22 さよならの日

 月華は長く冷たい洞窟の中にいるような気持ちで立っていた。

 男は合宿と言っていた。ご学友がどうとも告げていた。けれど月華はそれが自分にどんな関係があるのか、わからなくなっていた。

 そんな折、声が聞こえて月華は顔を上げる。

「由宇、こっちこっち。遅いってお前は!」

 茶色の髪とヘーゼルの瞳を持つ男子が、月華の方に向かって手招きする。

 彼は肩をすくめて月華に文句をつけた。

「集合時間はとっくに過ぎてるぞ。もう鐘からずいぶん経つ。何やってたんだ?」

 月華は彼の言葉を理解したというより、借りてきた猫のように大人しく彼のところに向かった。

 月華は勧められるままに彼の横にとりあえず座り、火に掛けられた鉄板の上の肉と野菜をじっと見る。

「由宇?」

 彼が不思議そうな顔で月華に何か言おうとしたところで、横から大量の肉がとびこんだ。

 彼の隣に癖毛が跳ねた女の子が腰を下ろして、怒涛のように話し始める。

「先輩ぃー、なーに辛気臭い顔してんですか。今日はみんなで楽しく肉祭りな日ですよ。肉持ってきてあげました! でも早く食べないと肉なくなっちゃいますよ。若彦先輩とらぶになっちゃいますよ」

 女の子は問答無用で肉をひっくり返し始める。男の方がそれに文句をつけた。

「おい、いっぺんに焼くなよ。それに野菜も食え」

「何言ってるんですか、肉祭りですよ? 野菜なんて、ぺっ!て感じです。私は牛肉、ソーセージ、焼き鳥以外は今日は食べません」

 月華は二人を見て言葉に詰まる。

 ……誰だっただろうか? 二人ともよく知っているはずなのに、名前が出てこない。

 月華は肉の匂いに吐き気がしたが、二人が楽しそうに肉を焼いているので立とうとは思わなかった。

 女の子は月華の隣で、月華に向かって早口に話す。

「聞いてくださいよ、先輩。若彦先輩は鬼軍曹なのです。神社で修行してるんですけどきっついんですよ。春奈ちゃんの半分も労わってくれればいいのに」

「自業自得だろ。ほっといたら肉しか食わないくせに」

「やだな、実は豚肉も食べますよ?」

 けらけらと笑い合う二人を、月華はどこか遠い世界から眺めているような感覚で見ていた。

 何気なくて、意味もなくて、でも聞いているだけでこっちが救われるような気楽な会話は、月華が大好きなものだったはずだ。

 ふいに会話が途切れて、二人は月華を見た。

 どうしたのかと問われたわけじゃない。でも目で月華に言葉を求めてくる。

 月華はぽつりと言葉を口にしていた。

「……私、人間ではないんです」

 月華は頭が働く前に口が動いていた。二人の沈黙に促されるようにして言葉を続けた。

「王華国の獣人です。新学期には、もうここにはいません」

 月華は、小さい頃はこの生まれ故に差別もされたし、虐めもされた。友達がなかなかできなかった。

 けれど女の子の方は別段暗くなることもなく言った。

「獣人って、初めて会いました。見た感じわかりませんね?」

 女の子はきょとんとして続けた。

「王華国は、昔は船でじゃんじゃん行き来があった国ですよね。じゃ、またすぐ会えますって!」

 薪の上に燃える炎で、彼女の表情は月華には眩しいくらい希望に満ちていた。

 それからも、彼女は休む間もないくらいに話し続けた。肉を食べながら、男の子とふざけながら、今までと変わりない表情で月華を見てくれた。

 月華はそれにありがたいと思いながら、でも彼女に言葉を返すことはできなくて、目を伏せて黙っていた。

 月華はぱちぱちと燃える薪木の音にふと我に返って顔を上げた。

 いつのまにか女の子はいなくなっていた。見れば、鉄板の上の肉は綺麗に平らげられていた。

 若彦という男子生徒はそのまま座っていて、口を開いた。

「そうだったか。だからお前、人の輪の中でも居心地悪そうにしてたんだな」

 若彦は気遣わしげな声で言う。その口調に、月華は彼がどんな人であったかを思い出した。

「王華一族のことは知ってるよ。古くは生き神だった獣人。お前、大変な一族だったんだ」

 彼はずっと引っかかっていたことがようやく解決したように、言葉を切った。

 彼は女の子とは違う意味で、月華を安心させるように口を開く。

「すぐ会えない存在になるのも知ってる。……でも、ずっと友達だ。それは覚えておいてくれよ」

 そのとき、月華は彼と初めて会ったときを思い出した。

 学院の高等部に上がったとき、その式の隣の席だった。月華に一番に声をかけてくれたのも、彼だった。

 それ以来、彼とは毎日のように他愛ない話をしていた。

 浅く人と付き合うのを信念としていた月華の、唯一の……友だちといえる存在だった。

 月華は唇をかんで顔を上げる。

(本当は嬉しかった。友だち甲斐のない奴と、いつも私をにらんでくれたこと)

 月華は揺らぐ正気をつかみながら、彼に言葉を返す。

「ありがとう。そう言ってくれたことは忘れません」

 ずっとここにこうして座って居たいという思いを断ち切って、月華は立ち上がる。

 月華は独り言のようにつぶやく。

「……いつか、また会えたら」

 もしかしたら近い未来で月華のことなど忘れてしまうかもしれない。ただいつもにこにこしてただけの、影の薄い人間なんて。

 でも、今この一瞬だけでも月華はここで、彼と向き合っている。きっとそれは素晴らしいことのはずだった。

 ここで別れたら二度と会えない気がする。

 けれど夜も更けて長い。永遠にここにいることはできない。

 月華は軽く会釈して、その場を後にした。




 月華は空き地を抜けて、森の奥に向かった。

 あてがあったわけではなく、月華は何となく足が向くまま歩いていただけだった。

 晴れていた空が徐々に雲に覆われて、まもなく雨が降り出した。それが大雨に変わるまでそう時間はかからなかった。

 その間に月華の体温は急激に上がっていった。

 水は冷たいはずなのに、皮膚の上で蒸発しているような感覚だった。

 立っていられなくなってその場で倒れた。体は熱かったが、頬にあたる土の感触だけは冷たかった。

 月華は力をこめて転がり、上を向く。ほてった体に雨が心地よかった。体中を優しく撫でてくれているような気がした。

 ぼやける視界の中で空を仰いで思う。

(ああ、今日は月が見えない)

 雨の日なのだから当たり前だと目を閉じて、規則的な雨音に耳を傾ける。その音は徐々に小さくなっていって、それと同時に体も重く沈んでいく気がした。

 ざぁっと風が流れて、ふいに雨が止まった。

 誰かの声が、雨から月華を庇うようにかけられる。

「こんなところで眠っては駄目ですよ」

 月華がうっすらと目を開けると、目の前に傘を差し掛けた少女の姿があった。小柄で青白い顔色で、月華よりも年下の子だった。

 でもふと、月華の中でお母さんという言葉がかすめた。

 少女は別の誰かに、そっと言葉をかける。

「怒らないで、弥生。放っておけないの」

 雨の中を近づく足音がもう一つあった。

 もう一つの足音は止まって、憮然とした少年の声が言う。

「真秀はどうせそう言うと思ってた」

 少女が屈んで、月華はそっと背負われた。

 母のことなどずっと忘れていたのに、月華はふいに強く思った。

(いい。連れて行ってほしい。お母さんのいる所へ)

 少女の背中に顔を寄せて、月華は目を閉じた。

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