願望
綴。
第1話 願望
ひっそりとした部屋の中に並べられた椅子。
私はひとりでポツンと座っている。
白い蝋燭の炎がゆらゆらと揺れ、お線香の煙がすっと一筋伸びていく。
白と紫色の花が波のように飾られている。
小さな祭壇に飾られた夫の写真は少しだけ若い頃のものを選んだ。
黒いリボンをかけられて、嬉しそうにこっちを向いてて微笑んでいる。
前に行った旅行の時の写真だ。
私は写真から目を逸らし、下を向く。
「写真撮ってたら足を滑らせちゃったんですって」
「警察も呼んで大変だったらしいわよ」
「奥様はご自分を責めて……」
「仲の良いご夫婦だったから…」
少し離れた席にいる参列者の話し声が聞こえてくる。
後ろから靴の音が聞こえ、私はふと顔をあげた。
「莉緒さん、大丈夫?」
「……はい、大丈夫です」
「私が見ておくから、少し休んでらっしゃいな」
義理の母親が来て、私の肩に手を添えて窶れた表情で声をかけてくれる。
「莉緒、今はお義母さんにお願いして休んだほうがいいわ」
私の母親も心配そうな表情で私を見つめて言う。
「でも……」
「気持ちはわかるけど、ね、」
「じゃぁ、少しだけお言葉に甘えて……」
用意された畳の部屋に布団が何組か用意されている。
私は喪服の上着を脱ぎ、布団に寄りかかるようにして体を休めた。
(ふぅ――)
深いため息をつき、少しだけ目を閉じてみる。
夫はとても優しい人だった。
昔は。
結婚した当時は、早く子供が欲しいねと二人で体を重ねていた。
2年が過ぎ、3年が過ぎ……。
なかなか私たちのところにはコウノトリはやって来てはくれなかった。
不妊治療も頑張ってみた。
できる事はなんでもやった。
それでも子供はできなかった。
義理の母親が家に遊びに来ると、遠回しに嫌味を言われるようになった。
「子供はもう諦めよう。このままでも俺は構わないよ」
優しい言葉をかけてくれていた。
それからも夫は私の体を求めてきていた。
それはやがて義務のように感じられるようになってきて、私が時々拒むようになっていった。
そんな私に対して、夫は少し乱暴な行為をするようになっていった。
(気持ち悪い……)
いつしかそんな感情が溢れて、私の心を黒く染めていった。
お箸の使い方を何度も教えたが、結局最後まで変な持ち方をしたまんまだった。
お味噌汁をズズッと啜る音や、たまにクチャクチャと聞こえる咀嚼の音が耳障りになってきていた。
「今日は接待だから夕飯はいらない」
夫の口からその言葉が出ると、複雑な気持ちで1日が過ぎていく。
夫のいない食卓は心地が良いが、酔っぱらって帰ってくると苦痛の時間がやってくる。
寝たふりをしていても乱暴にパジャマを脱がされて、夫の行為が終わるのをじっと我慢するしかなかった。
(仕事中に事故にでも巻き込まれてくれないかな……)
そんな考えが私の頭を通り過ぎることもあった。
そんな事を思い出しながら、私は少しだけ眠りについた。
───プワァーン。
霊柩車がクラクションを鳴らし、夫が使っていた御茶碗が地面に叩きつけられて割れる。
私は助手席に座り、参列者にゆっくりと頭をさげ火葬場へと向かった。
「それでは最期の御別れを……」
義理の両親や私の両親の啜り泣く声と共に、ガシャンと扉が閉められる。
(ありがとう……さようなら……)
頬を一筋の涙が静かに零れ落ちて、私は赤色のボタンを押した。
夫は白い煙になって、空へと旅立っていった。
────
「奥様、こちらの用紙にご記入をお願い致します」
「はい、」
「手続きが終わり次第振り込まれますので、またご連絡させていただきます」
生命保険の担当者が帰って行った。
私はソファーにゴロンと横になって眼を閉じる。
(未亡人か……)
キッチンへ行き、ご飯を炊いておかずとお味噌汁を作る。ひとり分って難しいけど、すぐに慣れるだろう。
新しいランチョンマットに出来上がった料理を並べて、手を合わせる。
「いただきます」
ズズッと啜る音や咀嚼の音も聞こえない。
テレビを見ながら食事を済ませ、食後にホットコーヒーを入れる。
柔らかなコーヒーの香りが私を包んでくれた。
新しく置かれた小さな棚に飾られた夫の写真や花が少しだけ邪魔だけど、しばらくはそのままにして置こう。
あの日はとても風が強く吹いていた。
「久しぶりに海でも見に行くか!」
夫があまりにもしつこいので仕方なく出かける事にした。
「せっかくなら景色がキレイな所がいいな」
「そうだな」
車を走らせて山道を登っていく。
「あんまり人がいなくて穴場なんだよ」
自慢げに言いながら、夫は笑っていた。
「ほら、すぐそこが海だよ」
「わぁー、すごい!」
人気もなく、車もたまにしか通らない場所だった。
空は青く晴れ渡り、時折海から風がゴ――ッと吹いてくると体が持っていかれそうになる。
崖から覗き込むと波しぶきがあがっていた。
「ね、海をバックに写真撮りたいな」
私は夫に言ってみる。
「撮ってやるよ」
「せっかくだから一緒に撮ろうよ」
「わかったよ」
夫と並んで携帯電話のカメラを自分たちに向ける。
「あぁ、いいねぇー」
「ね、もう一枚!」
その時、ゴ――ッと強い風が吹いてきた。
私はシャッターを押しながら風を受けて体が揺れ、そっと夫の体を背中で押した。
夫はそのまま、強い風と一緒に海へと落ちて行った。
ザブ――ン……と波が音を立て、ザワザワ――っと風が木々を揺らした。
とても強く風が吹いていた。
── 了 ──
願望 綴。 @HOO-MII
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