#5

ストックホルム症候群。


監禁状態にある被害者が、加害者と一緒に過ごす中で、本来憎むべき相手に好感を抱いてしまう心理。そういうものがある、というのは俺も知っていた。典型的なもので言うと、銀行強盗の立てこもり中に些細な親切を受けて、解放されてからも「きっと根はいい人なんだと思います」と供述するようなケース。俺が夫婦の滞在二日目に抱いた感情も、それに近いものだったはずだ。こういう知識があるだけで、正しく対処することができる。


相変わらず二人が何者なのか、確実なことはわからなかった。しかし警察から逃げている逃亡犯、というのは本人の口から聞いた。

「警察から追われるなんて、何したんだ」

「悪いことは何も。私たちはただ自分の身を守らないといけなかった」

本当か? と聞きたかったが、それ以上踏みこめなかった。俺の推測では、この二人は各地で強盗や殺人を繰り返している。このまま二人を匿って、春が来る頃にまた逃がせば、俺の安全は確保できそうだった。しかしそれは正しいことなのだろうか? 二人はまた罪を重ねるのではないか? そうなれば、俺も寝覚めが悪い。俺はチャンスをうかがうことにした。まず男の方をなんとかしてしまえば、女は大丈夫だろう。二人を拘束して、その状態で警察に通報して、引き渡す。それが俺のプランだった。

まず風呂のときをそれとなく狙ってみた。女が入っているときは男が見張りをしている。では、男の方が入っているときはどうだろう。行ってみると、女が同じように見張りをしていた。女を襲って、その後で男に行く作戦も考えたが、おそらく叫ぶなりなんなりで、危険をすぐに伝えるだろう。寝込みを襲うことも考えたが、実行には移せなかった。一見、無警戒に見える二人だったが、どうやら長い逃亡生活の中で、警戒することが自然になっているだけのようだった。不用意に寝込みを襲えば、反撃を食らいかねない。


チャンスは思わぬときに来た。ある晴れた日に、

「すこし周りを見てくる」

と言い残して、男の方が一人で外に行った。女は寝室にいて、イヤホンを使ってCDプレイヤーの音楽を聴いていた。

「布団、干そうか?」

「いや、いいよ」

「埃っぽくないか?」

「大丈夫。掃除は気になったら自分でやるから、気にしないで」

俺は親切を装いながら、夫婦の持ち物をさりげなく目で追った。二段ベッドの下で寝ていて、上に物を置いている。上段の様子ははっきりとは見えない。一番気になっていたのが拳銃の所在だったが、発見することはできなかった。リュックとトートバックが置いてあって、その中に何が入っているのかはわからない。女から拘束することもできたが、今までの警戒のことを考えると、拳銃が今女のもとにある可能性は高い、と判断した。

俺は倉庫のガムテープを取って階段を降りた。そしてリビングで男の帰りを待った。斧やライフルといった武器を取ってくることも考えたが、そのためには一度ロッジを出ないといけない。二人が別行動することは、よく観察してみると、ほんの一瞬しかない。二人は互いの死角に必ず注意を払っていた。なので二人がそろうと警戒が切れる瞬間がなかった。

数日一緒に過ごして、二人の役割分担もわかってきた。男の方はどうしようもないバカだった。女の方が夫婦のブレーンだった。別に女もそんなに頭がいいわけではなかった。それでも男は何かの判断が生じたとき、必ず女の方の意見を求めた。男の方が何か自分で考えて、決断を下すことはほとんどなかった。

人間的に二人のことが嫌い、ということはなかった。むしろ若者の中ではだいぶ好きな部類だった。二人とも集団行動に馴染めなかったタイプに見えた。ただその手のタイプにありがちな、ジメジメした屈折がなくて、爽やかな孤立だった。それでも二人を通報しようと決めたのは、本当に倫理の問題だけだった。俺は別に法律なんてどうでもいいと思っている人間だが、正義には従いたいと思っていた。感覚では二人の若者は好きだったが、理屈で考えたときに、俺の取るべき行動はこれだった。二人の罪状を正確に知らないが、それを明らかにするのは警察なり裁判所なりがやればいい。

