約束を破らせない人
佐倉真実
約束を破らせない人
大学時代の友人が、自殺した。
その知らせを受けた時、僕の頭に最初によぎったのは「ああ、結局彼は僕の本を返してくれなかった」ということだった。そんなことが最初に浮かぶなど、僕らは友人と呼べる関係ではなかったということかもしれない、ということが次いで頭に浮かんだ。
それを知らせてくれた人もやはり、友人と呼べる知り合いではなかった。なので、その人がどうやって僕の電話番号を知ったのか、というところも気にはなったが、電話口で泣きながら彼の死を告げるその人に、そんなことを聞けるほど僕は無粋ではなかった。
「しかしまあ、もう無理だろうな」
電話を切った僕は、もう一度、彼に貸したままになっている本に想いを馳せた。
葬儀に参列するかどうかよりも先に、彼の自宅へ行って本を返してもらうことはできないだろうか、と考えた。
彼の部屋にその本があったとして、事情を知らない彼の家族にとってそれは他の物と等しく彼の遺品である。彼の家族から、それをうまく譲り受ける方法が僕の手の中にあるとは思えない。かといって、本当のことを言うのも躊躇われた。――あなたの子は、盗人なのです。僕から借りたものを返しもせず、悪びれもせず、そこに横たわっているのです。
「……無理だな」
そう考え至り、自室の本棚の前に立つ。
棚から、フランス語や英語の辞書を手に取り、それらを重ねて、左腕で抱きかかえた。本棚に視線を戻すと、辞書の裏に隠していたフランス中世文学集が現れた。
左から順に、一巻、二巻、四巻――と並んでいる。二巻と四巻の間には、ちょうど本と同じくらいの幅の空白。彼に貸したのは、この空間に収まっていた、フランス中世文学集三巻だった。
「これ、僕たちみたいだな」
あの時、彼はそう言って、最初の短編を、じっと見つめるように読んでいた。
「でも、君と僕とは、全然似ていないよ」
僕はすぐに否定した。
本が日焼けしないよう障子を閉め切っている薄暗い僕の部屋は、彼の綺麗な横顔にはどうしようもなく不似合いだと感じた。
学生時代、というかここに住み始めてから今まで、僕が人を部屋に上げたのはあの時が最初で最後だった。彼は、僕が唯一、本を貸してもいいと思える人物だった。
本を丁寧に扱う人だった。約束を破らない人でもあった。だから僕は、彼のことを友人だなどと錯覚していたのだ。
「仕方がない、……買いに行くか」
もう戻ってこないものは仕方がない。
僕は、持っていた辞書を元の棚に戻し、部屋の鍵と財布だけを持って玄関へ向かう。自室の扉に鍵をかけ、ゆっくりと階段を下りた。
彼と最後に会ったのは、ちょうど二ヶ月前だったな、と思い出す。大学の卒業式の日。彼から話しかけられて、僕はすぐに貸していた本のことを思い出した。今日返してもらわなければ、これからなかなか会わなくなるだろう、とわかっていた。
会話の内容は他愛のないことだった。けれど僕は、彼が何を話していても「彼は僕の本を返してくれていない」ということが引っかかって仕方がなかった。
僕はそのことを切り出せなかった。そして終ぞ、彼がその話題に触れることはなかった。
「君がそんな人だとは思わなかったよ」
僕が最後に彼にかけたのは、たしかそんな言葉だった。彼になら、きっと意味がわかるはずだった。僕らの間には、あの本しかなかったのだから。
だけど彼は、僕の言葉の意味がわからない様子だった。わからないけど、自分が何か、気に入らないことをしてしまったのだろうと察して、ごめんね、と言った。
僕にはそれが、恐ろしく悲しかった。だから僕はそれ以上彼の言葉を聞かず、逃げるようにその場を後にした。
「……あ」
階段を下りると郵便受けに手紙が入っているのが目に入る。いつもなら出がけに見つけても無視するところだが、僕は自然と郵便受けに手を伸ばしていた。
真っ白な封筒。
差出人の名前は、ない。
「いや、まさか」
封筒を日に透かして中の便箋が破れないよう気を付けながら、僕はその封筒を指で開封した。
封筒の中には、真っ白な便箋が一枚、綺麗に折りたたまれて入っていた。
『君は正しかった。僕らは全然似ていないよ。本は、借りていくね。次会う時に、返すよ。』
丁寧に折られた便箋には、丁寧な文字でそう書かれていた。
視界が歪んでいく。
本棚に空いた不自然な隙間みたいに、心がぽっかりと空洞になってしまったように思えた。僕はその手紙をしっかりと手にして、薄暗い部屋へ戻る。
彼は本を丁寧に扱う人だった。約束を破らない人でもあった。だから僕も、彼との約束だけは、破ったことがなかった。
少しだけそっちで待っていてくれ。あの本を目印に、きっと僕は君を探すから。
約束を破らせない人 佐倉真実 @sakuramamic0
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