秋の惑い 7.5

 ソファーに腰かけて、テレサは静かに書物に目を落としている。


 その隣で同じように書物を読むふりをしながら、テレサを観察する。その端正な顔は、文字を追う目以外がまったく動かないくらいに集中している。


 読んでいるのは魔術に関する書物だ。最近のテレサは、貪欲に魔術の知識や技術を学んでいる。

 雰囲気も研ぎ澄まされてきて、どこか以前のテレサを感じさせる。

 ただの勘でしかないけど、励起術式も三重くらいに戻っていると思う。


 あまり気が抜けて不用心なのも心配で困るけれど、幼気な愛らしさが薄れてしまって少し悲しい。

 どんなテレサでも愛おしいけど、あまり駆け足で成長しないでほしい。

 私のほうが置いて行かれそうで不安になってしまう。


 テレサが変わったのは、あの魔獣退治の日からでしょう。

 あんなふうにテレサに怒られたのは初めてで、正直かなりへこんでしまった。打たれたときは、頭が真っ白になりかけていた。

 嫌われることはないと信じているけれど、関係がおかしくならないか冷や冷やしてしまった。


 あの時、テレサに言われたことは、完全には咀嚼できていない。

 たぶん、私とテレサでは論点がずれていた。


 テレサが言うことは理解できるし、気持ちは同じだ。

 私はテレサから離れるつもりはないし、テレサが死ぬときは一緒に死ぬつもりでもある。


 だけれど、私が何よりも恐れているのは、目の前でテレサを失うことだ。

 その危険性だけは、自分の命を使っても排除したい。

 私を失ったテレサは魔王になるのでしょうけど、それはもう仕方がない。


 だって、私はもう二度とテレサを失いたくない。

 テレサは忘れているのかもしれないけど、私は忘れない。

 テレサは一度、私のもとから去っているのだ。

 わがままで自分勝手だと思うけど、もし今度あの思いを味わうなら、それは私ではなく、テレサであるべきだ。


 他人が聞いたら、本当に愛しているならそんなことはしないと言われるかもしれない。それは、あるいは正しいのかもしれない。それでも私は、もう二度とあんな思いはしたくない。

 私はもう嫌だ。

 その時がきたら、愛しい人がその腕の中から失われる痛みを、今度はテレサが知ればいい。


 けしてそれを望んでいるわけではない。

 そんな日が来なければいいとは思う。


 あの時、村の人を庇ったように見えたのが良くなかったのだろうか。

 危険な状況だった。

 あのまま戦っても負けない可能性が高かったけど、一撃でもまともに攻撃を受ければ、体格差から致命傷を負うかもしれなかった。

 剣を失い、長期戦になるおそれも高かった。

 だから、村の人に魔獣の意識が向いて、動きが誘導できるあの機会を逃すわけにはいかなかった。

 逃げるのは論外だ。

 獣の足から逃げ切るのは至難だし、背後から攻撃を受けるのは危険すぎる。

 あれが、二人で生き残るための最善手だったと今でも思っている。


 でも、私にはバルジラフの時の前科もあるから、テレサだって信じきれるものではないでしょう。

 あの時、私は自分の命を危険に晒して子どもを助けてしまった。

 命に価値なんてものを付けるとしたら、王族としては明らかに判断を間違っている。王族が命をかけて子どもを助けた美談と言う価値と比べても、生き残って多くの人に尽くすのが本来の王族の価値観というものだから。

 それに、怪我をしないと言うテレサとの約束も反故にしている。


 本当のところは自分にだって分からない。

 私はけっこう考えて戦う方だと思うけど、動きそのものは直感に頼っている部分もある。

 染みついた習性で、誰かを庇ってしまう可能性もあるのかもしれない。

 だから、テレサの言うことも完全には否定できない。


 どちらでもいい。

 齟齬はあるのかもしれないけど、テレサが私を想ってしてくれることなら、何だっていい。


 それでも譲れない一線が、私にもあると言うだけのこと。

 それをテレサに納得してもらおうとは思わない。だからと言って、私の方を変えようとするテレサを否定するつもりもない。

 変えられてしまったなら、それはそれでかまわない。


 書物を読むふりをやめて、テレサの髪を手に取る。

 艶やかで癖のない髪が好きで、前髪や毛先を整える程度にしているけど、腰の下まで伸びてしまっているから、少し切ってもいいかもしれない。

 もちろん、他人にテレサの髪を触らせるつもりはないので、私がしている。


 気づかないふりをしているのか、集中して本当に気がついていないのか、反応のないテレサの髪を手慰みに編み込む。

 手元に髪留めがあるわけでもないから、手を離すとするりと解けてしまう。

 そんなことを何度か繰り返す。


 心地よい手触りを楽しむ。

 穏やかな心持ち。


 そんな心持ちが、脈絡なく乱暴な衝動に反転する。

 腰を強く抱き寄せて、テレサを膝の上に引き倒す。

 テレサの手から書物が床に転がり落ちた。


 少し前までなら、驚きと愛らしい羞恥が返ってきたでしょう。

 でも、上から覗き込んだその目は、強い力で見返してきた。

 反抗的なのではなく、挑発的な目だった。


「なぁに、その目」

「ソフィこそなんです。かまってほしいなら言ってください。いくらでも、どんなことでもしてあげますよ」


 蠱惑的な笑みを浮かべて、下から伸びてきたテレサの指が私の唇を撫でる。

 深い海のような紫紺の奥に、執着を隠しもしない火のような目で、真っすぐに私を見ている。

 乱暴に引き寄せたせいで、薄い肌着が乱れて肩口から胸元が覗いて、その白い肌に目が吸い寄せられる。


 くすりと笑い声をもらしたテレサの指が首筋を撫でながら私の後頭部に回され、ゆっくりと引き寄せてくる。

 テレサの顔が近づいてきて、触れ合う直前で逸れた唇が、耳元に寄せられた。


「したいこと、なんだってしていいんですよ」


 耳元で囁かれる、私の魔女の甘い声。


 その声が、私を狂わせる。

 くすくすとした笑い声が、耳の奥にいつまでも残って、離れなかった。

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