18 残光
月華はここのところ、天駆と向かい合って話すのを恐れていた。
もちろんそのことは天駆も気づいて理由を訊いてくるのだが、月華は曖昧に笑ってごまかすことにしていた。
天駆ではない獣人たちが、天駆の思う方とは異なる方向に月華を動かそうとしている。それらをすべて跳ね除けられるほど、月華は大人ではなかった。
月華は知らないことを怒涛のように聞かされて、聞いたその時は驚きの方が先だった。けれど少し心を落ち着けて考えると、周りがぐるぐると回っているような感覚に陥って、訳もなく黙りこくってしまう。
元々人の話に相槌を打つのが得意なほうだから、天駆が言葉を止めると沈黙ができてしまう。
天駆はテーブルの向こう側から月華に問いかける。
「我が君、何かを恐れていらっしゃいますか」
それに肯定するには、月華は天駆を恐れすぎている。
月華は言葉を呑み込みながら思う。
(考えている事すべてを吐き出してしまったら楽になるだろうか)
いや、と月華は自分に否定を返す。
(……たぶん、かえって苦しくなるだけだ)
そう思って、今日も月華は言葉にできない。
月華はその言葉の代わりに、彼に添うようなことを言ってしまう。
「もうすぐこの幻都を去るのだと思うと、どうすればいいのかわからないんです」
差しさわりのない憂いを告げれば、天駆は労わるように言ってくる。
「王華国は良いところですよ。決して不自由なことはございません」
(なぜって、逃げたところで天駆は追ってくるだろう)
月華の心の声は、天駆には聞かせられない。
天駆は優しく月華を王華国へ誘う。
「細かなことは私たち守護獣人がいたしますし、月華様は屋敷でのんびりお過ごしになっていればよろしいのです。歴史のある美しい所ですよ。月華様もすぐに馴染まれます」
(それは幽閉とどこが違うのか)
月華の心の声は、もう少しで口に出しそうになるが、決して出すわけにはいかない。
天駆の優しいような言葉は、真綿で首を絞めるように思えた。
「何でもお申しつけください。当主の座は月華様だけのもの。一生私たちは我が君にお仕えいたします」
(……一生、私の生活は彼に決められてしまうのか)
そう思った途端、月華は意味もなく笑っていた。
天駆がいぶかしげに問い返す。
「月華様?」
月華の中では心の軋みが増えすぎて、ひび割れていくのはもう止められなかった。
講師室に頼まれていた資料を持って行ってから、月華は校舎の二階を歩いていた。
いつもならこれくらいの時間はまだ後輩たちがその辺でおしゃべりをしているが、今日はがらんと静まり返っている。
今日は懇談で、用のない学生はもう家に帰るか部活に行っている。人といえば、他のクラスの教授に挨拶をしてすれ違ったくらいだった。
そんなとき、元気いっぱいの声が耳に届く。
「あっ、おとーさん!」
もはや聞き慣れてしまった声が遠くから響き、すぐにこちらへ向けてすごい勢いで近づいてきた。
廊下の隅に寄って、陸上部さながらの速さで駆け抜ける一年生とすれ違う。
教授の声が彼女の声に重なる。
「廊下を走るな!」
血圧の高そうな先生の叱責の声が一階で聞こえる。
けれど彼女の声の勢いはやまない。
「うわぁ、すみませーん!」
段々と声が遠ざかっていくのがわかるほど、声は勢いよく外へと走り抜けて行った。
月華が窓から下にある中庭を見下ろすと、一年生の子とその両親が抱き合う姿が見えた。両親ともに懇談に来るところを見ると、相当教育熱心な家庭のようだった。
一年生はわいわいと両親に報告する。
「それでねー、あれこれでね、こうこうなんだよ!」
「ほお、生徒会も頑張ってるんだな」
「会長をやるなんてえらいじゃないの」
親子の力で奇跡的に意思疎通をしている彼らを、微笑ましいなと思って見下ろしていた。
ふいに月華が隣に人の気配を感じて振り向くと、月華と同じように中庭を覗きこんでいる女の子がいた。
彼女から足音や物音は聞こえず、ずっとそこに立っていたようだった。月華は今彼女に気づいたということに違和感を抱く。
彼女は長い黒髪を二つにわけて三つ編みにして、それを後ろで結んでいた。小柄で、黒い目は何も映していないようにぼんやりとしている。血色も悪いし痩せているから、体の弱い子なのかもしれない。
月華の方を見ないことをいいことに、月華はじっと彼女の顔を覗きこんだ。どこかで会った気がするのに……どうしても思い出せない。
中庭での笑い声だけが音として存在していて、少女の耳にはそれしか聞こえていないように見えた。
そんな少女に誰かが声をかける。
「真秀」
その声に振り返ったのは彼女ではなく、月華の方だった。
逆光で最初は見えなかったが、階段の中ごろから呼びかけたのか、弥生が階段から早足で降りてくる。
弥生は振り向かない彼女を、ごく自然な動きで後ろから抱き締めた。
けれど真秀と呼ばれた小柄な女の子は微動だにしない。弥生が邪魔するなというように月華をにらんで、月華はそっと踵を返す。
弥生は甘さより、労わりをこめた声で真秀に言う。
「今度ホテルランデンにでも行こうよ。あそこの料理はおいしいんだって」
背中に聞こえた声は、婚約者の誘いというよりは心配をはらんだ声だった。
「ランデン料理嫌いだったっけ? ごめん、ずっと一緒にいるのに」
弥生の声はなんだか必死で、どうしてか哀しそうだった。
月華はこいねがうような弥生の言葉を、遠のきながら聞いていた。
「お願い、二度と忘れない。僕が君の全部になるから。だから、もう一度教えて……真秀」
月華が角を曲がった瞬間、夏の光が照り付けた。
その日差しの中で、一瞬確かに記憶したはずの小柄な少女の姿が月華の中から消えていった。
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