神様の悪戯

真田 侑子

本編

 僕は売れない画家だ。

 依頼があるときはいいけれど、個展を開けるほどの画家ではないし、お金に困ったらアルバイトをするくらい、売れていない。もっと絵が評価されてほしいと願いながら、今日も絵を描いている。

 そんな僕を支えてくれているのは妻の存在だ。妻が家計を支えてくれていると言っても過言ではないほど、妻は稼いでくれている。そんな妻に僕は頭が上がらない。むしろどうしてこんな不甲斐ない僕と結婚してくれたのか。それを問うと、妻はいつも決まって答える。

「あなたのことを愛しているからだよ」

 そんな妻のことを僕も愛している。恥ずかしくてなかなか言葉にはできないけれど、妻のことを愛しているのだ。

 しかし、愛しているからこそ心苦しいこともある。もっと僕の絵が評価されて画家として売れてくれたら、楽をさせてあげられるのに。そう思うのである。それに、自分を情けなくも思う。僕は男のくせに女一人養うことも出来ないのかと思うと、本当に胸が締め付けられるように痛む。

 申し訳ない。そんな気持ちで毎日を生きている。


     〇


 ある日、妻は血を吐いて倒れた。

僕は過労の性かと思ったし、妻もそう思ったと言う。しかし現実は違ったのである。病院で調べてみると、妻は重度の胃がんで吐血したのであった。

もう全身の何か所にも転移していて、助かる見込みはないだろうとお医者に言われた。

そのまま妻は入院した。僕は荷物を届けたあと、海岸沿いを歩くことにした。この絶望感をどう片付けていいのかわからなかったので、思考を整理するためにとにかく歩いた。

「胃がんって……全身に転移って……」

 現実を受け止めるには時間がかかりそうだったが、そんな時間も妻には残されていないのだと思うと、辛くて辛くて仕方がなかった。

 助かる見込みがない。それって、死ぬってことだよな。

 この先どうしたらいいんだ?

妻なしで、いったい僕は――

 そうして堤防の上に上がってぼうっと歩いていると、ざばあ、と波が打ちあがってやってくる。危ないな、と思い下りようとすると、もう一度波がざばあとやってくる。その波は思ったよりも高く、僕は足を取られてしまった。

 見事海の中に落ちてしまった僕は、全身の力を抜いていはずなのになぜか浮き上がることができなくて、そのまま海の底に沈むことになるのであった。

 沈みゆく間、僕は妻との生活のことを考えていた。いつどのシーンを思い出しても、苦労ばかりかけてきたなあと反省するばかりであった。

 すると、沈み切った僕は海の底に辿り着いた。うみのそこはたいへん静かであった。なんの音も聴こえない。だからと言って水圧で耳がくぐもる様子もない。ただただ無音。そんな空間であった。

 真っ暗な水底に、突然、光の粒が生まれる。その粒はどんどん大きくなり、ビー玉大になったかと思うと、突如バレーボール大になって、瞬く間に僕を飲み込むほどの光の玉になった。

 この光の中では不思議と息も苦しくない。さっきまでは死ぬかと思うほど苦しくて仕方がなかったのに。

 そして、光の中にぼんやりと人影が浮かぶ。それは徐々にはっきりと輪郭を持ち始めて、いつしか綺麗な女性の姿が浮かび上がっていた。浮かぶとは言っても、これはしっかりと質量を持った現実なのだということがわかる。

 女性は一息置いて「私は神だ」と言った。

「はあ……神様、ですか」

「そうだ。だからなんでも出来る。神は全知全能なのだ」

「そうですか……では、私の妻の病気も治せるのでしょうね」

「当たり前だ」

 そんな会話をした後、神様はなにかをひらめいたような顔をした。

「そうだ、お前の大切なものと引き換えに、願いを一つ叶えてやろう」

「願い、ですか」

「妻の病気を治したいのだろう。それでもいいぞ」

「でも、大切なものといっても……」

 その時、僕の頭に一番に思い浮かんだのは絵を描くことだった。僕にとって大事なことと言えば、なによりも絵を描くことなのだ。

どんな形であれ、それを手放すなんてことはしたくない。しかし、妻の病気が治るというのであれば、それはやらなくてはならない。絵よりもなによりも大切なのは妻の存在なのだから。

