19 異想
その日の夜は、月華は久しぶりに獣姿の天駆と街に繰り出した。
月華は天駆が一緒なら身の安全は心配していなかったが、彼と一緒だからこそ裏通りに入るのはためらった。
でも天駆が迷わず裏通りに足を踏み入れたので、月華はあまり普段はわからない彼の感情を少し感じていた。
月華は周りに誰もいないのを確認してから口を開く。
「ちょっと速いです」
「ああ、申し訳ありません」
月華の言葉に、獣の天駆は歩調を緩めた。繁華街に入ってから彼は無言で、何かにとりつかれているように黙々と歩いていた。
再び黙った天駆の横で、月華は足を止めた。彼もさすがに気づいて月華を仰ぎ見る。
天駆はうかがうように月華に問いかける。
「どうされました?」
「天駆、ロザリエルを探しているのですか?」
月華の問いに天駆は黙って、彼が本心では探しているのだとわかった。
月華は眉を寄せて天駆を見返す。
どうしてともう一言が訊けなかった月華に、天駆は奇妙に冷たく言った。
「彼女は眷属を作ってしまった。人の世界を侵した獣人は、際限なく噛む危険があります。あなたは必ず私がお守りしますが、警戒は怠らぬようお願いします」
月華が言葉に迷っていると、天駆は前に向き直る。
再び歩き出した彼に、月華は何も話しかけられなかった。
路地に入れば暗く闇に落ちていて、人の姿は見えない。耳に痛いほどの静寂が広がっていた。
ふと月華が足を止めた天駆を見下ろすと、彼は鋭く告げた。
「……います。月華様は私の側を離れぬよう」
天駆は走り出し、複雑な路地裏を突き進んで行く。誰かが残した荷台を飛び越え、ひしゃげた廃材をくぐりぬけて、何度目かの角を曲がった。
やがて建物の谷間にロザリエルが飛んでいた。風でゆらめく赤いドレスが、夜の闇と遊んでいた。
彼女は放心しているかのようにぼんやりと空を眺めていて、その足元には今しがた噛まれたと思われる人間が倒れていた。
けれどロザリエルを庇うように、そこに立ちふさがっている見知った獣人がいた。
月華はごくんと息を呑んでつぶやく。
「……ウィル」
ウィルは天駆たちがそれ以上ロザリエルに近づくのを阻んで、こちらをにらんでいた。
天駆は鋭くウィルに命じる。
「そこをどけ、ウィル」
「嫌だ」
天駆は身を低くしてうなったが、ウィルもまた殺気を放って見返してきた。
天駆は言葉の調子を緩めずに続ける。
「ロザリエルは人の領分を侵した。同属だって狂気に引きずり込むぞ」
「他人などどうなっても構わない!」
ウィルは目に激情を宿らせて言い返す。
「僕は母上を見捨てない! ……お前とは違う!」
彼は右手を握り締めると、腰からサーベルを抜いて振りかざした。
天駆はそれを避けて壁まで飛ぶと、壁面を蹴った反動で跳んでウィルの腕に食らいついた。
ウィルは苦しげにうめいて悲鳴を上げる。
「ぐ……ぅっ!」
鋭い牙がウィルの腕に食い込んで、地面に赤い染みができた。
月華が駆け寄ろうとしたとき、天駆が何かに突き飛ばされて離れた。
誰かがウィルを引き寄せて叫ぶ。
『落ち着け、ウィル。家族で何を争ってる!』
フィリップはウィルを羽交い絞めにして制止していた。
その間にフィリップに突き飛ばされた天駆は月華の側まで戻っていた。口にサーベルをくわえていて、音を立ててそれをへし折る。
ウィルは目を怒らせてフィリップに叫ぶ。
『離せフィリップ! あいつは、あいつだけは!』
『見ろ。ロザリエルはもういない』
フィリップは諭すように言って視線を投げかける。
月華もフィリップの視線の先を見上げると、ロザリエルの姿が消えていた。
フィリップはウィルが腕を下ろしたのを見て彼を解放すると、天駆に一瞥をくれて言う。
『……天駆、君が理解できない。ウィルと争うなんて』
