秋の惑い 6
力の入らない足を、両の拳で何度か叩いて、無理矢理立ち上がる。
みっともないくらいに足が震えている。
駆け寄りたかったけど、足は全然いうことを聞いてくれず、引きずるような足取りでのろのろとソフィに近づく。
それよりもよほど早く、軽い足取りでソフィが距離を詰めてきた。
ソフィが歩いた後に、点々と血の跡がついていく。
思ったより出血していないのは、内魔力制御で止血しているからでしょう。
「テレサ、怪我はない?」
痛みを堪えながら、それでも穏やかな声をかけてくれるソフィを見つめて。
思い切り、その頬を張った。
初めて、人を打ってしまった。
それが、大好きな人だなんて。でも、わたしが怒りを向ける相手なんてソフィしかしないのだから、当然のことなのかもしれない。
赤くなった頬に残った右手の掌を当てて、ソフィが呆然とした顔をする。
そのソフィに何か言おうとして、でも喉の奥がひりつくようで、何の言葉も出てこなくて。
何度か口を開いては閉じてを繰り返してから、もう一度ソフィの頬を叩いた。
きっと、ソフィは避けることができた。
でもソフィは避けなかった。
わたしが例え刃物を持っていたとしても、避けなかった。
胸の中を感情の嵐が吹き荒れて、言葉がまとまらなかった。
代わりのようにまた手を振り上げる。
ソフィはただ静かにわたしを見ている。
振り上げた手なんて見もせずに、わたしの目を見つめている。
わたしは振り上げた手を下ろして、ソフィの失われた腕の傷口の近くを強く掴んだ。
さすがにソフィも、痛みで顔を歪める。
「テレサ、痛い…」
「…当たり前でしょう」
掠れた声を出した瞬間、言葉と一緒に感情も決壊した。
ぼろぼろと涙が溢れ落ちる。
「何なんですか、あなたは。腕が生えてくるものだとでも思っているんですか」
溢れる感情が強すぎて、言葉を荒げることすらできない。
声なんて、しぼり出すのが精一杯だった。
「左腕だけでも何回目だと思っているんですか」
「…」
「覚えてもいないんですか。わたしが治した数だけでも九回です。死んだっておかしくないんですよ」
蓮の聖盾を使うソフィの悪癖だ。
聖盾をまるで使いこなせていないくせに、とっさの防御を頼ってしまっているから、想定外の攻撃を受けると左腕を欠損する。
わたしがいれば治せてしまうと言うのもあるかもしれない。
それにしたってまともではない。
欠損する痛みは尋常ではないはず。人はその痛みや衝撃だけで死んでもおかしくないのだ。
いや、そんなことよりも。
「…他人なんてどうでもいいって言っていたくせに」
わたしを庇って怪我をするのだって納得できないのに。
わたし以外を庇って怪我するなんて。
「ごめんね。つい」
その言葉が、あまりにも軽く感じられて。
頭に血が上ったわたしは、反射的にまた手が出ていた。ソフィの唇が切れて、わずかに血が伝う。
「つい? ついって何ですか」
ソフィは答えず、わたしがつかんでいたところをおさえて蹲った。
痛みと失血で朦朧としているところを、わたしに頭を叩かれて意識を失いかけているのかもしれない。
叩く前にやるべきことがあると、ようやくに気がつく。
わたしは魔獣の死骸の周囲を見回し、目的のものを見つけて駆け寄った。
食いちぎられたソフィの腕を拾い上げる。土に塗れた腕を胸元に抱きしめて、ソフィのところに戻った。
ソフィの傷口の周りに浄化の結界を展開して、そのなかに拾ってきた腕を入れる。
浄化術式が傷口と千切れた腕の汚れを落とすの確認してから、治癒術式を発動する。
ゆっくりと千切れた腕が再生していく。
その腕に止まらないわたしの涙が、ぽたぽたと落ちては浄化されていく。
繋がっていく腕をじっと見つめるわたしの頭を、ソフィが優しく撫でた。
その手を乱暴に振り払う。
