秋の惑い 5
ソフィに腕を引かれてその背中に回りながら、振り向く。
ソフィが抜いたのは、光輝の剣ではなく鋼の片手剣。やや細身の刀身の切っ先の向かう先、森の中から漆黒の毛皮をもつ巨大な狼のような魔獣がのっそりと姿を現していた。
体高だけでわたしやソフィの背を超えている。
実物を見るのは初めてだけど、これがスペクルフ。
わたしとソフィの声を聞きつけて戻ってきたのだろうか。
手を離したソフィから、後ろに退がりながら距離をとる。
体にしみ込んだ動きで、魔獣との間にソフィを置くように位置どる。
ソフィの考えに納得はできないけど、戦いとなれば結局のところソフィをもっとも危険な場所に立たせている。
最初に傷を負うのも、一番多く傷つくのも、いつだってソフィだ。
ずっとそれを強いてきたのに、いまさら自分のことを顧みないと責めるわたしが悪いのだろうか。
「ソフィ、核は頭部です」
魔王の呪体の影響なのか、魔女になってから魔獣の核が見えるようになった。
魔力を打ち消す毛皮の影響で、スペクルフの体内の魔力は見えないけど、それでも核の場所は分かる。
ソフィは答えずに、徐々にその体が低く沈んでいく。
聖盾の効果が期待できないからか、普段の防御的な構えが崩れて攻撃的になっている。
ソフィの内魔力が練り上げられていくのが分かる。もともとわたしは魔力を視覚的に捉えることが可能だけど、さらにソフィの魔力は今やわたしの魔力でもあるので、体感的にも魔力の動きが理解できる。
ソフィの内魔力の動きは繊細で美しい。普通の内魔力による強化とは、体内で魔力の密度を高めるような制御が行われる。ソフィも密度を高める基本は変わらないけど、全体を均一に高めるのではなく、まるで神経の一本一本まで意識して魔力を織り上げているかのよう。
この内魔力制御技術の極致に、『影身』があるのでしょう。
ソフィを警戒してか、ゆっくりと近づいてくる魔獣。
ソフィの身が一瞬、深く沈むのと、魔獣がとびかかってくるのは同時だったか。
弾かれたように前に出たソフィは、魔獣がのしかかってくるのを躱しながら、切りつける。
身をよじった魔獣の胴を浅く薙ぐが、毛皮を散らせただけで深手を与えられない。
やはり、鋼のしかも細身の片手剣で二種魔獣に刃を徹すのは、ソフィでも難しいようだ。
以前にソフィが二種魔獣の首を一撃で刎ねた話しをされたことがあるけど、あれは群体型で、個体それぞれは二種としては弱かったからもあるのでしょう。
ソフィと魔獣の距離が離れたのを見計らって、結界を刃のようにとばす。
感知できなかったのか、それとも避けるつもりもなかったのか、魔獣に直撃するけど、当たった瞬間に霧散してしまう。
やはり直接、魔力をぶつけても効果はないようだ。
わたしに意識を向けさせないようにか、間髪入れずにソフィが切りかかる。
高速で駆け回りながら、ソフィと魔獣は何度も交錯する。
目まぐるしく位置が変わるため、わたしでは目で追うのがやっとだ。後退って木立の陰に身を隠す。
結界が通用しなければ、わたしが自分の身を守る手段は少ない。
こんな時になって、もっと魔術を学んでおけばよかったと悔やむ。自分の身を守るための努力をしてこなかったのに、ソフィが命を顧みずにわたしを守ってくれることを責めるなんて。
ソフィはわたしと一緒に暮らし始めてからも、鍛錬を欠かしたことはなかったのに。
想像力の欠けた自分の頭の悪さが嫌になる。
それでも、わたしがソフィに願う望みに変わりはない。
交錯が繰り返されるたびに魔獣の傷は増えていき、反対にソフィは傷一つ負うことはない。
ソフィは本職の騎士に比べれば体力で劣るみたいだけど、一刻程度は戦い続けることができる。
数多の手数を負って、魔獣の動きが徐々に鈍くなっていく。
このまま問題なく削り殺せそうだった。