フィリップはたぶん天駆の答えを求めていなかったのだろう。
フィリップは哀しい一瞥だけ残して、ウィルと共に闇に溶けていった。
月華はそれを見送ってから天駆に目を戻す。天駆が折ったサーベルは、今は用を成さない鉄材になって地面に落ちるところだった。
天駆は放り捨てたそれにはもう目もくれず、暗い路地の奥を見つめた。
天駆はふいに低く月華に告げる。
「月華様、先に居宅へお帰りください」
月華は路地の奥を見て、彼の言葉の意図を知る。
「……彼は」
路地裏に倒れて喉から血を流しているのは、生徒会の後輩だった。
天駆はためらいなく事実を口にする。
「ロザリエルに噛まれたようです」
天駆は不気味なほど静かに言って、ゆっくりと月華の後輩の元へと歩いていく。
天駆は憂いらしい感情をまとわず、淡々と告げた。
「じきに眷属化が始まります。……その前に私が終わらせますから、我が君は見ない方がよろしい」
月華は呆然と立ちすくんで後輩をみつめた。
後輩は血を流しているものの、まだ苦しんでいる様子はなかった。困惑に満ちた表情で、いつもと変わらないそのままの姿だった。
天駆は口を開く。そこに先ほどウィルの腕に嚙みついた鋭い牙が光っていた。
月華は止めなくてはという思いと、止められない予感に挟まれて立ちすくんだ。
ふいに天駆の足が止まる。天駆の視線の先に、一人の少女が立っていた。
少女は優しく諭すように天駆に声をかける。
「天駆さん。あなたはいささかすべてを背負いすぎる」
月華は彼女の名前を思い出せなかった。彼女は長い黒髪と、青白くて生気のない表情をしていて、目だけが夜の海のように深い色を湛えている。でも何度も会ったはずなのに、名を呼ぶことができない。
天駆は黙って少女を見据える。並の人間なら失神してしまいそうなほど鋭い目だったが、彼女はぼんやりとそれを受け止めた。
少女は天駆に言葉を続ける。
「少し流れに身を任せてみませんか」
「守護獣人にそれは叶わないのです」
天駆は牙を見せてうなると、少女の後ろを見据えて続けた。
「あなたの後ろで私をにらむ、彼のようにね」
少女の後ろの闇から、中性的な少年が姿を現す。弥生は守るように少女の前に出ようとしたが、少女はそれを手で止めた。
少女はうなずいて、ふと月華に目を移す。
「由宇先輩はどう思いますか」
「……私?」
それは何気ない問いかけだったが、ふいに月華を揺らがせた。
彼女の問い自体に異質な力を感じて、月華は言葉に詰まる。
少女は何か大きな世界からこちらをみつめているようにして言う。
「噛まれるというのは、個体の死と同義ではありません。可能性は低いですが、支配を克服した例もある。今すべてを絶ってしまっていいのでしょうか」
少女のまとう空気は夜に漂う霧のようにつかみどころがないのに、彼女は王者のように堂々とした目をしていた。
天駆が顔をしかめた気配を感じた。天駆が月華の服をくわえて制止しようとする前に、月華の喉は動いていた。
月華は少女に問いを投げかける。
「
後輩の名前を口にすると、それは言霊のように月華を縛ったようだった。
一度口にした言葉は形となったのか、天駆が否と言っても押し通すことができるようにも思った。
少女は静かにうなずいてほほえむ。
「少し時間をください」
それで、彼女は弥生を振り向いて何か言ったようだった。
弥生は少女にうなずき返して雅を背負うと、路地の奥に歩いていく。
角を曲がった途端、弥生の足音が消えた。
月華は辺りを見回したが、目の前にいたはずの少女の姿もどこにもなかった。
代わりに風が流れ、何かの張り紙が地面に落ちて乾いた音を立てただけだった。
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