20 真実の瑕
王華の一族には戒めがある。心を開いたとき、真っ先にそれに気づいてやって来るのは悪魔だと。
だから親たちは家を建て窓を閉じ、子どもを守ろうとする。願わくばいつか入り込む最初の悪魔が、子どもを一飲みで食べてしまわないように。
王華の戒めはいささか排他的で偽悪的だが、そうでなければ古い時代の王は人の上に君臨できなかったのだろう。
たぶん月華は天駆に固く守られていたせいで、心を開くときをいつも迷っていた。
その日、やって来たのは悪魔ではなかったが、決して月華の味方ではなかった。
その月は、いつもより早く生理がやって来た。月華はなかなか引いてくれないそれを持て余しながら、深夜の喫茶店に入った。
月華はいつものように誰かを噛みたいという小さな誘惑に駆られて、大きな災いを呼んだ。
その声は月華の心を、ふいに叩いた。
『僕には家族がいない』
月華の席から一つ向こうの席で、弥生がランデン語で言ったのが聞こえた。
弥生は自分という守護獣人を、喜ぶでも悲しむでもなく表現する。
『ずっと真秀だけなんだ。たぶん一番近い感情は恋なんだろうけど、僕は真秀を噛みたいわけじゃないんだ』
『大丈夫。僕らも同じ感情を持つことがある』
答えたのはフィリップの声だった。月華は二人の涼しげな態度しか知らないが、二人の言葉の調子は真剣だった。
フィリップは親しみを持って弥生に告げる。
『君と真秀の性が一対じゃないからだよ。けど、好きなんだね』
『……うん』
フィリップが言うと、弥生が子どものようにはにかんでうなずく気配がした。
フィリップは笑って、祝福するように弥生に言った。
『君と話せてよかった。いつか君たちが家族になる日を願うよ』
二人のうち片方が席を立つ音が聞こえた。
月華がちらと振り返ると、フィリップが入口まで歩いて行って、勘定を払って出ていったようだった。
対して弥生は入口と逆方向、月華のテーブルの横まで来た。
月華は自然と見下ろされるような格好になる。先ほどの会話は聞いてはいけないことだっただろうかと思ったが、弥生はそれには触れなかった。
月華が何か言おうとしたとき、弥生に皮肉まじりの声で遮られた。
「先輩、誰かを噛みたいですか?」
思わず黙ってしまった月華に、弥生は悪魔のような笑みを浮かべて言う。
「それはそれは、震えるほどの悦だそうですよ。噛むというのは」
月華が訝しげに見上げると、彼は腕を組んで外を見た。
弥生は目を細めて夜の幻都をみつめながら月華を誘う。
「そろそろ時期なんですよ。獣人は誰かを噛まないと、心が満足しないんです」
外に七色の光が浮かんでいた。人の欲を誘う色は点々と散らばり、にじんでいく。
弥生は息を吸って、月華に選択を迫った。
「僕で試してみます?」
弥生の瞳が流動したように見えて、月華は無言で席を立っていた。
そう、あのときも暗示をかけられた。月華は今になって思い出す。
あの日、月華ははにかみながら天駆に文句をつけた。
「わざわざ祝ってくれなくていいです。当たり前のことなんでしょう?」
「いいえ、当たり前で大切な事ですから」
そんな月華に、嬉しそうに天駆が言葉を返していた。
テーブルの上にはいつになく豪勢な食事があって、眼下に幻都の夜景が広がっていた。
月華は上機嫌で食事を口に運びながら、目の前の天駆に声をかける。
「ホテルで食事というのは憧れていましたけど、天駆の料理の方が美味しいと思います」
月華は途中から照れが入って視線をそらしてしまった。でも天駆は笑って月華に返した。
「昔はランデンの伯爵の下で腕を奮いましたが、月華様にも褒めていただけるとは光栄ですね」
知らなかったと無邪気に笑った月華は、今思えば警戒を知らなさ過ぎた。
天駆は食事を取りながら月華に言った。
「今日は一泊していきましょう、月華様。もう体調もよろしいでしょうし」
天駆が普段は着ないような西方風のシャツを着ていたのも、この時までは見慣れたものだった。
それでどうしてかわからないが、天駆は月華に、普段なら決して勧めないことを言った。
「こういうめでたい日くらいはいいでしょう」
月華は、天駆にしては珍しいなと思いながら、差し出されたワインに口をつけた。
二人で食事が終わったら席を立って、エレベーターに乗りこむ。天井を見上げる天駆は、月華に比べるととても背が高い。
月華は学院の男子にしては小柄で、天駆はその頭二つ分くらい大きい。体格もしっかりしているし、人によっては目が合った瞬間に逃げ出してしまうくらい力強い。
……でも、今よりもっと身長差がある?