わたしは何の役にも立てなかったけど、それはそれで構わない。
ソフィが怪我をしたり、危地に立って欲しいわけではない。
魔獣とのすれ違いざまに、ソフィの剣がその足を撫で切る。魔獣の態勢が崩れた瞬間、どこか余裕のあったソフィの内魔力が体内で凝縮した。
肩に担ぐように構えられた剣が、落雷のように振り下ろされる。
魔獣の胴を両断するかに見えた剣は、だけど半ば食い込んだままへし折れた。
ソフィの剣は王女の頃に使っていたような業物ではない。質はいいけど数打ちのひと振りだ。
ソフィの力量に剣が追い付かなかったのか、扱いに耐えかねたのか。
胴に折れた剣を食い込ませたまま、怒りの咆哮をあげて魔獣が前肢を振り回す。
咄嗟に後ろに転がって躱すソフィ。だけど、完全に態勢が崩れている。
わたしは魔獣の足元の地面を抉るように結界をとばして足止めする。
大した意味はないけど、ソフィが態勢を立て直す一瞬さえ稼げればいい。
同時に、横合いから飛来した矢が魔獣の首に突き刺さった。
反射的に矢の飛んできた方を見ると、大きな木の太い枝の上に、矢をつがえる若い男がいた。
剣の折れたソフィよりも、弓の方が危険だと思ったのか、魔獣は男の乗る大木の方に駆け出す。
男は二の矢を放つが、魔獣の毛皮に容易く弾かれる。
直後に枝を飛び移ろうとした男より、魔獣が大木に体当たりする方が早かった。
木の揺れに足を取られて、飛び移るのに失敗した男は、飛び移ろうとした木の幹を滑り落ちる。
落下する男に向かって飛びかかる魔獣。
魔獣が男に気を取られている間に、いったん逃げるのが良いだろうか。
取れる手段のないわたしが、そんなことを考えている間に。
ソフィが魔獣と男の間に割り込んでいた。
血の気が引いて、頭が真っ白になった。
指先すら動かせなかった。
展開した聖盾を素通りして、魔獣の牙がソフィの突き出した左腕を噛みちぎる。
まったく同時に、ソフィが逆手に持った光輝の剣の短い実剣の刃を魔獣の眼窩に突き刺していた。
直後に、魔獣の体内で発動した光の刃が頭部を貫通する。
ほんのわずかに、核をはずしている。
まともな生物なら即死の傷を負い、それでも魔獣は激しく首を振る。ソフィが柄から手を離して、勢いよく抜けた剣が放物線を描いて飛んでいく。
その瞬間。
ソフィが魔獣の頭を蹴り上げた。
わたしよりも少し背の低い、ほっそりとしたソフィの蹴りで、熊よりも大きな魔獣の巨体が浮き上がる非現実的な光景。
もんどりうった魔獣を踏みつけ、その頭部にソフィの拳が振り下ろされる。
一撃目で、骨がひしゃげる固い音がした。
二撃目で、骨が砕ける鈍い音がした。
三撃目で、頭部が潰れる濡れた音がした。
呪体の核を砕かれて、魔獣の動きが完全に止まった。
その間、わたしは何もできなかった。
わたしは戦いが怖いなんて思ったことはない。
自分を含めて、誰か死んでもどうでも良かったから。
今だって、自分が死ぬことは怖くはない。ただ、ソフィとの時間が失われることは残念だと思うけど。
でも、ソフィを失うことは恐怖だった。
ソフィのいない未来も恐ろしかったし、ソフィが死ぬと言うこと自体があまりにも怖かった。
いつの間にか、わたしはその場にへたり込んでいた。
下半身が生暖かく濡れているのに、ようやく気がつく。
噛みちぎられた左腕の付け根を縛ったソフィが、引きつった顔でへたり込んでいる男に何か話しかけていた。
怯えたように頷いた男が、駆け去っていく。
おそらく村に知らせに走ったのだろう。
ソフィがわたしの方を向く。
それから、どこか安堵したような、優しい微笑みを浮かべた。
泥と返り血に塗れ、失った腕からぽたぽたと血を流しながら。
その瞬間、わたしの中で何かの糸がきれた。
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