「絵を描くことか。ふむ。それでは右腕の神経をすべていただこうか」

「……わかりました」

「その代わり、妻の病気はしっかりと治してやろう」

 そうして僕は、気が付けば海岸沿いに倒れていた。びしょぬれになるでもなく、海に落ちる前の状態で。

 不思議な体験をしたな、と思いながら、僕は家に帰宅した。


     〇


 翌朝。携帯電話が鳴って、僕は目を覚ました。

 電話は病院からで、なんと妻の容態がよくなったとのことだった。神様が言っていたことは本当なのだと確信した。しかしそれと同時に、利き腕である右腕には力が入らなくなっていた。

ああ、これで画家人生も終わりか、と絶望したが、妻の命には代えられなかった。

妻は元気に病院から帰ってきた。

「不思議だねえ。あんなに大変な状態だったのに、一夜にして治っちゃった!」

「不思議だよね。昨日、僕は神様にお願いをしたんだ」

「えー? どういうこと?」

「僕の大切なものと引き換えに、君の命を救ってもらったんだ」

「あなたの大切なものって……」

 そこで、妻は僕の右腕が動いていないことに気が付いたらしい。

「あなた、もしかして自分の腕を犠牲にしたの?」

 妻は怒っているようだった。当然だ。今まで画家としての僕を支えてきたのは、紛れもない、妻なのだから。今までが無駄になってしまったも同然なのだ。怒られても仕方がない。

 僕がそのように言って謝ると、妻は言った。

「私が生きるよりも、あなたの成功の方が大切なのに」

「そんなことはないよ。君の命の方が大切だ」

「いいえ、違う。あなたの成功の方が大切。でも、もう右腕が動かないのなら仕方がないから、次は左手で描いてみたらいいのよ」

「左手で? 無茶を言うなあ」

 でも、その価値はあるかもしれない。また違った作品が出来上がって評価される可能性だって充分にある。口で筆を咥えて絵を描く人だっているくらいなんだから、左手が残っているだけ、僕は幸せ者かもしれない。

「わかった。やってみるよ」

 僕はその日から、左手で絵を描くようになった。

 そうすると、三か月、半年と続けているうちに、周囲の僕に対する評価が変わってきたのがわかった。依頼も増えて、僕は売れっ子の画家になること出来たのだ。

 神の左手を持つ画家、なんて呼ばれたりもした。SNSに事のあらましを投稿したのだ。取材を受けたりもして、僕は意気揚々と神様の話をした。

 しかし、幸せはそう長くは続かなかった。

 僕はある日突然、血を吐いた。かつての妻のように。病院に行って検査をしてもらうと、妻と同じく重度の胃がんを患っていることがわかった。それも、全身に転移もしている状態だとお医者に言われた。

 余命はあと半年程度だろうとお医者は言った。

 なぜ。どうして。せっかく成功し始めたのに、どうしてこんなことに。

 僕は、その日の晩、夢を見た。

 あの日海の底で見た光の玉の中に、僕が立っている。僕と対面する形で神様が立っていて、神様があの日と同じように言うのだ。

「お前の大切なものと引き換えに、願いを一つ叶えてやろう」

 僕の大切なもの。一番最初に僕の頭に浮かんだのは、妻だった。

 まずい、と思った。僕はあの日のことを思い出して、すぐに神様に撤回の言葉をかけようとしたが、先に口を開いたのは神様の方だった。

「ほう。妻か。よかろう」

 よくない、よくないんだよ、それじゃあ。

どうしてか、僕は口を開くことが出来なかった。夢の中だからか。神様の力かなにかが作用しているのだと思った。

「それでは、また。いい現実を」

 神様はそう言って消えてしまった。

僕はその瞬間夢から覚めて、がばっと起き上がる。横を見ると、隣で眠っていたはずの妻の姿が見当たらない。僕はもつれる足で家じゅうを探し回ったが、妻の津堅はどこにも無かった。

それどころか、妻の使っていた箸やコップ、タオル、その他私物すべてが無くなっていて、まるで妻は初めからこの世に存在しなかったかのような家になっていた。そんな。眠るまでは、確かにいたし、確かにあったのに……

僕は夜中だということも忘れて、大きな声で泣いた。


     〇


 僕は血を吐かなくなった。だから、病院には行っていない。どうせ、治ったのだろうから。神様が言っていたのだから、間違いないだろう。

 そして、僕は今日も左手で絵を描く。かつて存在した妻の顔を描くのだ。

 毎日毎日、僕は妻の顔を描いた。

「この女性は誰ですか?」

 そのように訊ねられることが増えたが、僕は決まって「妻です」と答えた。しかし、世の中では僕は結婚していないことになっているのだから、当然みんなに変な顔をされて終わった。

 それでも、妻の顔を描いた絵は高く評価された。

 僕は謎の美女を左手で描く画家として、生き続けた。

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