男が戻ってきた。久しぶりの大立ち回りに、鼓動がたかぶった。俺は覚悟を決める。男はリビングに入ってきた。俺は椅子から立ち上がって、隣の椅子を持ち上げた。力いっぱい椅子を振りおろそうとしたが、男が視界から消えていた。攻撃目標を失った俺が焦る間もなく、顎に大きな衝撃を食らった。男は俺の懐に一瞬で入りこんで、右アッパーを一発入れてきた。椅子を叩きつけてやろうとしたが、手に力が入らず、椅子が後ろにずり落ちた。目玉が上下に回ってるかのようなめちゃくちゃな視界になって、それからすぐにホワイトアウトした。意識が飛んで、一瞬気持ち悪さが来て、それが気持ちよさに変わった。


目を覚ますと、リビングのソファだった。

「良かった、生きてた」

女の方が言った。リビングで夫婦は一緒にテレビを見ていた。頭が割れるように痛かった。

「痛え……」

「すごい倒れ方したからな」

「二階からでもわかったよ。殴り合ったんだって?」

殴り合った、というか、一方的に殴られただけだった。

「あはは。相手が悪かったね」

女はけたけたと笑った。男は真顔のままだった。


気絶して後ろに倒れたときに後頭部を打ったらしくて、デカいたんこぶができて、ズキズキと痛んだ。肩や腰もあちこち痛い。骨まではいってなさそうなのが不幸中の幸いだった。ひどい痛みを感じながら、俺は夕食の準備をして、夫婦はシャワーを浴びに行った。

体格だったら俺の方が圧倒的に大きい。その相手の懐に飛びこむ勇気。そして単なる蛮勇ではなくて、その一撃を成功させるスピードと威力。俺も別に格闘の心得がちゃんとある訳ではないが、フィジカルの差で、まともに殴り合ったら負けるはずがないと思っていた。まずそれが大きな誤算だった。

何事もなかったかのように三人で食卓を囲んだ。俺はずっと思っていたことを聞いた。

「ボクシングか?」

「なにが?」

「お前の動き」

「まあ、昔やってたけど」

「格闘技経験はそれだけか?」

「空手もすこしやった」

「リュウはすごいんだよ。空手部でもボクシング部でも誰も敵わなくて、一年生で先輩全員ボコボコにしちゃったんだ」

女が普段より一オクターブ高い声で武勇伝を語った。

「じゃあ、大会もいいとこまで行ったりしたのか?」

「んーん、先輩から嫉妬されて、途中で部活辞めちゃったから、大会はちゃんと出てない。でも出てたらたぶんすごいとこまで行ったと思うよ。リュウって中学でちょっとだけ野球部に入ってたんだけど、そのときもすごいセンスあって、ちゃんと続けてたら甲子園行ってたと思う」

たらればで語られる天才エピソードは、たいてい眉唾ものだった。「マジメに野球をやっていたらプロになってた」「マジメに勉強していたら東大にも入れた」。年を取れば取るほど何の意味もない評価だということに気づく。もし本当に続けていたら、その途中で壁にぶちあたったはずで、そんなに簡単にはすばらしい結果は出ない。しかし若者というは、なぜかその手の輝かしい才能の神話を好むものだった。

「そうなのか。もったいないな」

思いとは裏腹に、社交辞令で言った。

「ボクシングやったことないが、あんな速く動けるもんなのか?」

「速くないだろ」

「一瞬で懐に入りこまれたぞ」

「ああ、それは、椅子で死角になったとこ入ったからだよ」

「そんなこと、わかるのか?」

「わかるよ」

「わかるか? 向かい合ってるときに、相手の視界なんて、わからなくないか?」

「いや、わかるよ。なんとなくは」

それ以上の説明はなかった。

「ま、これに懲りたらリュウに手出すのはやめた方がいいよ」

女の方がそう言って、またケタケタと笑った。この夫婦の新たな一面を見たような気がした。今話しているときの女は、まるで虎の威を借る狐のようだった。よく言えば、男の方が武力として、女の方が知恵として、夫婦の間で役割分担がされていた。


