秋の惑い 7

 ソフィが知らせに走らせた男は、自警団のテオだったようで、魔獣を倒したことはすでに村に知られていた。


 村に顔だけ出して、わたしたちは家に戻った。

 返り血と泥に塗れ、左手が動かないソフィの細かい傷まで治療して、洗って着替えさせてから、自分も体を洗う。


 そう言えば、いつの間にか毎日身を清めることが習慣になっている。

 以前はどうでも良かったのに。

 どうせ薄汚れた体なのだから、役割として身奇麗にする必要がなければ、わざわざ手間をかけて体を洗う必要を感じなかった。

 貧相で穢れた体を、自分で見ることを無意識に避けていたのかもしれない。


 でも、いまは違う。

 だって、この体にいつソフィが触るか分からないのだ。

 少しでも奇麗な体に触れてほしいし、洗っていない体を見られるのも、触られるのも恥ずかしい。


 わたしは一人だとつい力を入れすぎて体を擦ってしまうから、意識して丁寧に洗うことにしている。

 少しでも肌に傷をつけると、ソフィがものすごく不機嫌になるから。


 馬鹿みたいだ。

 ソフィが自身を大切にしないことにあんなに腹を立てたのに、自分だって同じじゃないか。


 でも、わたしはちゃんと自覚している。

 どんなに自分の体が嫌いでも、ソフィが愛しているこの体は大切にしないといけない。

 ソフィだって、わたしが愛しているソフィを大切にしないといけないんだ。


 洗い場を後にしたわたしは、ソフィの部屋に向かう。

 部屋の扉を開けると、寝台に腰かけて気まずげにわたしを見るソフィと目が合った。


 泣いている時でさえ、取り乱すことのないソフィが落ち着かない様子なのは新鮮で、少し楽しい。

 もちろん、見た目ほど泰然としているわけではないことは、本人に聞いてもう知っているけど、表面に出すことはいまでも珍しい。

 今日は朝から、ずっと珍しいソフィを見ている気がする。


 わたしは部屋の灯りを暗くして、ソフィの隣に腰を下ろす。

 そのまま無言でぐいぐいとソフィを押して、わたしに背中を向けさせて寝転がせる。


「ねぇ、お話ししてくれるのではないの」


 抗議するように言うソフィの背中にぴたりと抱きついた。


「打ってしまって、ごめんなさい。感情的になってひどいことも言いました」


 わたしが謝ると、背中から戸惑いが伝わってきた。


「貴女は私に何をしたっていいのよ。謝ることなんてなに一つない」

「それは、罪滅ぼしですか」


 ソフィはわたしにずっと罪悪感を持っていた。

 生まれのこと、神殿でのこと、魔女のこと、わたしの気持ちを誘導しようとしたこと。

 わたしにはソフィが気にするようなこととは思えないけど、ソフィにとってはそうではないようだ。


 今はもう、そうではないと言っていたけれども、それが本当かわたしには、いえきっとソフィにだって分からない。

 人は、自分の心だって本当のところは分からないんだ。わたしほどではないにしても、みんな自分の心を持て余している。そんなことすら、いまさらのようにわたしは知った。


「違うわ。ただ、貴女の全てを受け入れたいの」

「わたしは、ソフィと一緒に生きて、死ぬときは一緒に死にたい。それ以外の望みなんてないんです」

「分かっているわ。私だってそうよ。そう言ったでしょ」

「分かっていません。でも、もういいんです」


 わたしはソフィを抱きしめる力を強める。


「…どうでもいいってこと?」

「違います。あなたを思い通りにしようとした、自分の馬鹿さに気が付いただけです」


 結局、そういうことなんだ。

 わたしの望み通りにソフィがしてくれないから、八つ当たりをしていただけ。

 なんて身勝手なんだろう。


「貴女が望んでくれるなら、その通りにするわ」

「いいんです。そんなの意味ありません。その代わり、宣戦布告です」

「え?」

「わたしにあなたを捧げさせない。わたしを残して死にたくないって、わたしがあなたに思わせます」


 黙ってしまったソフィが、振り向こうとしてくるけど、わたしがぴったり抱き着いているから首しか動かない。


「ねぇ、顔を見せて?」

「いやです。恥ずかしい」


 振り向こうと抵抗するソフィを、抱きしめて抑える。

 ソフィが本気で抵抗したら左腕が使えなくても、簡単に抜け出せるでしょうから、ちょっとした戯れみたいなものだ。


「…ソフィは、村の人と関わるのがいやなんですか」

「別にいやではないわよ」

「でも、仲良くはしていないんですよね」

「うぅん、少しきつい言い方だったかしら。単純にあまり興味がないだけ」


 言い方が柔らかかったからか、朝よりは冷たく感じなかった。でも、仲良くしようと思っていないのは本心なんだ。


「ソフィは、友だちがほしかったんじゃないんですか」

「? 貴女がいるでしょう」

「わたしは恋人です」


 友だちがなにか、恋人となにが違うのか、ソフィしか知らないわたしには区別がよく分からないけど、ソフィの「恋人」は誰にも譲れない。


「恋人だけど、お友だちでもあるでしょう? 何か誤解があるようだけど、私はお友だちがたくさんほしいわけではないのよ」

「そうなんですか」


 わたしとソフィの始まり。ソフィがわたしに友だちになってほしいと望んでくれたこと。

 五王国の王女と言う至尊の立場では望めなかった対等な友だちを、聖女であるわたしに望んでくれた。でも、王女と言う立場から解放されてからも、ソフィはことさらに親しい人を作ろうとはしていない。


