それでも世界は消費を続ける

雨斗廻

それでも世界は消費を続ける

ザシュ、と鋭い音と共に青が弾けた。

呆然と霞む視界に映るのは、真っ二つに裂けたイカの怪物と、一対の槍を掲げる少年のような女の子。

ずるりと崩れ落ちた怪物の肉片が、ばしゃんと血飛沫を天に跳ね上がらせる。


「…………、ぃ」


声とも呼べない短い悲鳴を残して、手足の筋肉が仕事を放棄した。べしゃ、と座り込んだアスファルトの路面から、スカートが、靴下が、下着が、青色を吸い上げていく。

ザアァ……と雨音がやけに鼓膜にこびり付く。


「あーあ、またやっちった。やっぱ斬性の武器は駄目だな。どうやったって返り血シャワーの餌食になる。服だって貴重な資源なのに、こうも使い捨てを繰り返していたらいつか裸で戦わないといけなくなるね」


──やっぱ時代は打撃性だよ。返り血が全部、内出血に置き換わるんだから。


よく分からないことを呟きながら、少女が血で湿った濡れ羽色の髪を連獅子的に振り乱した。

雨と酸化鉄の匂いに混じって、柑橘系の香りがぶわりと空気に透過する。


「そうそう。折角の再会で悪いんだけど、気の利いた台詞とか何も考えてないんだよね。まさか、こんなに早く会えるとは思ってなくてさ。少なくとも老死5回分くらいは我慢しないと、って思ってたのに」


振り向きざまにそう嗤った双槍の悪魔が、ぱしゃ、と青い血溜まりにミルククラウンを浮かべて、一歩こちらへ踏み出した。

ぱしゃ、ぱしゃ、と歩数を重ねる度に、彼女が息を吸う音が、喉仏が上下する音が、肺が膨らむ音が、自分の体内で起きてる事のようにはっきりと聞こえてくる。ア、どうしよう、どうしよう、と思考を巡らせている間にも、血生臭い靴音は青いミルククラウンと共に近づいてくる。


「ねぇ?──」


ぱしゃん、と一際大きな王冠を描いて歩みを止めた悪魔は、幼い子供と目線を合わせるように、緩慢な動作で屈み始めた。


「──田井、仁依子ちゃん」

「ぁ」


カランカランと槍が跳ね返る音がして、白魚のような左手がこちらへ伸びる。指先が頬を掠る度、ピリピリと表皮がざわめき立つ。肩が数ミリ単位で上下する。

それでも目線を上げないこちらを満足そうに眺めた後、悪魔は短く息を吐き出して、糸が切れたマリオネットのようにだらんと腕を下ろした。


「ほんとキミ──戦場なんて、来るもんじゃないよ」

「…………え」


弾かれるように仰ぎ見たヘモシアニン塗れの悪魔は、傷付いたような笑みを貼り付けていた。


「………………、あ」


無意識のうちに声が漏れ出た。

戦場。…………そうだ、ここは戦場だった。前線で、人なんているわけがなくて、家も学校も全部“怪物”が壊してしまったのに。


「──なんで、」


よりにもよって。


「なんで、こんな所にいるの……、──カララギちゃん」


「………………それはこっちの台詞だよ。ニィコ」


その一言を聞く前に、意識は五感を手放した。

ザラついた声としとしと降る雨音だけが、性懲りもなく生きている現実を突きつける。











「…………は、」


目を覚ますと、階段を上っていた。

うじゃうじゃと配線がごった返す懐かしい天井に、絵の具が飛び散った殺人現場みたいな階段。カタンカタン、とローファーの踵を揺らしながら、上階を目指して階段を上る。

着ている制服は絵の具汚れの無い新品で、手元を見れば少し袖が余っていた。

細い光に照らされてふわふわと舞う埃に、すんと鼻を鳴らしたところで、ハッとここが夢の世界にあることを自覚した。


所謂、明晰夢というやつだろう。


正体が分かった途端、スーッと思考がクリアになった。だが、眠る直前の記憶だけが、どうにもノイズがかかったように思い出せない。

いつも通り、シェルターの敷布団にくるまったのだろうか。いや、シェルターは先日怪物に潰されたはずだ。なら、どこで?

記憶を呼び起こそうとすればするほど、脳髄の奥でザアァ、と砂嵐の音が反響する。


「…………まあ、いっか」


……どうせ、起きたら嫌でも分かるだろう。

カタン、と再びローファーを鳴らして、今はもう無い校舎の階段を一つ噛み締めるように登る。

カタン、カタン、と一歩進む度に靴音が心地好いリズムを奏でる。それだけ、辺りが静かなのだ。もしかしたら、自分以外の人間は存在しないのかもしれない。


「どこに行こっかなあ」


教室、体育館、運動場、中庭。それとも終ぞお目にかかれなかった、第三美術実習室の鍵のかかった謎の部屋?

るんるん、と効果音が付きそうな軽い足取りで、急角度の古い階段をサクサク上っていく。いつの間にか、もう三階を通り過ぎていた。

次が最上階、懐かしの美術科専用実習室があるフロアだ。他科の学生は通行さえすることが出来ない、私達のエデンの園。

一段上るごとに、廊下の先の景色が顕になる。心臓の鼓動が早鐘を打ち、頬が恋焦がれるように紅潮する。


紙はあるだろうけれど、絵の具はあるのかしら。筆は?キャンバスは?ロッカーの中身は残っているのかしら。


──ああ、早く描きたい。


逸る衝動を押さえ込んで最後の一歩を踏み出す。カタン、と響く靴音を蝸牛の奥で信号に書き換える。

伏せていた睫毛を目一杯持ち上げれば、木漏れ日が照らす廊下の先──大勢の石膏像に囲まれた第一実習室が映って、そして。


「──────は、」


息を、飲んだ。いや、飲まれた。“絵”に“自分”を飲み込まれたのだ。

見開いた瞳に映ったのは、石膏像でも実習室でもなく、一枚のキャンバスだった。描かれているのは、長い金髪を垂らして屈託ない笑みを浮かべる年頃の少女。


それを認識した途端、カタン、と意識の外側で靴音がした。


「え」


動いていたのは、自分の足だった。カタンと靴が鳴る。ひとりでに、足が動き出す。カタン、音が鳴る。それでも、視線はキャンバスから逸らせない。カタン、鳴る。脳だけが場違いに、食虫植物と虫の映像を再生する。カタン。カタン。カタン。カタン。カタン。


ザアァ……


カタン。


「、ぁ」


気づけば、第三実習室の前に居た。数十メートルもの距離を一瞬で移動したにも拘わらず、何の疑問も抱かずにただ当然の事として、土足で室内に踏み入った。

筆が走る音がする。シャッ、シャ、と小気味の良い、聞き慣れた懐かしい音。絵の具が舞う音がする。べちゃ、と白紙の上で極彩色が爆ぜる音。それに自分の靴音を混ぜ合わせながら、埃が踊る木製の部屋をカタカタと進んでいく。


「ぇ」


そこで初めて、キャンバスから視線が逸れた。


誰かが、キャンバスの前で踊っていた。筆とパレットを掲げて、戯れるように絵を描いていた。

赤色を乗せた筆がキャンバスを走り、濡れ羽色の艶やかな髪がくるくると回る。長い髪が束になって舞い上がり、隙間から笑顔を貼り付けた陶器のような肌がちらりと覗く。


今度はそれに釘付けになった。足はもう動かない。

ただ呆然として、心底愉しそうに絵を描く、神様みたいな少女に見惚れていた。


……どれだけ、そうしていただろうか。


「──キミは、いつまでそうしているの?」


ふっと揺れていた髪が重力に従って止まり、少女がこちらを振り返った。


「え、」


かち合った青い瞳が柔和に蕩ける。含んだ笑みを浮かべて少女がスカートを翻す。その光景に、見覚えがあった。


『──キミは、いつまでそうしているの?』


音声がもう一度脳内で再生され、少女の残像がこちらを振り返る。奥に描かれたキャンバスには、金髪の少女ではなくカタツムリが映っていた。


「やあさっきぶりだね、田井仁依子ちゃん」

『やあ、初めまして。田井、仁依子ちゃん』


現実の音声と、映像の中の音声が数秒毎に交錯する。今度は、台詞が変わった。


「『この絵が気になる?やっと、完成するんだ』」


二つの音声が、完璧に交わって一つになる。


「この絵は、燃やすことで完全になるのさ」

『この絵は、刺すことで完全になる』


現実世界で、金髪の少女に半透明の液体が振りかけられる。映像の中で、真っ黒なカタツムリにペインティングナイフが突き立てられる。


「これは、明晰夢なんかじゃない。もう、分かっているんだろう?」


いつの間にか筆が消え、現実世界の少女──カララギは真っ黒な二本の槍を携えていた。


そう。そうだ。違和感にはとっくに気がついていた。なぜ、絵の具まみれの筈の制服が新品のようだったのか。なぜ、足が勝手に動き出したのか。

答えは明白。これが夢ではなく、記憶──カララギと出会った、二年前のゴールデンウィーク(まだ世界が平和だった頃)の追体験だからだ。


「そう。映像の中の私が本来の記憶。今キミの目の前にいる私は、情報処理の為にキミの脳が作り出したまがい物なんだよ。だから、こんなことだって出来る」


カララギが、ばしゃん、と絵にかけたのと同じ、半透明の液体が入った瓶をこちらへ投げた。


「…………ひ、っ」


頭部に当たった瓶が割れて粉々になる。ツーっと水滴が喉を伝い、水分を含んだシャツが素肌に吸い付く。ぽたぽたと床に染みが広がり、カタ、と数歩後退る。


「なんで」


映像の中の自分はカララギと楽しそうに談笑していた。映像の中では晴れている空も、今はどんよりと曇っている。


「じゃあ、次ね」


カララギが目の前で槍を振り上げた。きらりと光った穂先が、火花を散らして濡れた地面に突き刺さる。


「大丈夫、あとちょっとだから」


ぼう、と青い炎が視界を焦がし、そして場面は切り替わった。











「今、深刻なウイルスが流行しています。皆さんは自宅で待機していてください」


ゴールデンウィークが明けて、梅雨に入った頃。担任の先生がそう言うのを、雨音と共にぼーっと聞いていた記憶がある。

その先生は、数日後には感染してどこかへ連れていかれたそうだ。


場面が切り替わる。


「えー、今日から君達の担任になる、××です。えーと、早速ですが、、そら?……ええと。カラ、ラギ…………えー、君達と一年間同じクラスで過ごした、空良木小雨さんが急遽転校することになりました」


教室から、えー、と困惑の声が上がる。一年間同じクラスで過ごした、なんて嘘ばっかり。大した関係性も築いていないはずなのに大泣きしている女の子達は、一体何を思って泣いているのだろう。