そのちょっとした暴力事件は、なぜか俺と夫婦の間の絆をより深めることになった。子供の頃にあった、「一度ケンカした方が仲良くなる」という感覚に近かった。俺が向こうの立場だったら、襲ってきた理由を聞いたと思うが、それすらなかった。「やろうと思えばいつでもやれる」という気持ちが向こうにあったとしか思えない。俺も通報しようという気持ちはなくなっていた。返り討ちにあってビビった、というわけではない。あまりにもきれいに負けたので、それ以上どうこうしようという気持ちがなくなったのだった。お互いに本気で相手を殺そうとするなら銃があったが、それは使わないという暗黙の了解ができた気がした。


滞在一週間を超えて、さすがに夫婦も退屈してきたらしい。

「ここスキー場なんだろ? あのリフト動かさないのか?」

近所の散歩では満足できなくなった男の方が、そう聞いてきた。

「動かしてもいいが、スキーできるのか?」

「できない」

レンタル用のスキーウェア、板、ボードはまだ残していた。といっても長年使われていなかったので、メンテナンスのために一日もらって、翌日にゲレンデに出ることにした。

「二人ともスキーでいいのか?」

「俺、スノボやってみたいな」

スノーボードはスキーに比べて、カッコいいイメージがあるが、ケガが多い。「危なくないか」と言いかけて、そんな心配をしてやる義理はないことを思い出してやめた。犯罪者の安全なんて考えなくていい。レンタル用具でフル装備した夫婦と一緒に、ゲレンデに向かった。俺もスキーウェアだけ着た。

「スノーモービルで行こう。二人乗りだから、二往復にはなるが」

「リフトは?」

「なんだ、乗りたいのか?」

「うん」

「ちゃんとメンテナンスしてないんだ」

「でも、動くんだろ?」

「……まあ」

結局リフトを動かして、俺だけスノーモービルで坂をのぼった。夫婦は一人ずつリフトに乗った。そのまま椅子が外れて墜落しないかと思って見てたが、安全に運行した。ゲレンデの中腹で落ち合った。

「こっからが中級者コース。この上が初心者コースだから、もう一つリフトでのぼってもらう」

「これって逆の方が良くない?」

女がスキー場の設計に文句を言った。

「そうだな。でもしょうがなかったんだ」

斜面の角度の関係で、どうしても逆にできなかった。何もかもがスキー場に向いていない土地だった。もう一つのリフトも電源を入れる。リフト一基あたり電気代が一日一万円はかかる。「たった二人の客のために大赤字だな」と思った。頂上に行ったところで、簡単にスキー・スノボ教室を開講した。

「まずスキーの基本は……」

女の方に八の字でゆっくりすべる方法をまず教えた。そして曲がる方法、止まる方法。

「直滑降になると、大ケガするから、それだけ避けてくれ」

女は飲みこみが良くて、とりあえずほぼ真横にゆっくりすべってもらった。

「さて、スノボだが、俺はスキー派だから、正直あまりちゃんと教えられないと思う。基礎の基礎だけだな」

スキーとスノーボードは同じ雪を上をすべるスポーツだが、体の使い方が全然違う。まず両足が板の上で固定されている。そして進行方向に対して横を向くことになるので、スキーに比べて体が使いづらい。

「まず転び方を覚えてくれ」

「転び方?」

「ああ。要は受け身だな。スノボのケガのほとんどが、転んで骨にヒビ入るとか、そんなのが多いんだ。転び方さえ覚えれば、ある程度安全だと思う」

俺は前に転ぶときに両肘で受け身をとるとか、後ろに転ぶときは後頭部守って尻から行くとか、転んだ後でボード持ち上げろとか、そんな基本を教えた。そしてブレーキと方向転換。男は教えたことを素直に実践して、飲みこみが早かった。女の方も飲みこみが早いと思ったが、その比ではなかった。