天駆の後ろ姿を眺めている内、月華の視界が徐々にぼやけ始めた。
食事をとってすぐ眠たくなるなんて子どもみたいだと目をこするが、眠気は収まらない。
天駆は月華に背を向けたまま言う。
「眠っていいですよ。その方がいい」
その声が暗く沈んで聞こえたのは、気のせいではなかった。
そう、確かこれは中等部の六月。
エレベーターが止まる。天駆が薄れゆく意識の中で振り返る。
天駆は贖いを求めるようなまなざしで、月華を見ていた。
「ご無礼をお許しください、月華様。これも私の役目ですから」
それは確か初めて生理があった日の、三日後のことだった。
体が猛烈に重く、節々が痛む。
目を開けてから、月華は自分が今まで眠っていた事に気づいた。
月華は弥生を噛みそうになって……けれど、彼と絶対の関係は築けなかった。猫が全身を逆立てるようにして、なぜか体は弥生を拒絶した。
眠る前の鬱屈したような欲求は、なおひどくなっている。
ただ今となってはどうして後輩とそのような関係に踏み込もうとしたのかわからない。
痛む頭を押さえて、あまり寝心地のよくないベッドから体を起こす。
月華は思わず声をもらす。
「え……?」
その体勢で絶句した時、扉が開いて弥生が現れた。弥生は大振りの羽織を肩にひっかけただけの格好で、水でも浴びてきたのか髪が濡れていた。
月華は弥生にではなく、自分の体を抱きしめてつぶやく。
「……天駆に噛まれたい。今すぐ」
震えるほど、突き上げられるようにそう願ってしまう。
自分のこの欲求、縛られたような思いは、尋常じゃない。
弥生は首の手ぬぐいを近くの椅子に投げてから振り返る。
弥生はからかうようにして月華に問う。
「思い出しました?」
月華が答えられずにいると、弥生はくすっと笑って首を傾げる。
「なんだ、完全にだまされてるんですね。先輩は元々女性。天駆に噛まれて、その支配下にいるんです。覚えていないんですか?」
月華はそんなはずはないと言いかけて口を閉ざす。
記憶の海の底、今まで不思議と考えるのを避けてきたことが蘇る。
なぜ月華は中等部以前のことが思い出せないのか。……どうして時々、天駆が怖いのか。
弥生は感心したように言葉を続ける。
「さすがは天駆、王華国の番犬の名は伊達じゃない。毎日一緒にいても思い出せないほど、長い間記憶を封じ込められるなんて」
弥生は言葉を発することのできない月華を見下ろして目を細める。
「……わかりましたか、先輩?」
――私に絶対の愛を持ってください、我が君。そうすれば誰も私たちを離せない。
耳の奥で、天駆の暗い声音が蘇る。
――当主となるのは我が君です。私がお育てした、あなただけです。
彼にとって私は仕える我が君なのか、それともとうの昔から続く血が注がれた器でしかないのか。
弥生は殊更月華をあざけるように言う。
「よかったですね。あなたは大好きな人と絶対の愛で結ばれているんですよ」
楽しそうに言う弥生の声はもう頭に入ってこない。
月華は結局、何も弥生に言い返すことはできなかった。
遠くで扉が閉じる音を他人事のように聞いていて、目を見開いていた。
真実ははっきりしている。
(……天駆、私を騙していたな)
月華は片手を顔にあてて、ゆっくりと目を閉じた。
月華はおぼつかない足取りで貸宿を後にして裏通りを抜けると、路地裏に弥生と天駆が立っていた。
天駆は食いつくように弥生に言う。
「貴様……ぁ!」
天駆の怒気はすさまじく、意識は完全に弥生に向けられていた。
弥生は鼻で笑って首を傾げる。弥生は天駆の後ろに立つ月華を見やりながら言った。
「僕に怒っても遅い。最愛の君を放っておいていいんですか?」
はっとして天駆が月華の方を振り向く。月と同じ金色の瞳が夜の中に浮かんでいる。
月華はくしゃりと顔を歪めて思う。
(あの時までは恋をしていた。心から慈しみ、見守ってくれていた彼に)
心のどこかで、硝子がこなごなに砕けるような音がした。
月華は一瞬泣くような顔をして、笑いだした。
「ふ……ははは!」
今は笑いしか出てこない。それ以上の感情が生まれない。
月華はうろたえた天駆が面白くて仕方なかった。どうしてこんなに愉快なのか、自分でもわからなかった。
弥生も笑いながら言葉を重ねる。
「真相を知った姫君は可笑しくて仕方ないそうです。せっかく、きずなで鎖のように繋いだのに?」
月華は喉が掠れるくらいに笑いながら思う。
(そうだ、タンレンが言っていたのはそういうことか。天駆は私を騙していた)
嘘、嘘、今まで見ていた彼は、全部嘘。
(こんなに晴れやかな気持ちになったのは何年ぶりだろう。信じなくていいというのはこんなに気楽で、幸福なことだった)
だってもう、どんな嘘を言われたって傷つきやしないんだから。
天駆は喉を詰まらせながら月華に言葉をかける。
「月華様……。落ち着いて、私と帰りましょう?」
いつのまにか弥生の姿は消えていた。それがまた月華の笑いを誘う。
あの少年は月華にとって悪魔だったのか、天使だったのか、それは月華にもわからないけど。
天駆は懇願するような声で月華に言葉をかけ続ける。
「説明します。きちんと、最初から……」
けれど月華は笑うのをやめなかった。
くすくすと狂ったように笑い続けながら、壊れたように目から涙が流れていった。
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