事の発端であるはずのカララギは、興味無さそうに水滴が伝う窓をツーっとなぞっていた。


場面が切り替わる。


「空良木さん、転校だってさ」

「あんまり話したこと無かったけど、感極まって泣いちゃった」

「でも、この時期に転校なんて……ねぇ」

「…………やっぱり、内地に逃げるんだよ。海辺は化け物が多いから」


教室近くの女子トイレで女の子達がこそこそと談笑していた。

内地に逃げる、だなんて。アレが──転校届がどういった意味を持つのか、何も知らないくせに。カララギちゃんことも、何も知らないくせに。

きゅっ、と拳を握り締めるが、とやかく言えるだけの資格が私には無い。


これは、要らない記憶だ。


場面を切り替える。







ザアァ……と梅雨の音がする。それと、筆がキャンバスを走る音。

午前だけの授業が終わり、クラスメイトの大半が帰宅した水曜日の午後。カララギが転校する日。

自分の上背よりも大きなキャンバスに絵を描くカララギを、私は隣で見つめていた。


「…………完成、するの?」


沈黙に耐えかねて口を割った私に、「完成するよ」とカララギが返す。


「これだけは、完成させなきゃいけない。これは、持ってはいけないものだから」


筆を止めて囁いた彼女はいつになく寂しそうで、はくり、と一瞬呼吸が止まった。

「……ああ、百号のキャンバスなんて、持ち歩けないものね」と取り繕う私に、「それもそうだ」と彼女が微笑む。

再び、沈黙の帳が場に降りた。

サッサッと筆を擦る音と、トタントタン、と雨が跳ねる音だけが部屋に充満する。


サッサ。トタントタン。シャッシャ。ポツン。


音を鼓膜が捉える度、段々と瞼が重くなる。


「眠いの?」「…………うん」「寝てていいよ。できたら起こすね」「……………………うん」


そんな会話をした気もするが、よく覚えていない。


──場面はもう切り替わらない。


トタン。雨が跳ねる。筆の音はしない。ポツン。雨が跳ねる。筆の音はしない。瞼が少しずつ軽くなっていく。意識が表層に掬い上げられる。


「おはよう。眠り姫」

「え、」


パチ、パチ、と瞬く寝ぼけ眼に、宝石のような青い瞳が映り込む。誇張でも何でもなく数センチ先、丁度焦点がぼやける距離で、真っ青な虹彩が揺らめいていた。


「あまりにも起きないから、毒林檎でも食べたのかと思った」


顔を離し、くすくす、と愉しそうに彼女が笑う。思わずそっと唇に触れるが、少しも湿ってはいない。


「…………もう、頬を染めてはくれないの?」


試すように頬を撫でる指先に、そっと自分の手を重ね、「一年もいじわるされたら、流石に慣れちゃうよ」と微笑み返す。


「そっか…………それなら少し、嬉しいな」


感慨深気に揺らめいた青い瞳に、心臓の奥がジクリと疼く。指先はいつの間にか離れていた。


「……絵はできた?」


明らかな話題の変換。だが彼女は気分を害することも無く、柔和な笑みを貼り付ける。


「うん。まだ完成はしてないけど、できたよ。見る?」

「うん」


ふっとキャンバスの方に視線を移せば、はためく白が瞳に映った。ほつれと絵の具汚れが目立つ、幽霊のようなぼろ切れ。

キャンバスに掛けられて四角く矯正されたそれに猛烈な既視感を覚えるが、依然としてそれの正体は掴めない。


「ねえ、カララギちゃん、それって……」


開きかけた唇は、ぴっと立てられた人差し指に制された。


「実習室のカーテン」


シーッ、と吐息を洩らして微笑むいたずらっ子に、やっぱり……とため息を零す。


「バレても、今日で居なくなるんだからいいんだよ」


俯き気味に微笑んだカララギが、くるっと回転してキャンバスの方へ歩き出した。長い黒髪が彼女の横顔に影を落とす。


「私は今日で居なくなる。だから今、学校中に居る人間が、私を忘れられないようにしてやるんだ。自分達が戦場に送り込む生贄の顔を未来永劫忘れられないように脳髄の奥に刻みつけてやる。これがお前らが殺した人間だってね」


はは、と乾いた笑みを零して、くるくると彼女は回る。


「ああ、そうだ。絵を見せるんだっけ」


カタ、と一呼吸置いて、ローファーがキャンバスの隣で停止した。布の端を掴む骨張った手が微かに痙攣する。


「きっとこれが、私の代表作になるよ。私は一番描きたかったものを描くことが出来た。誰が何と言おうと、私の最高傑作はこれだ」


切望を滲ませた笑みを浮かべ、カララギが振り返る。ドクドク、と心臓の音が高まっていく。


「じゃあ、六月の花嫁(ジューン・ブライド)のベールアップといこうか」


くすり、と吹き出す音がして、ばさりと布が取り払われた。バッと、めくれ上がるカーテンが逆光を反射して影に染まる。絵の下腹部がスローモーションのように顕になっていく。

潤んだ瞳の中を、描かれた黒い軟体動物がゆるりと泳ぐ。


「──っ、」


全貌が分からないほど巨大な、イカともクラゲともナメクジともつかない黒い軟体動物の手前。大粒の涙を零してこちらを振り返る、制服とマリアベールを纏った茶髪の少女。

驚愕と微笑を混ぜ合わせた表情の向こうから、半透明の触手が迫り来る。


私にはわかる。──あれは、私だ。


「私にはね、キミの背後にクラゲのような生き物が見えるんだ」


頭に響く柔らかい声に、思考回路が遮断された。


「でも、本当に見えるわけじゃない。本当に居るわけじゃないんだ」


手放された白いベールがクラゲの傘を再現するようにふわりと着地する。


「なんて言えばいいんだろうね。例えば………そう、天気雨の日なんかはわかりやすい。キミに降りかかる雨粒に重なって、半透明の怪物が蜃気楼のように揺らめいて見えることがある」


愛おしそうに下を向いて微笑み、まだ乾いていない絵の具を指でツーっとなぞる。白く細い指に、茶色の絵の具がこびり付く。


「ねぇ、ニィコ。私がどんな気持ちでこれを描いたと思う?」


──私がどんな想いでキミを見ていたと思う?


黒髪の向こうで揺れる青は、しっとりと滲んで見えた。


「なんで──」


思わず滑り落ちたその言葉に続きは無い。


「でも、これもまだ完成じゃない。完成させなくちゃいけない。さっきも言ったように──これは、持ってはいけないものだから、ね」


バサリ、とスカートを翻し、カララギが自身の太腿に手を伸ばす。黒いタイツの上にぬらりと煌めくのは、黒鉄色のホルスター。


「え」


カチャリ、と無機質な音が部屋に響く。


「この絵は、私がキミを殺すことによって完成する」


スライドを引き、キャンバスに向かってカララギが銃を構える。


「カララギちゃ──」

「大丈夫。キミには傷一つ負わせないよ。私が殺すのは、キミとは別のキミだから。……それに、もうすぐ私に銃刀法は適応されなくなる」


皮肉じみた笑みと共に、白い指先が引き金にかかる。


「目を逸らさないで、ニィコ。……こんな事しか出来なくてごめんね」

「ぁ」


ごめん、と呟かれた言葉は銃声に掻き消された。


パンッ、と響いた金属音が鼓膜を透過して脳味噌を裂く。突き刺すような光が網膜を焼き、硝煙の匂いが喉を炙る。

反射的に閉じようとする瞼の隙間、眩んでぼやける視界の中で、貫通した弾丸が“私”を赤く染めるのを、私は確かに目撃した。





「…………キャンバスの裏にね、血糊を仕込んでいたんだ」


ポタ、ポタと右耳から血を流しながら、ぽつりと彼女は呟く。


「……本当。こんな絵描きを戦場に送るなんて、どうかしているよ」


そうだね、と返そうとした唇はガサ、と音を立てたきり動かなくなった。


「転校届、なんて洒落が効いてる。赤紙の間違いじゃないか」


赤紙。何の授業で習ったんだっけ。駄目だ、何も考えられない。


「所詮、絵画なんて平和前提の金持ちの道楽なんだよ。ペンは剣より強くとも、絵じゃ戦場で消費されていく人間は救えない」


一層低くなった声色には、暗い影が滲んでいた。バタバタと忙しない靴音の群れがどこか遠くで響いている。


「迎えが来たから、もう行くね。その絵はキミにあげるよ」


冷たい骨の感触が頬をなぞって離れていく。いかないで、と言いたいのに喉は少しも震えてくれない。


「覚えておいて。キミを殺したのは私だ。化け物でも政府でもなく、私なんだよ」


ポタリ、と瞼に水滴が落ちる感触がした。


「どれだけ時間がかかっても、私はキミに会いにいく。もしかしたら、次にキミの前に現れる私は、もう私とは呼べない何かかもしれない」


水滴が瞼を滑り落ち、目尻に沿ってどこかへ消える。


「だからその時は、迷わず逃げてほしい。逃げて逃げて逃げて、キミだけでも生きていてほしい」


左手がそっと持ち上げられる。


「本音を言うなら、殺されるならキミがいいよ。でも、そんなことを言ったらキミは無理をしてしまうから。だから逃げて」


祈るようにきゅっと握りこまれた指先が微かに震える。どうか伝わってくれ、と力を込めるが、神経が思うように動かない。


「じゃあ、またね、ニィコ」


左手が元に戻され、カララギの声が止んだ。

靴音が遠くなっていく。雨音が耳に煩い。焼ききれた喉をいくら絞っても、が、ぁ、とくぐもった濁声しか出てこない。


「 」


無音の絶叫を飲み込んで、濁流のような雨は私から希望を奪っていった。












「、」


最初に目覚めたのは聴覚だった。雨粒が窓を叩く音、ガラガラとキャスターが回る音、ローファーの踵がパタパタとズレる音。それらが奏でる心地良い旋律を、脳のどこか遠い所で聞いていた。


「おはよう、眠り姫。いい夢は見られましたか?」


カララギちゃんの、声がする。

夢?──そうだ。夢を見ていたんだ。残酷で儚くて美しい、真っ青な記憶の夢。ああ、でもどこまでが夢だったんだろう。


「記憶の夢、ね。なら、私が怪物を殺した所までが現実だよ。そこから先は全部夢。まあ、今のこれは現実だけれども」


そっか。


カラカラとキャスターの音は回り続ける。


「そろそろ起きてニィコ。キミを運ぶのにも体力がいるんだ。出来たら、戦闘のために残しておきたい」


うん。


固く閉じた瞼を薄らと持ち上げる。伏せたまつ毛の隙間からライトグレーの光が射し込んでくる。


「おはよ、ニィコ」

「ぁ」


見開いた瞳に映ったのは、高速でスクロールしていく見慣れた校舎の天井と、返り血に染まったままのカララギだった。


「ぁ、ぁ」


途端に意識が覚醒し、闇鍋のように夢と現実がぐちゃぐちゃと混ぜられていく。


「あ、あ、カラ、ラギ……カララギちゃんが、私を燃やしたんだ」

「うん」


意味のわからない妄言にも、カララギは聖母のように微笑んで頷いてくれる。


「でも、それはホントは違くて、でね、あ、カララギちゃんが、銃?銃で私を撃って、」

「うん、撃ったよ。覚えてる」


カラカラカラカラと、キャスターはまだ回っている。


「それで、イカが私を食べようとして、カララギちゃんが、」

「それは現実だよ。大丈夫。落ち着いて」


ハッ、ハッ、と短い呼吸を繰り返す私の背を、ひんやりと冷たい手が何度も擦る。スーッ、と深呼吸をする度に錆びた銅のような匂いが胃を圧迫する。悲しくもないのに涙がじんわりと角膜に滲む。