ソフィの顔は見ない。傷ついた顔を見たら、きっと怒りが消えてしまうから。
「テレサ、話しをさせて」
「聞きたくありません。いま、何を言われても言い訳にしか思えません」
混乱する思考と感情に、なんとか整理をつけようとする。
わたしはこの人が自分を顧みないところは、王女の責任感と王女の責任を果たせない罪悪感からくるものだと思っていた。
だから今は同じように、わたしに対する罪悪感から、わたしのことなら自分を顧みないのだと思っていた。
違った。
この人のこれは、ただの本質だ。
自分の命で救えるものがあるなら、救ってしまう。
先天的なものか、染みついた習性なのかは、わたしにはわからない。
何かと秤にかければ、わたしを選んでくれる。
でも、その天秤にわたしが乗っていなければ、本質的には誰も見捨てられない。
その天秤に乗っているのはわたしであって、わたしと自分が一緒にいることではないのだ。
きっと、その本質は変えることはできない。
できない人だから、わたしのことだって見捨てられなかった。
それが全てだなんて思わないけど、わたしが誰からも見限られた存在だったから見捨てられなかったと言う一面だってあったはずだ。
ソフィがわたしに嘘をついたわけじゃない。
わたしに無関心だった世界の全てをソフィは嫌っている。わたし以外のすべてを切り捨てて、わたしだけを大事にしてくれようとしている。
それはきっと本心だ。
でも、ソフィの魂の本質がそうではない。
その優しさが、共感性が、自己犠牲が、極限状態では顔を覗かせてしまう。
本心と本質が乖離している。
そうさせてしまったのは、わたしだ。
でもわたしは、そのことを悪いなんて思わない。
わたしを選んだ時から、ソフィはそうなるしかなかった。ソフィがわたしを選んで、わたしがソフィを選んだことを後悔なんてしたくない。
だったら、ソフィの本質だって受け入れるしかない。
この人がわたしと一緒に生きて、死ぬことを他の何よりも、わたしの命よりも大事だって思えるように、その想いが本質よりも強くなるように、わたしがするしかない。
考えながら治療を終えて、ようやく涙の止まった顔を鼻を啜って上げると、ぎょっとした。
ソフィが涙を浮かべて嗚咽を噛み殺していた。
「…何ですか、その顔」
「ぅぐ…もう、話してもいい?」
動くほうの手で握った裾が、くしゃくしゃになっていた。その、わたしと変わらない小さな手が小刻みに震えている。
ついさっき、大型魔獣を殴り殺したとは思えない華奢な拳。
わたしはその手を上から握った。
「打ったりしてごめんなさい。でも、話しは帰ってからにしましょう」
手を握ったまま、わたしは立ち上がる。
だけど、ソフィは立ち上がらず、不安そうにわたしを見上げてくる。
「私、そんなに怒らせることした?」
言葉では、この人は変わらない。それでも、言葉は費やそう。
だけど、わたしも考えをまとめる時間がほしかった。
このぐちゃぐちゃな感情のまま話したら、また傷つける言葉を吐いてしまいそうだった。
感情的な言葉をぶつけて、ソフィとの関係が壊れるの怖かった。そんなことになったら、わたしは泣いて縋ってソフィに許してもらうしか選択肢がなくなってしまう。
「もう怒ってはいません」
わたしが叩いてしまった、赤い頬に口付ける。それから切れた唇に口付けて、血を舐め取った。
いまは治さない。
痕にはなってほしくないから、家に帰ったら治すけど、わたしが与えた傷ならこの人に残ってもいいとも思う。
わたしが与えた傷が、痛みが、少しでもこの人の
わたしは握ったままの手を引いて、ソフィを立たせた。
「帰って、落ち着いてから話しましょう。わたしがあなたに求めることを全部、話しますから」
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