「下まで行ってみていいか?」

「ああ。ゆっくりな」

しばらく教えられた内容を反復練習した後で、男は初心者コースをすべりおりていった。スピードは抑えめだったが、バランス感覚が良くて、体幹の強さを感じるすべりだった。スノーボードはスピードが出ていないときの方がバランスが取りづらいが、男は膝を曲げて、背筋をきれい伸ばして、いい姿勢を保っていた。

それから男は初心者コースをすべって、リフトに乗って、またすべってを繰り返した。ほんの一時間もたっていない間に、未経験者から初心者ぐらいになっていた。時々俺に話しかけてきて、これはどうしたらいい、あれはどうしたらいいと質問してきた。男の小さくなっていく背中を見ながら、

「驚いたなあ」

と呟いた。かつてスキー場のレッスンも担当したことがあったが、ここまで筋のいい人間ははじめて見た。

「リュウは天才だからね」

女の方がそう言った。あながち嘘でもなかった。女の方も筋がいい方だった。もっと普通は雪の上で動きがままならないものだった。

「本当に未経験なんだよな、あいつ」

「何やらせてもすぐできちゃうからね」

徐々にスピードも出せるようになって、女の方との成長速度に明らかな差が出てきた。そんなことはないのに、まるで女の運動神経が悪いようにすら見えた。眉唾物だと思って聞いていた学生時代の武勇伝も、もしかしたら本当なのかもしれない、とそのすべりを見ていたら思うようになった。

ひとえに運動神経がいい、と言っても、色々なタイプがいる。男は感覚がとにかく優れていた。獣のそれに近いのかもしれない。自分の体のどこを動かせばどういう結果になるというのがよくわかっていて、再現性が異常に高かった。それを頭でやっているというよりは、感覚でやっているように見えた。

「カッコいいよね」

女が言った。ゴーグルをしていて表情は見えなかった。高校で女人気があった彼を、この女が射止めた。そんなストーリーを想像した。


結局その日、女の方は初心者コースを3回ほど、男はもう数え切れないぐらいすべった。中級者コースに挑んでみてもいいかもしれなかった。

「どうする?」

「やってみる」

「よし。そうだ、スノーモービルで後から追いかけるから、もしダメだったら乗ればいい」

女はリフトで下って、男だけすべった。中級者コースは傾斜もあって、起伏に富んでいる。男は何度も派手に転んでいた。そして最後に大きく宙に浮いて、全身を地面に強打してそのまま斜面をすべり落ちたところで、ギブアップした。

「くっそー!」

男は雪だらけになって悔しがっていたが、それでも楽しそうだった。

「すまん、さすがに中級者コースはやり過ぎだった。でも、お前の成長スピードを見てたら、もしかしたらいけるかもしれないと思ってしまってな」

「スピードが全然違った。そんで、あんなに浮いたり沈んだりするんだな」

「中級者コースはな」

「しばらく初心者コースで修行だな」

その言いっぷりだけ見ていると、少年マンガの主人公のようだった。


時間が経てば経つほど、二人が何を考えているのかわからなくなっていった。こんなことははじめてだった。もしかしたらこの二人は自分の理解の範疇を超えた、全く別の種族の生き物なのかもしれない、ということを少しずつ思うようになった。

「なあ、お前がここに来たとき、どうして俺のことを殺さなかったんだ?」

ある夕食のとき、俺は唐突に初日のことを聞いた。すると夫婦はきょとんとした顔をして、言葉に詰まった。

「堂々としてたから、かな。ほら、情けないオヤジって、見てられないでしょ?」

女の方が言った。本当によくわからない理屈で、二人は動いていた。


(続)

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