「大丈夫。大丈夫だよ、ニィコ」

「カラ、ラギちゃ、、、あ」


縋るように見上げた彼女は、どうしようもなく青くて。


「──おえ、」


黄色い吐瀉物が記憶を上書きするように、制服を染めた。


──場面は再び、切り替わる。






きゅ、と蛇口が締まる音がして、流れ落ちる水が細くなった。ぴちゃん、ぴちゃん、と跳ね返る水滴を、体育座りで見つめ、スンと鼻を啜る。

凭れかかってるのは、さっきまで乗せられていた、カララギがかっぱらってきたというストレッチャー。吐瀉物で汚れたせいで、これはもう使えなくなってしまった。

スン、ともう一度鼻を啜り、手洗い場の前で揺れる濡れ羽色に視線を移す。彼女は丁度、手に持っていた濃紺のスカートを力一杯絞っていた。


「心配しなくても、ちゃんと綺麗になったよ」


私の視線に気づいてか、カララギがくるりとこちらを振り返った。その髪は相変わらず青く汚れているが、今はもう気にならない。


「ありがとう、カララギちゃん」


カタ、とローファーを鳴らして歩み寄る彼女に手を差し出せば、洗い立てのスカートを手渡された。

まだかなり湿っているが、これなら大丈夫そうだ。


「本当に着るの?風邪を引くよ。私ので良ければ貸すけど」

「大丈夫。人より身体は丈夫だから。それに雨でもう手遅れだよ」


心配そうに小首を傾げる彼女に微笑みかけ、スカートのジッパーを、ジーッと上げる。


「うん、大丈夫そう」


くる、と回れば湿気を含んだスカートがふわりと持ち上がった。不快感はそれほどでもない。


「そっか。なら移動しよう。もう次期アレが来る」

「アレ?」


ぱっと上空を仰ぎ見たカララギの視線を追って、屋根の上を見上げ──呼吸が止まった。


「──なんで」


呟いた言葉は、きっと届かない。


「なんで、生きてるの」


雨粒を弾いて伸びる半透明。うねうねとひしめき合う、夥しい数の吸盤。ばらばらと崩れる屋根の向こう側、巨大なイカの触腕が灰色の空に伸びていた。


「それはね、アレがイカだからだよ」


振り返ったカララギは、酷く切ない微笑を浮かべていた。チクチクと痛む傷を隠すような、見る者の胸を締め付ける自虐的な笑み。

はっと、開いた唇は何も紡ぐことが出来ずに固く結び直される。


「……詳しいことは歩きながら話そうか。もう、あまり時間がないんだ」


カタン、と静寂を破ってローファーが歩き出す。遠ざかる背中に、あっ、と伸びた手が行き場をなくして重力に従う。

ザアァ、と打ちつける雨音が、彼女との距離を遠く感じさせた。






「まず、ここがどこかはわかる?」

「私達の学校……だった場所」

「正解」


瓦礫が溢れる廊下をテンポ良く進み、正面を向いたままカララギが問いかける。


「正確には、まだその一階だけどね」


割れてむき出しになった蛍光灯が、バチバチと点滅を繰り返し、落ちた火花が地面に消える。積み上がった瓦礫がガラガラと音を立てて崩壊する。

……そう。この見る影もなく廃れた建物が、二年前まで通っていた私達の母校なのだ。


「順を追って説明するよ。何から聞きたい?」

「何って言われても……」


聞きたい事は山ほどある。何故イカが生きているのか。何故学校にいるのか。何故、カララギはここにいたのか、etc。しかし、何から聞けばいいかわからない。

キョドキョドと視線をさ迷わせる私に、くすり笑ってカララギが振り向く。


「何でもいいよ。イカのことでも、私のことでも。知っていることは何だって答える。まあ、使い捨ての足軽が知っている機密なんて、そう多くはないけれど」


自嘲の色を浮かべた瞳が、瞼に隠され前を向く。また、心臓の近くがジクリと痛む。


「……じゃあ、なんでイカはまだ生きてるの」


絞り出した声は、震えが透けて見えた。


「イカ、ね。うん、いい質問だ。ニィコはイカの構造を知ってる?」


背中越しにかけられた問いに、ゆるりと横に首を振る。ぴしゃん、と割れた天井から雨水が溢れて水溜まりが跳ねる。


「イカは頭部と胴部の他に八本の足と二本の触腕を持っているんだ。触腕なんか戦う上では非常に厄介だけど、イカの本当に嫌な所はそこじゃない」


言葉を区切り、カララギが笑う。


「アイツらはね、心臓が三つもあるんだよ。だからあと一回、私はアレを殺さなきゃいけない」

「え」


心臓が三つもあるという事実にも驚いた。だがそれ以上に、あと一回、という単語に引っかかる。

あと一回殺さなきゃ、ということは、彼女はこれまでに二回イカを殺していることになる。内一つは目の前で体験したあれだろう。

──なら、残りの一つは?


「ご明察通り。私がイカと対峙するのは初めてじゃない」


こちらの思考を読んだように、カララギが言葉を綴る。


「アレは、私の部隊を壊滅させた張本人なんだ」


そう言った彼女の表情は、長い濡れ羽色で隠れて見えなかった。


「部隊……」


呟いた言葉は誰にも届くことなく雨音に溶ける。

……そうだ、なんで疑問に思わなかったんだろう。部隊。怪物を討伐するのは、個人じゃなく軍の部隊だ。なのに、彼女は一人でここに現れた。


「一回目も、トドメを刺したのは私だった。アレは想定よりも弱くて、正直拍子抜けしたよ。でもみんなは──部隊の連中はアレを殺せなかった。別に、部隊が弱かったわけじゃない。それとは別に、殺せない理由があったんだ。…………少し話が逸れたね」


ぴしゃん、と雨粒が落ち、会話が途切れる。


「次は何が訊きたい?」

「…………なんで学校に連れてきたの」

「なるほど」


迷うことなく答えた私に、気分を良くしたカララギが肩越しにこちらを覗く。


「前提として、この周辺にはもうシェルターは無いんだ。直ぐにどこかシェルターへ送ってあげられたらいいんだけど、残念ながら度重なる連戦で私の体力もすり減っている。正直、私がそこまで持つとも思えない」

「……うん」


脳を過ぎる、足手まとい、という言葉を肯定しかけた自分にそっと首を振り、目の前で揺れる濡れ羽色を見上げる。


「ならどうしようか、と考えて、迎え撃つことに決めたんだ」


──私はそのために来たのだからね、と付け加え、彼女は大仰に両手を広げてみせた。


「そのためにはシェルターの代わりになる、ある程度頑丈で広い建物が必要になる。直ぐにここを思いついたよ。幸い、キミが倒れた場所は校舎にとても近かったしね。ストレッチャーは校門の近くに落ちていたものを使わせてもらった。たぶん、保健室のやつかな」

「へえ……運が良かったね」


「確かに」とカララギは笑うが、本当に運が良かった。ストレッチャーがなければ、私はきっと彼女の背におぶわれていただろう。そうなったら目も当てられない。

助かった、とため息を零した視界に、ひらひらと手を振る彼女が映る。それに吊られて笑いそうになった途端、言い表しようのない違和感が脳を襲った。


彼女は何か、隠しているんじゃないか、と。


「…………そういえば、武器……槍はどうしたの?なんで持ってないの?」

「槍?ああ、そっか。一応これも軍事機密なんだっけ」


カツ、と歩みを止めたカララギに、数コンマ遅れて立ち止まる。

思わずぶつかりそうになった背に慌てて三歩ほど距離を取ると、彼女は何も無い虚空に右手を翳した。


「槍なら今もここにあるよ、見てて」


流し目を寄越したカララギにはっと息を詰めれば、ぶわり、と冷たい風が頬を撫ぜた。湿ったスカートがパタパタとはためき、舞い上がる髪が視界を遮る。


「きゃっ、」


驚いて閉じかける瞼の隙間、何かを掴むように差し出された彼女の腕に、大量の黒い粒が集まっていくのが確かに見えた。


「確か、形状記憶粒子?だったかな。原理は知らないけれど、槍を微粒子レベルでバラバラにして空気中に保管するんだ」


集まった粒がジグソーパズルを嵌め込むみたいに、どんどん槍を組み上げていく。


「そのバラいた粒子を配置することで槍が再構成される。こんな風にね」


突如無風になる廊下に固く閉じていた瞼を緩めれば、真っ黒な槍が彼女の手に収まっていた。青い血の一滴も残っておらず、槍は作り立ての新品のように鈍い輝きを放っている。


「もちろん、これを一瞬で消すこともできる」


カララギが腕を軽く振ると、槍はまた細かい粒になって、空気に溶けて見えなくなった。思わず一歩近寄るが、先程までそこに何かがあったとは到底信じられない。


「すごい……」

「一般に公開されている軍の装備は約二十年前に開発されたものだって聞くしね。みんなには内緒だよ」


思わず呟いた台詞に反応して、夢で見た記憶をなぞるように、シーッとカララギが人差し指を立てる。


「まあ、私が答えられるのはこれくらいかな」


立てていた人差し指を戻して、カララギの腕がだらりと垂れ下がった。踵を返して歩き出そうとする背中に、慌てて「待って」と声をかける。


「?……どうかした?」

「あ、」


不思議そうに首を傾げてこちらを向く彼女に、どうしよう、の一言が脳内を埋め尽くす。頭を過ぎるのは、先程感じた違和感。……どうしよう。勘違いだったらどうしよう。気分を害してしまうかもしれない。ああ、でも。

時間にして数秒。襲い来る逡巡の波を振り払い、喉を振り絞って声を紡ぐ。


「私、一番大事なこと、まだ聞いてないよ。…………カララギちゃんは、なんでこんな所にいるの?」


はた、と瞠目した彼女が一切の動きを停止した。


そう。本来なら彼女はこんな所にいるわけがない。空良木小雨は十七歳──つまり未成年である。転校届が執行されたとはいえ、軍がこんな前線に送るとは考えられない。


「…………あのイカを追ってきた、っていうのじゃ納得してくれない?」


意図を見透かすように、真っ直ぐに彼女がこちらを見つめる。


「……私が聞いてるのは、その前だよ。イカの活動範囲はそんなに広いとは思えない……、なのにカララギちゃんはあれを二回も討伐してる。ってことは、その前から前線に──ここに居たんでしょ」

「ニィコ」


静止しようと腕をもたげるカララギを遮って数歩下がり、はく、と唇を震わせる彼女を見上げる。


「それだけじゃないよ。カララギちゃん、久しぶりに校舎に来たにしては迷いが無いよね。私にはそれが、どこか目的地があって、そこに行こうとしているように見える。……それを踏まえてもう一度訊くよ。カララギちゃん、なんで…………ここにいるの?」


