その名は「サカイ」

 境ノ子さかいのこという言葉を聞き、ウィルは小さく声を上げた。


「そう、境ノ子だ。私が読んだ本にも書かれていた。だが」


 彼は、サカイに驚きの眼差しを向ける。


「先ほども言ったが、二つの『人』の間に生まれた子は育つことなく死ぬはずだ。酷い話だが、かつて、天ノ人あまのびとを無理矢理に捕らえ、子種を貰ったり、子を孕ませたりする。そんなことを試みた者がいたらしくてな。彼らが遺した書物があるんだ」

「あんた、他には何を知ってるんだ」


 サカイはウィルを見ずに、火の燃える様を眺めている。人に語るのが初めてだからこそ、どこから話せばいいのか考えあぐねていた。まずは、ウィルの知っていることを明らかにすべきだろう。


「境ノ子は、地ノ人ちのびとの母からは生まれない。子を宿してもその子が生まれる前に母は気が触れて死ぬという。おそらく、体内の子が引く天ノ血あまのちのせいで死ぬんだろう。だから、境ノ子は、天ノ人の母と地ノ人の父の間にだけ生まれる。しかし、そうして生まれた子も母乳で育つことなく最後には死ぬそうだ。『我らは、境ノ子から不死を得ることはできなかった』、そんな言葉で本は締められていたはずだ」


 ウィルは本の内容を思い出したのか、顔を歪めている。その様子を確認してから、サカイは口を開く。


「俺は五十六年生きているが、そんな書物があるとは知らなかった。試した奴がいるとは天ノ人から聞いたことはあるが、詳細な記録を残している奴がいたんだな」

「五十六年? 君は本当に境ノ子だというのか」

「嘘ついてどうするんだよ、こんなこと」


 サカイが薄く笑いながら返しても、ウィルは少しも笑わない。それに応えるように表情を引き締めると、サカイは再び語り始めた。


「そうだ、境ノ子は乳で育たないから死ぬ」

「なら、君は」

「でもな。どうしても、地ノ人との間に生まれた我が子を生かそうとした天ノ人がいたんだよ。いや、もしかすると、あの人は境ノ子を生かす方法を元から知っていたのかもしれねえ。天ノ人の中でも、偉い人だったらしいからな」

「少なくとも、私は境ノ子をあなた以外に知らない。あなたは、この長い歴史の中でも奇特な存在だろう」


 シキャナの声に、サカイは荒く頷く。


「そりゃ、普通は思いつかねえだろうよ。境ノ子は乳飲み子ではなく、なんだと」

「血飲み子、だって」

「俺はな、生まれた時から天ノ血を定期的に飲まねえと生きられないんだよ」

「なんだって?」


 驚いたウィルを見て、サカイは鼻で笑った。まるでウィルの反応が読めていたかのように。


「飲まずにいられるのはもって一月くらいだな。それくらい経つと天ノ血が飲みたくなって、体も調子が悪くなってくる。生まれながらに天ノ血の匂いだって感じとれる。生を受けたその瞬間から、俺は神から呪われてるのさ」


 サカイは手の中で、天ノ血が入っていた瓶をもてあそんだ。いい匂いが残っていると本能的に感じる。


「普通の食べ物も食えるし味もわかるが、それだけだ。俺にはなんの足しにもならない。酒だっていくら飲んでも酔わねえし、どんなに手の込んだ美味い料理を食っても、俺はな、天ノ血の方がずっと美味いと感じるんだよ」

「……そうか、君が果実を要らないと言ったのは」

「食べ物が少ない状況で、食わなくても平気な奴が食うわけにはいかないだろ?」


 ウィルは果実をじっくりと見つめる。その間、誰も何も言おうとしない。地面に置いた皮袋の上に果実を置くと、ウィルは沈黙に耐えれなかったのか、絞るように言葉を発した。


「その、君の両親はどうしているんだ?」

「お、やっと信じる気になったか、おっさん。って、まあ、俺の方が多分年上か」

「やはり、天ノ血を引いているから君は不老なのか」

「どうなんだろうな、正直俺にもわからないんだわ。天ノ血を引いているから不老なのか、天ノ血を飲んでいるから不老なのか。それとも両方のせいなのか。気づいたら見ての通り体の成長が止まっててな。俺自身もいまだにわからないことだらけだ」


 サカイは思い出したように付け加える。


「で、親の話だったな。六十まで生きれば地ノ人は長生きの方なんだろ? 俺が五十を過ぎてるからな。親父はもう死んでるよ。いい人だったぜ。変わり者の俺が、一人になっても生きていけるように面倒を見てくれた」

「その言い方は、まるで父親が一人で育てたかのようだな」

「親父よりも前に母さんは死んだからな」

「天ノ人なのに?」

「俺のせいだ」


 瓶をいじっていたサカイの手が止まった。


「大人になってからは一月に一度、血が飲めれば問題ないんだが、地ノ人の子供ってのはよく食うもんだろう。それと同じだ。俺も子供の頃は天ノ血が大量に必要だった。だから、母さんは惜しみなく、血を求める俺に自らの血を与え続けた」


 サカイの言葉が不意に途切れた。表情にも声にも大きな変化はないが、その目が何度か瞬きをする。


「ある日。俺が十歳を少しばかり過ぎた頃。母さんの体は崩れ落ちて砂になった。あれが、俺が初めて見た人の死だった」


 ウィルはそれを聞いて目を見開いた。「すまない」と小さな声で言ったのが、サカイの耳に入る。


「別に構わねぇ。もう何十年前のことだ。それから、親父は大変だったみたいだがな。血を分けてくれる天ノ人を探して、求めて。天ノ人の困り事を解決する代わりに血を貰うことも珍しくなかった」

「まるで、今のあなただな」


 シキャナが少し驚いたように、言葉を挟む。


「そうだな。今になって思えば俺がこの生き方をしようと考えたのは、そんなことをしていた親父を見ていたのもあるかもしれねぇ」

「この生き方というのは、先ほどの、か?」

「ああ、さっきも見てたと思うが、俺は傭兵として地ノ人から依頼を受けつつ、天ノ人からも依頼を受けてる。天ノ血と引き換えにな」

「生きるには、血を飲むしかないからか」

「少し違うな。俺がこう生きると決めたのは、もう二度と俺のせいで誰かが死ぬのを見たくなかったからだ。それに、これは俺にしかできない。さかいに生まれたからこそわかるのさ。天ノ人と地ノ人の間に、一体どれだけの隔たりがあるのか。それを埋めれる奴がいるとしたら、多分きっと、俺しかいねぇだろう」


 サカイの脳裏に、この生き方をすると決めた時のことがよぎる。


「だから、俺は『サカイ』なんだ。これ以外の名を名乗るつもりはねぇ」


 言い終えたサカイはすっと立ち上がる。話はそれで終わりだった。

 ウィルはサカイを見て、シキャナに視線を向けてから、落ちていた枝をおもむろに拾った。果実に枝を刺して火であぶり出す。落ち着こうとしているのがありありと分かる。


「その、良かったのか? 私に、こんなことを話して」

「あんたが誰かに話したところで、俺が血を飲むのを実際に見ない限り誰も信じねぇだろう。それに、あんたは境ノ子を無理やり産み出すような奴じゃない」

「それは、そうだが」


 また何かを考え始めたのか、ウィルは口を閉ざした。それきり、誰も口を開くことがなく、木の実が炙られる小さな音だけがその場を満たしていた。


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