第20話 食卓
ダイニングに戻ると、トモヤはソファでうたた寝を打っていた。目元に被さる黒髪の奥では、凛とした切れ目がつむられている。彼はどのような能力を駆使して、都市を修復したり時を操っているかは分からない。しかし、それには途方もないエネルギーが必要であることは言われなくても理解できるだろう。だが、彼がやろうとしていることは、また複素八咫烏とは、どのような理念のもとにあるのかは分からない。
彼の寝顔を眺めていたら、彼は俺が部屋に戻っていることに気がついた。
「………あ、戻ってきたね」
俺は頷く。
「良かった、それは僕の服なんだ。僕と君の体格は似ているけど、本当にピッタリだったね」
「はい」
トモヤは
「ごめん、料理を温めなきゃだね。ちょっと待ってて」
そう言うとトモヤはキッチンに向かう。俺はソファの端に腰かける。
窓の外からは雨音が静かに聞こえてくる。時計を見るともう22時を回っていた。
今日は色々なことがあった。大学から帰宅する途中で電車がジャックされ、気がついたら空に投げ出されていて、この世のものではない怪物に殺されそうになり、しかし謎の規格外の男に助けられ、今に至っている。
夢を見ているようだ。もちろん自分のこれまでと同じ日常も、並行して続いている。だが、自分の身の回りに現れたこの世の裏側に、俺は戸惑いを隠せていない。
俺はため息をついて、頬杖をつく。
だが、俺の耳元で優しい少女の声がする。
「何、浮かない顔してるの。そんなに自分の家に帰りたい?」
顔を上げると、そこにはイザナミが何気ない表情で立っていた。水色のセーターに、白のロングスカート姿の彼女、瞳は明るく俺を見つめている。言葉を失っている俺を見て、少しだけ微笑んだ。彼女は俺の横に腰かける。
「そっか、君も私と同じで、いつもと変わらない日常が好きなんだね」
彼女は肩まで垂れる髪を耳にかける。
「私が死ななくてよかったね、寂しがり屋くん」
俺は彼女から顔を背けた。彼女と出会ってから1週間も経っていない。それなのに彼女を失いたくないと願う自分がいた。自分は本当に、どうかしているんだろうと思う。
「本当に大丈夫なのか」
彼女はクスクス笑う。ゆっくりと体を近づけてくる。
「ふふ、実際に触ってみる?」
俺はまた顔を彼女から背けてしまった。それを見て彼女は腹を抱えて笑う。いたずらで明るいその笑い声は、彼女への心配を晴れさせてくれた。
「おもしろ! 男はこれだから飽きないのよ」
「は? お前はこっちの気持ちも考えないで、ふざけないでくれよ!」
俺はそう言い捨てると、イザナミの笑顔はどんどん悪賢いものになっていく。
「え? こっちの気持ちって、一体どういう気持ちのこと? 教えてよ」
俺はぐっ、と唸って言葉が出なくなった。
「君と私、まだ会ってそんなに経ってないんだけど? 私、そんなに君に心配されるいわれってあるのかな?」
俺は恥ずかしさを通り越して、怒りが込み上げてきた。冷静に考えて、そんなに時を共にしていない少女に変な感情を起こすこと自体、あるわけがない、そう自分に言い聞かせる。
「そっか。それならあの日の夜、私をぐっと抱き寄せてきたのも何かの間違いだったのかな」
「そ……それ以上、言ったら」
その様子を見ていたのか、トモヤの笑い声がした。
「君たち、もうそんなに仲良くなったのか! いやー、僕はなんとなく思ってたんだよ、君たちの相性バッチリだってね!」
トモヤがキッチンから出てくると、イザナミは急に俺から離れて座り直す。
「いや~、別に。こいつが私のこと一方的に好きになってきて」
「違う! それは違う!」
トモヤは爆笑する。彼はキッチンから、色とりどりのサラダと濃厚な香りのビーフシチューを運んでくる。そして、瓶のジンジャーエールを開けてくれた。