沈黙の隙間を縫って、雨音が二人の間を流れる。それは、一瞬にも永遠にも思えた。


「…………隠そうとしたわけじゃないんだ」


ぽつり、と雨に掻き消されそうな声で彼女が呟いた。


「キミの言う通り、私は──私の部隊はあのイカが現れる前からここに居た」


ぽつりぽつり、とか細い声が空気を僅かに振動させる。彼女は何かを堪えるように、きゅっと自らの腕を握りしめた。


「…………説明するよりも、見せた方が早いかな」


ぱちん、と布を弾く音がして、カララギの袖のボタンが外された。しゅるしゅるとたくし上げられる袖に、白い手首が顕になっていく。何の変哲もない光景の筈なのに、脳の奥の方で見てはいけないと本能が警鐘を鳴らし始める。だがそれでも、瞬きを止めた瞳は一向に逸らすことが出来ない。


「ぁ、」


そして、いつの時代も悪い予感というものは良く当たってしまうのだ。


「──これが、私がここにいる理由だよ」


肘まで捲りあげられた袖の下、白かったはずの彼女の素肌は、救いようがないくらい黒い半透明に侵されていた。


「………………クラゲ、病?」


通称、クラゲ病。彼女の肌と良く似た症状が、記憶の欠片にヒットする。

曰く、それは不治の病であると。曰く、それは癌細胞に似て感染する類のものではないと。曰く、──それは、怪物に至る呪いであると。


「もう、左半身の感覚は麻痺しかけてるんだ。辛うじて槍は握れるけれど、なんていうのかな。足が痺れた時の感覚に良く似ててさ、自分の身体のはずなのにまるで他人のもののように感じるんだ」


捲った袖をするすると戻しながら、彼女が呟く。その声は恐れや不安、色んな感情がごちゃ混ぜになって滲んでいた。


「ねえ、ニィコ。この病気のステージ四がどういうものか知ってる?…………最初にこの病を発症した少年は、二週間足らずで血が青く染まって、クラゲに成り果てたんだって。私も丁度、今日で発症から二週間が経つんだ」


ぱちり、と袖のボタンを止め直した彼女が、逆光を背負ってこちらを振り返る。廊下を通り抜ける隙間風がぶわりと彼女の髪を巻き上げていく。


「ねえ、ニィコ。私の血は今──何色だと思う?」


そう言って笑った彼女は、酷く歪に歪んで見えた。


「、あ、っ…………、」


途端、声帯が情けない音を上げ、がくがくと焦点が定まらなくなった。全身から冷や汗が吹き出し、煩いくらいにどくどくと頭痛が脈打ち出す。

違う。違うのに。目の前に居るのは数秒前と何ら変わりないカララギちゃんなのに。

足りない脳にどれだけ言い聞かせても、身体の震えが止まることはない。自分が彼女の正体に怖気付いているという現実が、嫌というほど脳内に刷り込まれる。


「…………続きは、また今度にでも話そうか。大丈夫、私は一人でも戦えるよ。キミを傷つけさせはしないから」


泣きじゃくる子をあやすようにふっと笑って、彼女がくるりとあちらを向く。

カツリ、カツリ、と遠ざかるカララギを呼び止めようと開いた口は、やはり何も紡ぐことが出来ずに閉じられる。


「……またね、ニィコ」


地面に縫い付けられたように動けない私を置いて進むローファーが、私には死への階段を下っているように見えた。


「…………なんで、カララギちゃんが」


小さな囁きは、角を曲がって視界から消えた彼女には届かない。


「なんで、……………………なんで、」


呟いてばかりじゃ何も変わらないのは、嫌というほど身に染みている。今、一番痛い思いをしているのはカララギだ。なら、私がここで立ち止まっていい道理はない。


「追いかけなきゃ、」


逃げて、と夢に見た彼女の声がぐあんぐあんと脳を揺する。今の地球の医学に彼女を救う術は存在しない。だが、それでもせめて彼女の最後を看取るのは私でいたいのだ。

待ってもらってばかりじゃいけない。走って走って走って、彼女の隣に立たなくちゃ。


「まだ、言いたいこと、全部言えてないから」


伝えなきゃいけないことがあるから。私が犯した罪を、彼女にだけは知っていてほしいから。

ジリ、と言うことを聞かない足を引きずって、前を行く背中を追い求める。


「っぐ、…………!、ぁ」


足にしがみつく本能的な恐怖を振り払い、一歩ずつでも確実に前進する。理性の邪魔をする大脳皮質を削ぎ落としてやりたい気持ちになるが、そんなことをしている暇はない。


「動け、動け…………動いてよ、!」


木偶の坊になる足を必死に叩いて鼓舞するが、亀以上のスピードは引き出せない。

逃げて、とまだ耳元で夢の中の彼女が呪いのように囁いている。雨音が思考を遮るようにザアザアと威力を増していく。


「煩い煩い煩い!カララギちゃんはいつもそればっかりだ。逃げてなんて、私ばっかり庇って。それで貴女が死んだら私がどう思うかなんて考えもしない。私を撃ち殺したくせに、自分のトドメは任せてくれない。貴女のそういう所が大嫌い、でもこうやって貴女に当たることしか出来ない私はもっと嫌い!」


激情に任せて、だん、と廊下の壁を拳で殴れば、本能の呪縛がほんの少しだけ緩まった。壁に負けた手の側面から真っ赤な血が流れ出すが、そんなものはどうだっていい。

自由を取り戻した足を前に出し、廊下を走り抜けて彼女を追いかける。


「絶対、……追いつくから」


彼女が消えた曲がり角を右に曲がる。彼女の姿はない。そのまま直進。前と左手に別れる分岐点を、左に曲がる。彼女の姿はない。だけど、絶対彼女はこちらへ来たはずだ。

ガタガタと煩い鉄の敷板を駆け抜け、夢で上った階段を目指す。足が縺れる。構わない。前へ前へ前へ、一直線に前進する。

あと数メートル。突き当たりを左に曲がれば階段だ。壁にめり込んだ防火扉に手を掛け、遠心力を利用してぐるりと曲がる。


「はぁ、っ…………は、あ、………………、!」


階段の手前、息を切らせて膝に手をつき、足下を見つめた。久しぶりに全力で走ったから、だらりと垂れ下がった首が中々上がらない。鉛のように重くなった頭を幾筋もの汗が伝う。


「っ、ぁ、……は、…………」


ゆるり、と一段一段数えるようにして目線を上げていく。一段、二段、三段……居ない。四段、五段、六段…………居ない。七段、八段、九段──十段。そこで私の視線が止まった。

段差に沿って伸びた影が、十段目に差し掛かった所でゆらりと揺れる。


「なんで」


か細い声にばっと顔を上げれば、長い髪をたなびかせたカララギが端正な顔をくしゃ、と歪めていた。その迷子の子供のような表情を少しでも和らげたくて、安心させるようににこりと口角を吊り上げる。


「…………、はぁ、はぁ……、、また、会ったね、……カララギちゃん。話の、続きを…………、っ、聞かせてよ」


カタ、と一歩、カララギが段差を下りた。


「なんで、来たの」

「まだ、貴女と話を、していたい、から」


また一歩、カタリと彼女が階段を下りる。


「…………全然、面白い話じゃないよ。それでもいいの」

「……、いいよ。私は、貴女の隣に、居たいだけだから」


不器用ながらも、精一杯の笑みを浮かべてみた。振り払われても意地でもついていってやる、という内心を隠してカタリ、と階段を上がっていく。

私が一段上がる度、カララギがゆっくりと一段下がる。それを何度も繰り返して、やっと一段差にまで追いついた。


「待っててくれなくても、良かったのに。カララギちゃんがどれだけ遠くに行っても、私は絶対追いついてみせるよ」


挑発的に微笑んで手を差し出せば、は、と喉を上下させたカララギが、一拍置いてゆるりと柔く笑む。


「…………うん、それは嬉しいな。ありがとうね、ニィコ。追いかけてきてくれて」

「当然」


ゆったりと私の手を掴んだカララギに、ぐい、と腕を引き上げられる。


「なら、話そうかな。長い長い、私達の──ゼリー隊の話を」


ローファーに踏まれた硝子が、ぱきん、と悲鳴を上げた。


「────怪物には二種類居るんだよ。一つは海からやってくる、正真正銘の怪物。もう一つは、クラゲ病患者の、元人間の怪物。ニィコはクラゲ病になった人間がどう処理されるかは知っている?」

「…………人間で居られる間に、筋弛緩剤で安楽死させられる」

「そう。政府によって安楽死させられるんだ。全く、お優しいことだよね」


階段の踊り場を覆い尽くす瓦礫を、ぴょんぴょんと跳ねてカララギが上っていく。


「けれど、そういう処理をされない職種の人間もいる。化け物に至る寸前まで政府によって使い潰されるんだ。これは何か、わかる?」

「……軍人」

「大正解」


のろのろとクライミングのように瓦礫を上る私に、カララギの腕が差し出された。それを迷いなく取って、何とか上階に引き上げてもらう。


「まあ、勿体ない精神の産物だよね。私達軍人は政府の所有物だから、どう扱われようと文句は言えない。それでお国が思いついたのが、人間のリサイクルなんだよ。人間でいる間は使えなくなるまで戦わせよう。使い物にならなくなったら化け物同士で殺し合わせればいい。勝っても負けても得をする、本当に無駄のない、極めて優れた政策だ」

「そうかもね」


二階の廊下に転がった石ころを蹴っ飛ばしながら、カララギが言う。


「そして作られたのが私達、ゼリー隊なんだよ」


ゼリー…………つまり、ゼリーフィッシュ。クラゲ病患者を集めた小隊の名前がゼリー隊だなんて、全く皮肉が効いている。


「さっきも言ったけれど、クラゲ病は二週間程度で化け物になるから、当然まともな作戦なんてものは与えられない。同じ時期に病にかかった軍人を集めて、適当に前線に送り込むんだよ。もちろん帰って来られては困るから、帰還用のヘリも要らないし、食料だって通常の半分で事足りる。使い捨ての消耗品ほど、使い勝手のいいものは無いだろうね。…………私達ゼリー1に下った命令は、この近くのシェルターに現れたエビの討伐だった」

「、え」


エビ、という単語が脳をグルグルと回り始める。一瞬、ぴたっと足が止まったが、前を行く彼女がそれに気づくことはない。


「この学校に一番近いシェルターだったからさ、ここに来た最初の日にキミがいるかと思って避難誘導の合間に探し回ったんだけど、残念ながらキミは見つからなかったよ。…………ともかく、そのエビ自体はそんなに強くもなかったんだ。部隊のメンバーも誰一人欠けることなく倒せた。所詮は大きいだけの甲殻類だからね。……問題は、その後だった」


カタン、と三階へ続く階段の途中でカララギが立ち止まった。踊り場の窓から伸びる光が彼女の表情に影をつくる。


「仲間の一人がね、イカになったんだ」


そう言った彼女の表情は、影に隠れて見えなかった。


「エビを倒した後でね、ボロボロになったシェルターで談笑してたんだよ。思ったより早かったな、とか。残りの時間は何して過ごそうか、とか。…………まだ人でいられる内に、薬を打って死んでしまおうか、とか。……ああ、そう。ゼリー隊はね、軍の基地からそれぞれの拠点に移るときに、安楽死用の筋弛緩剤を渡されるんだ」