「一人でいいの。お友だちも、恋人も貴女だけでいい」

「それなら…」


 わたしはソフィの柔らかな金の髪に顔を埋める。友だちは、この髪に触れるくらいは許されるのだろうか。それはちょっと、許せそうにない。

 ソフィがわたし以外に親しい人を作ろうとしていないことを嬉しい、と思ってしまう。自分はミナと仲良くなったりしたのに、ソフィには作ってほしくないなんて。


「興味がないなら。わたしのためにやっているなら。他の人と仲良くするふりなんてしなくていいです」


 本質と本心が乖離しているこの人を失わないためには、なるべく他の人には関わらせない方がいい。 

 どうすればこの人を変えることができるのかは分からない。いまはわたしとの時間を長く過ごすことで、惜しんでもらうくらいしか思いつかない。


「わたしはソフィが、他の人と親しくするのがいやですけど、縛りつけようとは思いません。でも、ソフィが望んでいないのなら、そんなことしなくていいです」

「貴女は他の人とも仲良くするのに?」

「ソフィがいやなら誰とも仲良くしません」


 最近のわたしは、ソフィとの関係が落ち着きすぎていて、甘えていたのかもしれない。

 わたしにとってソフィ以外は余分でしかない。ソフィとの関係に負となるようなものなら、何もいらない。

 それが健全ではないことを知ってはいるけれど、いまさらすぎる。わたしの人生に健全なものなんて何もなかったのだから。

 

「いいわよ、別に。でも、お願い。お泊りはやめて」

「はい、もうしません」


 わたしには理解しにくい感覚だけど、ソフィを不愉快にさせてまですることではない。

 わたしはもちろん、ソフィが他人に触れるのも触れられるのもいやだけど、誰かと同じ部屋に泊まることがいやだという感覚はない。それよりは、ソフィに好意を向けられる方が胸がざわざわする。


 するりと、ソフィがわたしの方に体を向けた。

 さきほどまでの戯れのような抵抗が嘘だったように、わたしが抑え込む隙なんてまったくない淀みのない動き。


 薄明りでも分かるソフィの奇麗な顔が、唇が触れそうなほど近い。

 心臓が痛いほど高鳴る。慣れたなんて嘘だ。左手の動かないソフィが何かしてくるとは思わないのに、心も体も期待に溢れている。


「もう一つ、いい?」

「なんですか」

「禁止、といて? 二度としないで」


 声が、甘くて、背筋が震える。

 わたしが拒否できないときに、そういう約束を押し付けてくるところが本当に狡いと思う。こういうところ、ソフィは意外に抜け目がないというか、計算高い。


「…それは狡くないですか」

「駄目?」

「駄目じゃないですけど…それならソフィ、自制してくれるんですか」

「え、なんで」


 心底、不思議そうに聞き返された。


「なんでって…ほんとに辛いんですけど」

「でも、すごく悦んでくれるじゃない。もっとって…」

「わけがわからなくなっているときの言葉を真に受けないでくださいっ」


 恥ずかしくて顔が熱くなるのが分かる。

 だから、まともな状態のときに駄目だって言っているのに。なんで自分の都合のいいほうの言葉だけを受け取るのか。


「そういうときの方が本音が出るものじゃない?」


 本音をすべて望んでいるわけではないでしょう。いえ、この人のことだから分かっていて言っている気がする。


「ソフィ、既成事実を積み上げればわたしが黙ると思っていません?」

「…」

「ソ…」


 わたしが抗議しようとすると、唇ごと言葉を封じられた。

 息もできないほどに、たっぷりと口の中を蹂躙されて黙らせられる。


「うぁ…」


 荒い息で、唇を離したソフィの目を見つめる。

 その瞳が、深い色欲を湛えている。ああ、こうしてみるとミナに向けた目とは全然違う。やはり、この目はわたしだけのもの。


「ねぇ、いいわよね」


 ソフィがわたしの唇を軽く食みながら言う。


 ソフィはたぶん、わたしとの関係の形にあまりこだわりがない。わたしの気持ちさえ向いていればそれでいい。そして、わたしの気持ちが変わらないことも信じてくれている。

 だから、その場その場の感情で動いているのだと思う。

 あるがままに受け入れているソフィと、望みを押しつけているわたしとは、真逆なのかもしれない。

 ソフィが望んでいない望みを叶えようと思うなら、なんだって支払わないといけない。


「…いいですよ。ソフィの好きにして」


 わたしにあげられるものなんて少ないけれど、魂だってなんだって。


 それがあなたの未練になるのなら。

 わたしの何を差し出したってかまわない。

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