする為に往復をする。その中に混じり、走らないぼくが、走った後の汗をかく半井に声を掛けた。


「あっつ」


 半井が蛇口を全開にして、だばだばと落ちる水を口にしたり、頭から被ったりする。ぎゅ、ぎゅ、と、不器用に軋む音を立て閉まる蛇口と共に核心に近付く言葉たち。半井が最後のひと回しを閉めた時に「……で?結局、俺に何を聞きたいの?」と呆れた顔をされた。


「関口さ、お前に自覚が無いっていう事が悪いよ」

「ぼくは水瀬と話していただけだ」


「それだけで、あんな噂って立つか?」


 半井も知っていた噂話は、少なくともサッカー部の三年生や一年生も知っている“実話”になっていると教えてくれた。


「正直、俺はさ、関口ならあり得るって思っている」

「そんな言い方……」

「これを言われる覚悟が無いのに相談しに来たの?」


 水瀬と関口、お前ら距離が近過ぎるんだよ、と、首から掛けたタオルで顔を拭く。側から見ていて付き合っていそうな距離感。あかるといる時よりも近いと感じさせる距離感。


「水瀬ってさ、男女関係無く壁を作らないだろ?」

「うん。そんな感じだね」

「俺、小学校一緒だし、家が近いから良く知ってるけどさ……」


 特に関口とは壁が無い様に見える、という半井の言葉と、私は君となら“噂”でも“噂”が現実になってもいいって言っているのよ、という水瀬の言葉が重なった。水瀬の言葉は冗談や軽い気持ちでは無く、覚悟の言葉だった。


「関口……お前、水瀬に告られてない?」




 ………………、…………。


「そうなんだ。まあ、あまり目立つなよ」


 今、ぼくは半井に何て返事をした?息が苦しくなる、急に唇が乾く、半井のサッカーシューズに目を落として考えていると、心臓の音が不快に早くなっていく。もう一度、告白は断ったと言おうと前を向いた時、グラウンドの三年生から半井に怒号が飛んできた。


「はぁーいっっ!今、行きまーすっ!!」


 じゃあ、俺行くわ、と、半井が横を抜ける時に肩を叩かれ「あんまり、目立つなよ」と念を推すように言われ、半井を追って視線を向けた時には、もうみんなと笑顔で混ざり一年生に慕われているようだった。


 ぼくは、間違った。



 靴箱の前で約二十センチメートルの上履きを待っていると、廊下の奥から中学生なのかと疑う幼さがやってきて、きみの表情が、ぱあっと明るくなる。たくさん汗をかいたであろううなじと、少し濡れた長い髪がふわっと通り「ごめんなさいっ。遅くなっちゃいましたっ」と、急いで靴を出す手がおぼつかなくて落とし、わたわたと捕まえようとするスニーカーが逃げ回る。その姿に「そんなに急がなくても、ぼくは逃げないよ」と言っても、逃げ回るスニーカーを追う小動物のようなきみが獲物を捕まえた。


「えい!捕まえましたっ!もう逃げられませんっ」


 手本のような笑顔で笑う向日葵のような女の子と、ねちっこく求めるベッドの上の女。本当のきみはどっちなんだろう。


 学校から“さよならの神社”までを繋ぐ道。夏服に衣替えをしたきみを形取る線、その内側を知るぼくの気持ちなんか知らずに、明るく“理想の女の子”のまま、とろんとした声できみが話している。その言葉のひとつ、ひとつを発する度にぱくぱくと動く小さな口に、“あれ”をしている時のきみの表情と気持ち良さを思い出してしまう。


「まひるくん……?どうかしましたか?」

「え。いや……何も。あかるは楽しそうだなって」


 馬鹿な想像をしていたと反省しても、少し首を傾げて微笑むきみの細い首や鎖骨を伝って、身体に触れていきたいと考えてしまう。水瀬との噂、言い合い、半井に色んな事を言われたばかりなのに、簡単に性欲の方が追い越すなんて、本当にぼくはどうかしている。


「まひるくん。あの飛行機雲のかたち……」


 頭の上にある青に差された指の向こうを見ると、くっ、と、右肩に重みが掛かって、頬にやわらかくて温かい感触が触れた。それから右腕に寄り掛かるあかるの熱い額。


「ふふっ。たまにはわたしから意地悪ですっ」


 頬を押さえて赤くなるぼくと、満面の笑みの真っ赤なきみ。いつもなら、道の真ん中で恥ずかしいです、と、きみが頬を膨らませて照れ隠しをするような悪戯。きみの左手がぼくの右手を取り、腕を振って歩き「神社まで我慢ができませんでしたっ」と笑ったのだ。


「おかえりなさい、眞昼。遅かったわね」

「うん、ちょっと長く図書室にいた」


 “ただいま”を言わずに“さよならの神社”で、きみと甘えた匂いを隠すように部屋に向かった。いつもなら、すぐ鞄の中を整理するのに、机の上に置いただけで畳に寝っ転がる。天井からさらに上を見上げると、逆さまになった窓から温度の奪われた空気が迷い入ってきた。今年も風鈴を付けるのは、ぼくなんだろうな。


「眞昼?着替えないと制服にしわがつくわよ」

「うん、分かってる」


 いちいち言われなくても分かっている。だけど、身体が重たくて動かないんだ。もう面倒臭いし、このまま寝てしまおう。


 叱られるだけで済む事なんだから、今は気持ち良い方を………。


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第三十三話。終わり。

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