カタ、とまたカララギが階段を上り始め、私もそれに続いて歩き出す。


「私達が勝ったら、怪物になる前に筋弛緩剤を打って自害する。私達が負けたら、未来の怪物を殺せたと考えて他の部隊を送る。もし、怪物を倒す前に私達が怪物になったら、怪物同士で潰し合いをさせればいい。とても合理的だと私は思うよ」

「…………」


私はそれに、何も返すことが出来ない。


「イカに堕ちたのは、私達の隊長だった。突然喉を掻き毟り始めてね、只事じゃないと思って近寄ったら黒い軟体部分が喉まで侵食していたんだ。隊長は、薬を持って来いって怒鳴ってた。でも、私も他の隊員も、誰も動けなかったんだ。薬を渡された時に自分が死ぬ覚悟は出来た。けれど、仲間を殺す覚悟が、私達には無かったんだ。だって私達は転校届や転職願で間引かれただけの、一般人だったんだから。……誰も動けないまま、侵食した軟体部分がぶくぶくと膨れ上がっていってね、あっという間にあの人はイカに成り果てたよ」

「…………そっか」


そんな在り来りな返答しか出来ない自分が歯痒くて、ぎり、と奥歯を噛み締める。


「呆然としてる間に、仲間が一人イカにやられた。でもそれで正気を取り戻して、みんな武器を取ったんだ。何とか陣形を作り上げて応戦したよ。でも、全然ダメだった。イカはそんなに強くないのに、人間だった頃の隊長の方がずっと怖くて強かったのに、いつの間にか防戦一方になってみんな死んでいったんだ。当たり前だよ、だってさっきまで一緒に戦っていた仲間だったんだから。消耗品にだって、感情はあるんだ。仲間が化け物になったからって、はいそうですかって簡単に殺せるわけがない。…………私がアレを倒す頃には、もう誰も生きていなかった。……全員死んだ。誰も居なくなった。恩人だった人を殺してしまった。あれほど死んでしまいたいと思ったことはなかったよ。みんなの後を追おうとね、配布された弛緩剤に手をかけたんだ。早く死のうと、みんなに会いに行こうと思った。これで楽になれると本気で思ってたんだ。現実がそんなに甘いわけないのにね」


ぷつん、と言葉を区切り、彼女は数秒黙りこくった。


「イカがね、再生し始めたんだ。切り傷も弾創もべちゃべちゃとくっつき始めて、アイツはすぐに復活した。いつか見たイカとタコの心臓は三つあるって記事が脳内を過ぎってさ。もうね、可笑しくなってゲラゲラと笑ったよ。みんな何のために死んでいったんだって。馬鹿みたいだ、ふざけんなって。頭の中では怒鳴っているのに、身体はずっと笑っててさ。……ああいうのを絶望って言うんだろうなって、今になって思うよ。……でも、私は軍人だから。怪物を殺す術を持っているから。他の誰かにあの人を殺されたんじゃ堪らないから。消していた槍を構成して、イカを追い始めたんだ。追って追って追いつめた所で、キミと再会した。…………ここにいるのは、私達が選んだ拠点がここだったからだよ。ヘリからシェルターに飛び降りたんじゃ、エビに殺られてしまうから。近くに降下できるだけの広いスペースがあって、頑丈で、食料と弾薬を保管できる場所が必要になった時に、私がここを提案した。私が目指しているのは第一実習室なんだ。戦うための装備や食料の備蓄は全部あそこに置いてある。あの部屋は私の庭のようなものだからね」


はは、と乾いた笑いが階段に反響する。


「いい人だったんだ、隊長。私の師匠みたいな人でさ。ゼリー隊に配属される前から、同じ部隊に居たんだよ。そこでもあの人は隊長をしていた。竹を割ったような人柄でさ、みんなに慕われる良い隊長だったんだ。戦闘経験の無い私達が戦場で生き抜けるように、何度も何度も叩きのめして。左手の骨を折られた時は、いつか絶対殺してやるって恨んだよ。でも、そのおかげで私は今日まで生き延びてこられた。親とか先生とか政府の人間とか、腐った連中に囲まれて脳が腐りかけてた私の目を覚ましてくれたのがあの人だったんだ。初めて会った、ちゃんとした大人だった。あんな所で、死んでいい人じゃなかった」


──私が、死ねば良かった。


続けてそう語られた言葉に、そんな事ないよと返すのは少し違う気がした。

カタカタと階段を駆け抜けて、四階へ到達したカララギが両手を広げてこちらを振り返る。


「──現時点で私が隠していることはこれで全部だよ。ね、面白い話じゃなかったでしょ」


こて、と首を傾げて諦めたように笑うカララギに、無意識に、は、と唇が動く。


「…………正直、聞いてて気分の良い話じゃなかったよ。どこの国も上層部は腐ってるなって思ったし、どっちが怪物なのって問いただしてやりたくなった」

「うん」


広げていた腕をゆっくり下ろして、カララギが力無く微笑む。


「……でも、聞けてよかったなって思ったよ。話してくれて、ありがとう」

「…………それなら良かった」


満足そうに呟いてあちらを向くカララギを追って、私も階段を駆け上がった。

夢の中で見た長い廊下を、今度は自分の足で一歩ずつ進んでいく。木漏れ日が射し込んでいた廊下は、散乱した硝子が埋めつくしていた。窓際に整列した石膏像も、砕けて石屑に成り果てている。ザアザアと吹き込む雨粒が、乾きかけた制服を濡らしていく。


「──そういえばね、私から一つキミに質問が有るんだよ、ニィコ」

「え、」


振り返らずに切り出したカララギが、パキパキと硝子を踏み割って進んでいく。雨で湿った濡れ羽色からは、もう青い返り血は染み出ない。


「私だけ答えるっていうのはフェアじゃないから、キミにも気になっていたことを尋ねようと思うんだ」


一瞬で凍てつく空気を敏感に感じ取った肌がぶわりと粟立った。


「なに、」


いくら冷静を取り繕おうとしても、正直な喉が声を震わせてしまう。


「何って、キミが訊いたのと同じことだよ。──なんで、キミはここにいたの?」

「、ぁ」


なんとなく、そんな気はしていた。それを聞かれるような気はしていたのだ。


「なんでって…………」

「答えて、ニィコ」


逃がす気は無いようで、カララギはこちらを顧みて佇立した。ぐるぐると思考が逃げの方向に空回りするが、良い案は何も思い浮かばない。


「ど、……どうしても、ここに来たかったの」

「なんで」


カララギの目がすっと細くなり、捕食者に睨まれた餌のようにびくりと身体が動かなくなった。言わなきゃ、言わなきゃと思うのに、逃げ腰になる自分が心底嫌になる。


「シェルターが、……私が居たシェルターに、怪物が出たの。それで、そこに居られなくなって、逃げて、でも他のシェルターに行くこともできなくて、このまま死ぬのかなって思って、でもどうせ死ぬなら一番好きなところで死にたくて」

「それでここに来たの?」


こくり、と首だけの動作で肯定を示す。


「ここには、カララギちゃんの、絵があるから。どうしても最後に、見たくなって。カララギちゃんの絵だけが、私を救ってくれたから。あの時、絵じゃ人を救えないってカララギちゃんは言ったけど、貴女が描いた絵は、私の心を救ってくれたから………………、カララギちゃんなら分かるだろうけど、私、嘘ついてないよ。……これじゃ、ダメかな」


下手くそな作り笑いを浮かべ、許しを乞うようにカララギに笑いかける。気づかれていませんように、気づかれていませんように、と祈りながら来る死刑宣告を冷や汗を隠して待ち侘びる。

カララギの唇が薄く開くのを、死にたいなと思いながら見つめていた。


「…………そっか。私の絵でも、救える心はあったんだ」

「、え」


一人、ほくそ笑むように彼女は口角を上げた。


「あなたの作品に救われました、なんて作り手専用の殺し文句だよ。そんな事を言われたら、何をされたって許してしまう。ははは、これは、予想外だ。ほんと、キミはいつも私の予想の斜め上を行くね。ほんと。絵描き冥利に尽きるよ。ありがとう、ニィコ。私の絵に救われてくれて」


そう言って破顔したカララギからは、先程までの張り詰めた空気は感じられなかった。助かった、と胸を撫で下ろすのと同時に、チクリとした罪悪感が心臓の裏手に突き刺さる。


「あはははは、笑ってごめんね、ニィコ。いじわるしたことも謝るよ。さっきの質問も、それで納得してあげる。ただ、他に何か言いたいことがあったらいつでも話してね。私がキミを嫌いになることは有り得ないから」

「……うん。ありがとう。いつか絶対、話すから」

「うん。待ってる」


…………けれどきっと、全部話したら貴女は私を嫌いになる。殺されたって文句も言えないようなことを、私は今もしているのだから。


「もうすぐ実習室に着くね」

「うん」


カタカタと進み出したニ対のローファーが、テンポ良くリズムを刻んでいく。


「キミはまだ絵を描いてるの?」

「……ううん。やめちゃった。材料を買うお金も無いし」

「そっか」

「…………カララギちゃんはまだ描いてるの?」

「うん。私は絵を描かないと死んでしまう生き物だから」

「ふふ、なにそれ」

「冗談じゃないよ。ほんとに、描かなきゃ気が狂いそうになるんだ。きっと絵の具がなくなったら、自分の血を使ってでも描くだろね。というか、一度やったことあるし」

「あるんだ」

「うん。脇腹を負傷して救護班を待っていた時に、暇で暇で自分の血でウォールペインティングしちゃった。結構凄いの描けたと思うんだけど、隊長には頭をすっ叩かれたよ」

「ふふ、ん、……ふふふ」


彼女の話が面白くて、ついつい足が弾んでしまう。学校の休み時間みたいな不毛なやり取りを消化し続け、気がついたらまたしても第一実習室の扉の前に着いていた。これをデジャブと言うのだろうか。


「……私も、隊長さんに会ってみたかったな」

「会えるよ、これから」

「え?」


ぽつりと呟いた独り言を拾って、カララギがドアノブに手をかける。


「この扉の先に、あの人達は今も居るんだ」


ギィィ……と軋みながら開く扉に数歩下がれば、カララギの肩越しにイーゼルのようなものが見えた。


「苦労したよ。画材を集めるのも、作戦の合間に描きあげるのも」


徐々に顕になる全貌に、夢に重なるようにしてはっと息を詰まらせる。


「紹介するよ。これが、私達ゼリー1のメンバーだ」


実習室のど真ん中。砕けた彫刻達に囲まれた場所に、その絵は鎮座していた。夢の中と同じ百号のキャンバスに描かれた、様々な服を着て笑い合う年齢もバラバラな十数人の人々。イーゼルに乗せられたその中には、カララギの姿もあった。