「さあ、お待ちかねのディナーだよ」
「先生、最高! 優はろくなご飯を食べさせてくれないんだから」
俺は頭にカチンとくるのを我慢して席に着く。イザナミはもうスプーンを持ってビーフシチューの皿に手を伸ばしていた。
「いただきまー」
「ちょっと待つんだ、まだアテルイが来てないよ」
イザナミは頬を膨らませて、ごねている。しかし程なくしてアテルイが居間に入ってきた。紺の
「ああ、悪い。待たせたな」
「アテルイ、遅い!」
イザナミがアテルイを呼ぶ。アテルイはそんなことお構い無しに、マイペースな態度のまま冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「イザナミもいるか?」
「欲しい! けど、早く席について」
アテルイは俺の方を見た。
「優も飲むか、もう
俺は苦笑いをした。酒は得意ではないのだ。
「いや、遠慮しておきます」
「そうか」
アテルイは冷蔵庫から二つ缶ビールを取り出して持ってくる。席に着くと、トモヤは皆に呼び掛けた。
「さっ! 皆、今日は本当にありがとう。僕はこんなことしか皆にして上げられないけど、今夜は疲れを癒してくれ」
一同はそれぞれいただきます、と手を合わせて、料理を嗜む。
「やっぱり、先生の料理が一番美味しい!」
イザナミはシチューを食べると満面の笑みを浮かべる。俺も一口頬張ると、豊かな味の層が時間経過と共に口に流れる。濃厚なクリームの味、牛肉から出た深いコクの成分、野菜のさりげない酸味が、舌の上で波打って伝わってくる。
アテルイも皿にがっついて唸っている。
「うん、トモヤの料理は宮廷の料理番に引けをとらない」
「そうかい? 腕を振るった甲斐があるよ」
サラダも、新鮮な野菜がふんだんに使われており、瑞々しさと季節外れの旬の香りが溢れている。
「先生、これにはさすがに自分の能力使ってるでしょ」
「ばれた? ちょっといじっただけだよ」
食卓には朗らかな雰囲気が流れている。俺は、忘れかけていた心の暖かさを感じた。
「じゃあ、アテルイ、乾杯!」
イザナミはそう言ってアテルイと缶を鳴らす。炭酸の弾ける音が聞こえた。
「あーー! 最高!」
イザナミは気持ちよく喉を鳴らした。アテルイも静かに嬉しさを噛み締めていた。するとイザナミが俺の方を見てくる。
「君も飲めばいいのに。普通のカクテルなら飲めるの?」
「……飲めなくはないけど、そんなに強くはないです」
それを見てトモヤがイザナミに注意する。
「イザナミ、無理に勧めるものではないよ」
イザナミはつまらなさそうな顔をトモヤに向ける。
「えー、少しくらいいいでしょ?」
「俺に聞かれても困る」
俺は困った。断固として飲まない姿勢を貫いても気分が悪い。しかし苦手なものは苦手なのだ。そんな顔を見てトモヤは俺に提案をする。
「もし君が良ければ、何か良いお酒を作ってあげるよ」
イザナミも喜んだ表情をする。俺もそれならと思って頷く。トモヤは立ち上がってキッチンの方まで行くと、冷蔵庫から牛乳を取り出し、棚に並べてあったボトルの1本を手に取る。そして喜んだイザナミから酒の良さを説かれているうちに、トモヤが戻ってきた。
「お待たせ、カルアミルクだよ」
「……ありがとうございます」
グラスに口をつけて少し流し込む。甘く爽やかなミルクの味の後に、甘ったるいシロップの味と蜜のような香りがした。
「うん、おいしい……かな」
「ふふ、君もまだまだ未熟だね」
イザナミが卑屈な顔をしていた。俺もそんな彼女を見て笑ってしまう。
「何、笑ってるのよ」
「いや、別に」
食卓は皆の暖かい声で溢れ、少し冷えた俺の心を癒してくれた。
◆◆◆
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