「……綺麗。真ん中に居るのか隊長さん?」

「そうだよ」

「…………優しそうな人だね」

「いいや、凄く怖い人だ」


そう言いながらも、画面の中の隊長は仲間に吊られて不器用そうに笑っている。それだけでも、怖いだけの人ではないことが窺い知れた。


「……良かった。ちゃんと残ってて」


囁かれた彼女の声は、消え入りそうなほどか細かった。

カタ、カタ、と歩み寄ったカララギが、額をそっとキャンバスに預ける。


「みんな、家族なんかいないも同然のような人達でさ。遺影なんてものもないから、変わりに自分達の絵を描いてくれって頼まれたんだ。全く勝手な奴らだよ」


はは、と力無く笑う彼女の声には台詞とは真逆の慈愛のような感情が滲んでいる。


「……もう一度会えて良かった」


俯いてキャンバスに縋る彼女の肩は微かに震えていた。啜り泣く声は聞こえない。涙が零れることもない。それでも彼女が仲間の死を悼んでいることは、ありありと見て取れた。


「…………うん、もういいよ。いつまでも縋っていたら、また隊長に頭を叩かれそうだ。ほっといてごめんね、ニィコ。すぐに用を済ませるから」

「ううん、気にしないで」


名残惜しげにキャンバスから離れたカララギが、スタスタと備え付けられた棚の方へ歩いていく。その背を追って室内に入れば、懐かしい絵の具の香りが鼻腔を擽った。


「この棚の二段目に弾薬を置いておいたんだ。一番下の段の…………そうそれ。その箱の中には保存食とかが詰まってるから好きなの食べていいよ。私は弾丸を装填するから、適当に時間潰してて」

「はーい」


太腿から取り出した拳銃に弾丸を詰めるカララギを見ながら、見つけた携帯保存食をぱくぱくと口に運んでいく。

サクサク。カチャカチャ。しとしと。カチッ。

室内はクッキーとリボルバーと雨の音で満たされていた。


「これで良し」


最後の弾丸を装填したカララギがホルスターに拳銃を戻すのと、私がクッキーを食べ終わるのはほぼ同時だった。


「……これからどうするの?」


噛み砕いたクッキーを飲み込んで尋ねる私に、「どうもしないよ」と彼女が返す。


「どうもしない、って?」

「言葉の通りだよ。イカが来たら迎え撃つし、来なかったらキミをシェルターまで送り届ける。要は、あちら次第って感じかな。…………強いて言うなら、キミにプレゼントをあげます」

「プレゼント?」

「うん、待ってて」


待ってて、と言われたからには待つほかない。仕方なく新しいクッキーを開封して頬に詰め込み、棚の奥に引っ込んで「どこに置いたっけな……」と何かを探し回る彼女をサクサク見つめる。


「ああ、あったあった」


棚に阻まれて全く見えなくなった彼女が声を上げたのは、五袋目のクッキーを開封した頃だった。


「ぬ、なぁにが、んぐ、ふぁったの、?」

「……飲み込んでから喋りなよ」


もごもごと口を動かして話しかければ、カララギがやれやれといった風に首を振る。


「んぐ…………、何があったの?」

「これ」

「?」


差し出されたカララギの掌には、どう見ても新品の筆と、箱に入った油絵具が握られていた。


「…………これって」

「見ての通り、油絵具だよ。日本画専攻のキミには馴染みが無いかもしれないけど、無いよりはましかなってね。……気に入らない?」

「…………ううん。嬉しいよ。嬉し過ぎて言葉が見つからないくらい。うん。ほんとに、嬉しい。……もらっていいの?」

「うん、そのために探し回ったんだから、貰ってくれなきゃ困る」

「そっか。…………ありがとう」

「どういたしまして」


嬉しさのあまり手渡された箱と絵筆をそっと抱き締めれば、「本当は水干絵の具とかあれば良かったんだけどね」と中々拝めないカララギの照れ隠しが飛んできた。


「……カララギちゃんがくれるならなんだって嬉しいよ。ほんとに、ありがとう。また今度お礼させてね」


素直に思ったことを口に出せば、うーん、と悩ましげにカララギが首を傾げる。


「お礼か。……なら、それで描いたキミの絵を見せて欲しいな。それじゃだめ?」

「んー、…………だめ。描いた上でその絵をカララギちゃんにプレゼントします」

「これは一本取られた」


眉根を下げてくしゃっと笑う彼女が擽ったくて、新品の香りを放つ絵の具に胸がいっぱいときめいて、幸せだなあ、今死んでしまっても充分だなあ、って思って──それが、いけなかったんだろうか。


幸せな時間は、ガラガラと音を立てて崩壊した。


吹き飛んだ外壁が、石像とぶつかって床に落ちた。ピッ、と飛んできた破片が頬に赤い筋を残してどこかへ消える。爆音に耐えられなくなった聴覚が、キーーーンと耳鳴りを起こすのを認識した時には全てが手遅れだった。


「、ぁ」

「…………来ると思ったよ、ほんと。ちょっとは空気を読んでくださいよ、──隊長」


壊れた外壁から覗く、三角形のヒレと二本の触腕。ぱらぱらと降り注ぐ雨を浴びてぬらりと身をくねらせたそれは、紛れもなく怪物だった。


「、っあ、ひ、」

「…………ああ、天気雨だ。私結構好きなんだ、これ」


呟いたカララギの手には既に、二本の槍が握られている。彼女の肩越しに見る空は一切の雲がなく、夕日を浴びてレモン色に染まる実習室は、涙が滲むほど儚く見えた。


「……きっと、こういう感情を言語化した表現が、“死ぬにはいい日”なんだろうね」


うねうねと踊る触腕をふっと見遣り、カララギがキャンバスに向かって槍を振り上げる。


「、ぇ、?」


なんで、と言おうとした口から言語が発されることはなかった。勢い良く振り下ろされた穂先が、描かれた隊長を真っ二つにして床を削る。


「え、」

「さっき、“現時点で私が隠していることはこれで全部”って言ったけど、たった今隠していることが一つ増えたよ」

「どういう、こと、……?」


切り裂かれたキャンバスの奥には、二枚の板と真っ白な発砲スチロールが覗いている。


「このキャンバスは血糊を仕込んだやつと同じで、三重構造にしていたんだ。最初に普通の板を用意して、その次に発砲スチロールと目的のものを貼り付ける。それを薄い板でサンドして、真っ白な布地で覆えばもう完成」


言いながら、槍を手放したカララギが手前の薄い板をバキリと折った。板状の発砲スチロールを鳥の羽を毟るみたいにばらばらと取り出して、立てていたキャンバスをイーゼルごとガタン、と倒す。


「軍に支給されたものが、一つ残ってたんだ。どこに飛ぶかはわからないけど、無いよりはたぶんましだと思う。ここに隠してたのはね、使うつもりがなかったからなんだ。でも、取っておいて良かったなって今になって思うよ」


倒れたイーゼルの足を踏みつける彼女の手に収まっているのは、一センチ四方の黒い立方体。私はそれに、見覚えがあった。


「…………ブラック、ボックス」

「なんだ、知ってたの」


一名用の強制転移装置──通称、ブラックボックス。物理的に不可能な距離でさえ移動出来てしまうそれを、私は何度か使ったことがある。


「そう。ここに来たのは弾薬の補充のためだけじゃない。キミにこれを使わせるためなんだよ、ニィコ」


スィーーーン、とモーター音を出してブラックボックスが起動した。カララギの手の上で浮かび上がり、あっという間に十センチ四方になったそれが私を飲み込もうと近づいてくる。


「……、い、嫌。なんで、来ないで」

「…………ごめんね。やっぱり、どうしてもキミには生きていてほしいんだ。生きて生きて生きて、私の知らないところで幸せになってほしい。私と過ごしたこれまでが霞んで色褪せるくらい、幸せに包まれた日常を送ってほしい」


床に転がった槍を拾って、カララギがイカに向き直る。


「……そして願わくばいつか、私が送った絵の具で絵を描いてくれたら嬉しいな。ほんと、我儘ばっかりでごめんね」


くしゃ、と笑って振り返った彼女の首には、黒い半透明が侵食していた。階段を踏み外す音が、脳の深い所でカタンと鳴る。


「やだ。……やだよ、カララギちゃん。っ、私、そんな価値のある、人間じゃ、ない。生きてるべき人間じゃ、ないの。自分が、生き残るために、たくさん……、たくさん人を殺してきたの。隊長さんが死んだのも、私のせいなの。だから……………」

「……知ってたよ。それでも、キミじゃなきゃだめだったんだ」


私の上背よりも大きくなった立方体が、くるくると回転して視界を覆い尽くす。つぷん、と腕が飲み込まれていく感覚を感じながら、必死に逃れようと抵抗する。


「やだ。、っ、やだ、やめて、カララギちゃん。カララギちゃん、カララギちゃん、…………カララギちゃん!」


左半身が立方体に飲み込まれた。崩壊した壁際に向かって歩いていくカララギに声を張り上げるが、彼女は振り返らない。


「────またね、ニィコ。次は、私に見つからないように生きて」


右目が飲み込まれる寸前、微笑んで崖を蹴った彼女は、真っ青な血を床に飛び散らせた。

それがどちらのものだったかは、もうわからない。











「…………、はぁ、……ひぐっ、は、……ぁ、ぐ」


油絵具と筆を抱えたまま、私は海岸沿いをぐらぐらになって走っていた。

ここがどこかもわからないし、どれくらい飛ばされたのかも見当がつかない。私を浜辺に吐き出したブラックボックスは、使い物にならなくなって波に攫われた。

八方塞がりの状態で、それでも何とか足が動くのは、一重にカララギのおかげである。ガクガクになったこの足は、逃げて、と言った彼女の言葉を忠実に守っているのだ。


「は、…………は、……は、は、……………………あっ、」


ガッ、と小石に躓いて、顔からアスファルトにダイブする。擦りむいた膝に薄らと血が滲むが、そんなことに構ってはいられない。土を払うこともせずに立ち上がって、またすぐに走り出す。


「…………誰か、…………、っは、………………誰か、カララギちゃんを、助けて……………………」


絞り出した声は、ガラガラになってひび割れていた。水平線に沈んでいく夕陽が、長い影法師をアスファルトに描く。


──どれだけ、走っただろうか。日はまだ沈んでいないし、実際はそこまで走ってもいないのかもしれない。


何度目かもわからない転倒を繰り返し、涙がじんわりと滲んだ時、カタン、とローファーを履いたルーズソックスが目の前に現れた。


「…………もしかして、ニィコっち?」


降り注いだ底抜けに明るい声に、バッと面を上げれば、夕焼けに染まった嫋やかな金髪がゆらゆらと揺れていた。

小麦色に焼けた肌に、明らかに染めたものだとわかる金髪。長いネイルとミニスカートを纏った彼女が、飲んでいた牛乳パックから唇を離して私の前にしゃがみ込む。


「やっぱニィコっちだ。こんなとこでどした?めっちゃボロボロじゃん」

「に…………ニーナ、ちゃん」


……こんな所で、知り合いに会えるとは思わなかった。

安堵のあまり、ぼろっとこぼれ落ちた大粒の涙がアスファルトに紺色の染みを作っていく。


「ひぐっ…………、ニーナちゃ…………っは、……ぅえ」

「嘘、ニィコっち、泣…………?え、やば。ちょ、タンマ。どしよ。一旦落ち着いて。ごめんごめんごめん」


仰天したニーナがあわあわと両手をバタつかせた。パニックに陥った彼女の袖をぎゅっと掴んで、ひび割れた喉から声を絞り出す。


「聞いて、ニーナちゃん、……、っ、カラ、…………カララギちゃんがね、私を逃がして、……でも、最後に血?真っ青な血が、びしゃってなって、………………でもそれがイカのかどうか、わかんなくて、箱が、私を……の、飲み込んで、?ぇ、あ…………っう……ぇ」

「ちょ、ほんとタンマ!落ち着いて、ニィコっち」

「あ、あ、えぁあ、っう……ひ、っあ」

「ニィコっち、落ち着いて!ニィコ!────胎215」

「、ぁ」


パァン、と乾いた音が響いて、頬が挟まれたのだと気づいた。狭められた視界に、ニーナのエメラルドグリーンの瞳が映り込む。カタカタと転がった空っぽの牛乳パックが、彼女のローファーにぶつかって歩みを止める。


「アンタは胎215。あーしは胎217。あーしの言ってることわかる?」


いつになく真剣な眼差しに射抜かれ、コクコクと首を縦に振った。「ああ焦ったー」と頬から離れていく手をぼーっと見つめて、胎215と言う単語を脳内でたらい回しにする。


胎215。それが私に与えられた正式名称だ。


「──ぁ、」


…………そうだ、なんで忘れていたんだろう。私達も消耗品だった。価値の無い、出来損ないの人工物だった。遺伝子異常で子供も産めない200番台の胎袋。使い物にならないからって船から下ろされた、人間にとっても船にとっても都合の悪いゴミ。人間にクラゲ病を感染させるためだけに生かされた、地球にとっての癌細胞。

それが私たち、200番台の胎袋だった。


「──ぅあ、」


シェルターに化け物が出た、というのは半分嘘だった。だって私があのエビを作り出したのだから。バレないように、寝ている人に注射器を打ち込んで、症状が出たのを確認してシェルターから逃げた。カララギが私に会わなかったのもその時にはもう私が逃げた後だったからだ。


「ぁあ、」


私があの人を化け物に変えなければ、隊長さんが死ぬことも、カララギが絶望することもなかった。

ただ自分が生きていたいからってだけで、たくさんの人を殺してきた。…………なのに、カララギは私を逃がしてあの場にとどまった。最後に見えた血は、きっとカララギのものだ。なら、彼女はもうこの世にはいない。私のせいで、みんなみんな死んでしまった。


「あはは、」


脳内では後悔の念がぐるぐると渦巻いているのに、身体は勝手に笑い出す。


「あははは、あははははははは」

「…………ニィコっち?」

「アハ、あは、あはははははははは!」


頬を一筋の水滴が伝ったような気もするが、それが雨か涙かはわからない。狂ったように笑い出す自分の声を聞きながら、ふとカララギもこんな気持ちだったんだろうか、と一人夢想した。


「はは、……あははは、はははははは…………死にたい、なぁ……」


ブラウン管の電源を消したように、記憶はそこで途切れている。






ぽつり、と額に雨が降り注いだ。


「あのさ、ニーザって覚えてる?」


笑い疲れて、頬を伝う水滴が痕になった頃。傘もささずに隣に座っていたニーナを、寝転がった私はぼーっと見つめていた。


「…………胎213?」

「そう。その胎213。あの子ね、先週亡くなったよ」

「……へぇ」


我ながら自分の声帯からこんな突き放すような声が出るのかと感動した。それくらい今の私にとって他人の死はどうでも良くて、脳の一番大事な部分が麻痺したんだろうな、と冷静に分析を始める始末だった。


「殺されたんだ、あーしの目の前で。あんなに船に尽くしてたのに、ちょっとミスったからって、あっさり」


一番星を掴むように、ニーナが空にぐいーっと腕を伸ばした。その視線の先には、オレンジ色の光を透過して空に溶け込む光学迷彩の“船”。あれは船生まれの人間にしか、見えないものだろう。


「だから、使い捨ての200番台はもう、あーしとニィコっちしか残ってない」

「……そう」


ごめんね、ニーナちゃん。私にはもうそんなことに感動できるような心は残ってないんだよ。

心の中で謝りながら、空を見上げて語る彼女の言葉を中途半端に聞き流す。


「あーしね、もう誰の死ぬとこも見たくないんだぁ。仲間が死んでくのも嫌だし、誰かを殺すのも嫌。誰にきいても今まで散々殺してきたくせにって言うだろうけど、それでもあーしはもう誰も殺したくない。きっと考える余裕がないだけでさ、最前線で消費されていく消耗品は、ほんとはみんなそうなんじゃないかなってあーしは勝手に思ってる」


うん、私もそう思ってたよ。

肯定したいけれど、鉛のように重い口は持ち上げるだけでは言葉を発してくれない。


「だからね、ニィコっちが逃げたいって言うんだったら、あーしいくらでも協力するよ。船から逃げられるルートも、食料の備蓄も用意は出来てるんだ。…………ねえ、ニィコっちはどうしたい?」


だらり、と腕を下ろしたニーナがふわりと笑ってこちらを振り向く。その目は嫌になるほど真っ直ぐで、眩しいなと思ってしまった。


「…………そんなの、私が一番わかんないよ」


チューブへの負担も考えず、カララギが残した油絵具をぎゅーっと抱き締めて膝を抱える。


「船のシステムなんて消耗品には教えてくれない。逃げても逃げても見つかって、最後には刺客に殺されてはい終了。お船様相手に逃げ切れるわけなんかない」

「そーかもね」


淡々と帰すニーナとの間に、重苦しくはない沈黙が流れる。今度は私が手を翳す番だった。


「…………カララギちゃんとね、どこまで行っても追いかけるって約束したんだ」


空の果て、もしかしたらあるかもしれない天国に向けてそっと掌を広げる。


「でもきっと、今そこに行ったらカララギちゃんに怒られちゃうから、私は死ぬわけにはいかない」

「…………あー……ね」

「それに、私まで死んだらニーナちゃんは一人ぼっちになっちゃうんでしょ。…………だったら私は船に帰るよ。ほら、定期連絡もしなきゃだし」


だから、私は逃げられない。

暗にそう意思表示して、油絵具をすっと抱え直した。「ならあーしは強制できないね」と言って微笑むニーナに「ごめんね。誘ってくれてありがとう」と返して柔く笑む。

これで、少しでも長く生き延びられるはずだ。この会話も、船が聞いているかもしれないから。きっとこれから先も、私は自分可愛さに人を殺し続ける。ニーナもそのうち船への忠誠を疑われて秘密裏に処理されるだろう。でも、もうそれでもいいかなと思ってしまった。人を殺して生き延びて、余った時間で絵を仕上げる。

これが生きるための最善の選択だ。いつか船に殺されるまで、私は一生そうやって生きていく。


『ほんとに、それでいいの』

「……え、」


頭の中に響くような声だった。気のせいだってわかっているのに、幻聴だって理解は出来るのに、響いた声はカララギの声そのもので、私は反射的に後ろを振り返り──目を見開いた。


「…………どうして」


そう呟いたのは私だったか、ニーナの方だったか。振り返った視線の先に居たそれは、幻覚でも妄想でもない確かな現実で。


『やあ、また会ったね、ニィコ』


青い返り血で染まった黒カタツムリの怪物が、カララギの姿を模してそう呟いた。


「……どうして」

『さぁ、どうしてだろうね。私が一番聞きたいよ』


二本の大触覚に挟まれた頭瘤の中心。ぽこぽことした瘤に囲まれるようにして生えた彼女の上半身が可笑しそうにくすくすと肩を震わせる。


…………どうして、人間の姿と意識を残しているんだろう。どうして、襲いかかってこないんだろう。どうして、私の居場所がわかったんだろう。


そんな疑問が湧いたのはほんの一瞬で、気づけば私は洗練された造形美から目を離すことか出来なくなっていた。


「……綺麗」

『そりゃどうも』


言われ慣れているように、謙遜をするでもなくカララギが賞賛を受け取る。


描かなきゃ。描きたい。そんな思いが息を吹き返したようにふつふつと湧いてきて、唐突にああ私はこの造形美を描くために生まれてきたんだと理解した。

神に縋る信徒のように、もう触れられないと思っていた彼女に手を伸ばせば『生きていてくれてありがとう』と神様みたいに笑ってカララギが優しくその手を取る。

そして私は、あんな所に戻るくらいなら、誰かに殺されるその瞬間までこの造形美を描いていたいと思ってしまった。


「…………ごめん、ニーナちゃん。私やっぱり帰れない」


カララギの方を向いたままそう告げれば、背後から「そっか」と柔らかい返事が返ってきた。戸惑いを滲ませながらも祝福するように発される声色に、胸の奥がきゅっと締め付けれる。


「あの日、カララギちゃんが私を殺してくれたんだ。だからほんとはもう、私はどこにでも行けるんだよ。でもその事に気がつかないように蓋をして、私は人を殺す方を選んだ」

「……ウン」

「だから、今度は私がカララギちゃんを殺さなきゃいけない。……でも、それは今じゃないんだ。姿形が変わっても、私にとってのカララギちゃんは、まだカララギちゃんのままだから。だから今はまだこれでいいの」

「……そっか、そっか。逃げ延びるって決めたんだね」

「うん」


肩越し振り返って見たエメラルドグリーンの瞳は、夕陽を瞳に閉じ込めて煌々と輝いていた。浜辺の向こうを指さして、ニーナがニカッと気持ち良い笑顔を浮かべる。


「なら、あの道路沿いの廃墟を北上しなよ。あの道はすっごい電波が悪いからさ、上手く行けば船の追跡も逃れられる。あーしは一旦船に帰るから、あーしの分まで冒険、楽しんできてよ」

「……え?」


小首を傾げた私に、バチッとウインクを決めてニーナは船を振り返る。


「ほら、定期報告するんでしょ?なら、ちゃんと胎215の死亡を胎217が確認、って報告しなきゃ。任せて。あーし、こーゆーの得意なんだ」


海の方へ歩いていく背中に「ありがとう」と声をかければ、はよ行けと言わんばかりにヒラヒラと手を振られた。


『良い友人を持ったね、ニィコ』

「……うん。カララギちゃんのおかげだよ」


名残惜しく感じるニーナの背から視線を外し、教えられた通り道路沿いの廃墟を目指して歩き出す。カタカタと弾むローファーとぬちゃぬちゃとアスファルトを滑るカタツムリが一風変わった音楽を鳴らし始めた。


「この廃墟を抜けたらどこに行こっか?」

『キミと一緒に行けるならどこへでも』


背後で聴こえる甘酸っぱい会話に、けーっと砂糖を吐きそうになりながら、頭の後ろで腕を組んだニーナは空を見上げて清々しそうにぽつりと呟いた。


「あーあ、あーしも絵描こっかなぁ」











「はぁ、…………はぁ、……はぁ、はぁ。また、これかぁ、」


太腿に刺さった弾丸を引き抜いて遠くに放り投げ、患部の上を布でキツく縛って血を止める。これでまだ走れるはずだ。


「はぁ、…………はぁ、……はぁ、はぁ」


息が上がった自分の呼吸音の合間に、バタバタバタバタと革靴がコンクリートの床を蹴る音が聞こえてくる。


「はぁ……はぁ…………次が右で、その次が左だっけ。ほんと、……っ、ややこしいなぁ…………追っ手、何人くらいいるんだろ…………」


今回は政府かな、それとも船の方?疲労でぼんやりとする脳をフル回転させて、道順通り長い廊下を右に曲がる。


「……はぁ、っ…………ここだ」


追っ手が見えないのを確認して、目的地のドアに滑り込み、あえて鍵はかけずに耳をドアに張りつける。


「……はぁ……はぁ」


荒くなる息を最大限まで押し殺し、緊張の糸を張り巡らせて耳をすませること数秒、バタバタバタ、と革靴の音が一段と大きくなった。距離に換算して、三メートル、二メートル…………一メートル。

どうか開きませんように、と祈るようにして凭れかかった扉の前、危惧していた革靴の集団は何事かを怒鳴り散らかしながら過ぎ去って行く。


「……………………ふぅ、」


一先ず、危機は脱したようだ。ズルズルズル……と座りこんで上を向き、疲れきった身体に任せて体力の回復を図る。


「…………はぁ、はぁ………………はぁ」


呼吸を整えながら見回した室内に存在するのは、私と大きなカタツムリと、描きかけの壁画だけ。打ちっぱなしのコンクリートに描いた壁画は、存外まだ色褪せていないようだ。


「……………………よし、描こう」


ここ数年で大幅に増えた体力に感謝しながら、のろのろと立ち上がり、扉の向かい──壁画がある壁に片足を引き摺って歩み寄る。

ズル、ズル、と足を引き摺るリズムに合わせて、ぽた、ぽたと赤い染みがコンクリートに吸い込まれていく。


「またちょっと血を貰うね、カララギちゃん」


壁画の手前の左端。ぐったりと壁に寄りかかるカタツムリに声を掛けるが、返事が返って来ることはない。

近寄ってスルリと撫でた彼女の体表は乾ききっていて、妙に切ない感情が心の上澄みを濁らせた。


「もらうね」


返答のない彼女の体表には一対の槍が突き刺さっていた。そこからぽたぽたと落ちる青を左手に塗りたくって、ベタ、と壁に貼り付ける。

……絵の具なんてものは、もうとっくに使い切った。筆洗もパレットも手元には残っていない。使えるものは己とカララギの肉体と、唯一残った絵筆だけ。絵筆で紫色を生み出して、鮮やかな赤と青を壁に塗りたくる。最近はずっとそんな生活を繰り返していた。


「〜♪」


いつか誰かが歌っていた鼻歌を真似して、リズムに乗って絵筆を壁面に走らせる。一本線を引く度に、少しずつ鼻歌の音量が上がっていく。


「〜♬」


だから、キィ、と扉が開く小さな音に気がつかなかった。


「────動くな」


感情の無い無機質な声がコンクリートに反響した。ぴた、と鼻歌を止めてゆるりと振り向けば、銃を構えた青年がこちらを見据えて立っていた。


「思ったより早かったね」


古くからの客人を招くように「まあ入ってよ」と微笑みかければ、青年の銃が動揺を代弁するようにカチャリと音を立てる。


「…………なんで、逃げなかった」


チラチラとカララギを横目で確認しながら、警戒体勢のままで、青年がジリ、と近づいてくる。


「死ぬ瞬間まで絵を描いていたいから。絵の具が無ければ血を使えばいいって、教えてくれた友人がいたの。どうせ、もうこの足じゃ逃げられないしね。だったらここでタイムオーバーになるその瞬間まで描いていたいと思った」


青年の質問に答えながら、スラスラと壁に絵筆を走らせる。これもあと少しで完成だ。


「次は私に質問をさせてくれないかな。聞いてばっかりってフェアじゃないらしいし」

「…………」

「沈黙は肯定と受け取るよ。ならまず一つ。貴方は船の人?それとも政府の追っ手かな」

「……どちらでもない」

「というと?」


こてり、と首を傾げて問いただせば、青年は一瞬ちらっと視線を他所にやった後、薄らと唇を開いた。


「俺は革命軍──レジスタンスの人間だ」

「……へぇ」


レジスタンス。船人でも政府側でもない、市民達による革命分子。完全に独立して動いていたはずのレジスタンスにまで目をつけられるとは、我ながら本当に運がない。


「やっぱり、私も殺すの?」

「当たり前だ。人類側の勝利のために、怪物細胞をばら撒く胎共は一人残らず葬り去る」

「なんだ。もう、そこまでバレてるんだ」


人類の進歩は早いなあ、と感嘆しながら数年後には船にまで手が届くかもしれないと、懐かしの故郷に思いを馳せる。


「もう、生き残ってる胎は私だけらしいね」


世間話のつもりで振った話題に返答はなかった。


「200番台は全滅したんでしょ?知ってるよ。その後送られてきた劣性遺伝子ばかりの600番台も、生き残っているのは半分もいない。ほんと、箱舟はいつまで経っても成長しないなって、染み染み感じるよ」


そう。もう200番台の胎は私一人になってしまった。何が原因でどこで亡くなったのかまでは知らないが、色々と世話を焼いてくれたニーナは、先日焼死体となって発見されたらしい。

きっと、船に葬られたんだろうなとは薄々感じている。


「…………そうだ、青年くん。私を殺すなら、一つだけお願いを叶えてよ」

「何を──」

「心臓をね、この角度で一発でぶち抜いてほしいんだ」


何を言い出すんだ、と続けられそうだった言葉は、無理やり続きを切り出すことで遮った。


「この絵はね、私が血をぶちまけて死ぬことによって完成するんだ。しかもこの角度で、他殺じゃないと成り立たない。……だから、貴方にお願いしたい」

「………………わかった」

「ありがとね、……って、うわ、ちょっと待って」


言うが早いか、スライダーをガチャンと鳴らした青年に慌てて待ったをかける。


「今度はなんだ」

「あとやっぱりもう一個」

「は?」

「…………まあ、聞くだけ聞いてみてよ。貴方にとってもきっと悪い話じゃないから」


こちらに拳銃を向けたまま固まる彼の緊張を解すように、柔く微笑んで言葉を選ぶ。


「いつか、絵を描いてみてほしい。貴方がこれから見る光景は文字通り命をかけた、世界で最も綺麗な絵画だから。だから、こんな腐った世界でも絵で心を救うことは出来るんだって世界中にしらしめてほしいんだ。…………まあこれは交渉でもなんでもなく、あくまでお願いだから描くかどうかは貴方の自由だよ」


走らせていた筆を止めて「できた」と振り返れば、硝子の割れた窓の外、しとしとと降る天気雨が目に入った。朝焼けの光を受けて、桜色に染まる空から祝福の雨が降り注ぐ。半透明の船が覗きに来ていることを除けば、あの日と同じ、“死ぬには良い日”だ。


「…………言いたいことは、全部言った。もう思い残すことは何もない。いつでもいいよ」


あの日カララギに貰った筆を握りしめ、描きあげた壁画の前で大仰に両手を広げてみせた。カチ、と微かに銃が鳴り、その引き金に指がかかる。

……考えてみればここまで生き延びられたのは奇跡のようなものだ。船から隠れて、政府から逃げながら絵だけはずっと描き続ける。いつ世界に見放されてもおかしくない消耗品が、ここまで図太く逃げおおせたんだ。あの船に乗っていた誰も、こんなことは予想しなかっただろう。その楽しかった夢が醒めるだけ。地獄に落ちるのは怖いが、みんなに会うためなら、どんな苦行だって乗り越えてみせる。そしたら笑ってまた絵を描き始めるんだ。だから、世界がほんの少し優しくなるために死ぬことは、別段苦痛には感じない。

青年の指がキリキリと引き金を引き絞り、心臓が早鐘のように鼓動を打ち鳴らす。──今だ。


「さあ、青年!私を、────私達を描いて!」


パァン、と爆発音がして、弾丸が射出された。青年の身体が後方に吹っ飛び、両耳から赤い筋が零れ落ちる。心臓を貫いた弾丸が壁に絵の具を撒き散らすのを、スローモーションで眺めている自分がいた。


ああ、幸せだなあ。本当に、幸せな人生だった。私が描いた絵を自分の目で見れないのだけがすごく、残念だ。


背中に、どんと壁がぶつかる感触がする。もう自分の足では立っていられなくて、ズルズルと座り込む。


『ニィコ』と私を呼ぶ彼女の声がすぐ近くから聞こえてくる。私、すごく頑張ったよ。逃げて逃げて逃げて、誰よりも長く生き延びたよ。そう言ったら貴女は、くしゃっと笑って褒めてくれるのかしら。


ああ、もう目が霞んできてしまった。視界が点滅を繰り返して、今までにない眠気がどっと頭に押し寄せてくる。


『眠いの?』『…………うん』『寝てていいよ。できたら起こすね』『……………………うん』


いつかの会話が走馬灯のように流れて瞼が段々と、持ち上がらなくなる。ああ、みたいなあ。誰か起こしてくれないかしら。もう一度、この目で貴女の絵が見たかったなあ……


嘘みたいに幸せな夢の中で、私は一人地獄に落ちた。











「……………………はぁ、…………はぁ。ようやく、あなたの仇が討てました、隊長」


立ち上がって銃を落とた青年が、よろよろと撃ち殺した死体に向かって歩き出した。破れた鼓膜が流す血が、ぽたぽたとコンクリートを汚すのを気にもとめず、ただひたすら神様に近づこうとするようにその死体へと歩み寄っていく。


「…………これで良かったんだ。彼女が死ぬことでこの世界は少し人類にとっての平和に近づく──そのはずなのに」


壁面を背にして座り込んだ彼女の顔はこの上ないほど幸せそうで、何故か心臓を締め付けられるような感触に襲われた。

そのまま目線を移動させて、奥の壁画を下から見上げる。

描かれているのは青味の強い色で描かれたカタツムリの怪物と、少し赤味の多い色が目立つ作者に似た少女。並んで談笑するように絵を描く二人の上に、真っ赤な血飛沫が飛び散って、どんどん紫色に変色していく。


「…………ああ、綺麗だ」


なにを思考するでもなく、気づけばほろりと言葉が滑り落ちていた。

自分の言動に驚いてカタン、と一歩下がれば、端の方に小さく掘られた文字が目に入った。目を凝らし、なんて書いてあるのか探ろうとして、青年は唐突にその答えにたどり着く。


「…………………………、日常」


それがこの絵画のタイトルらしかった。

危うげで儚くて守らなきゃいけないと思うのに、いつの間にか忘れてしまっているもの。この絵に込められたタイトルの意味に漠然とした虚無感を覚えていれば、カラカラカラ、と足下に何かが転がってきた。


「………………絵筆?」


何年も使われているはずなのに、手入れが行き届いた綺麗な絵筆。転がってきた方に目をやれば、既に作者はカタツムリと折り重なるようにして地面に倒れていた。


これは、俺がもらっていいものなのだろうか。


心の中で問いかけるが返事はもちろん返ってこない。






──わずかな時間の逡巡の後、青年は絵筆を拾い上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それでも世界は消費を続ける 雨斗廻 @katatumuri-

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