17 異人からの誘い

 気がかりな思いを残しながら若彦を置いて、月華は伯爵と共に坂を下った。

 ふもとの小さな喫茶店に入って伯爵と向かい合うと、彼のランデン人としての異なる風貌が人目をひいていることに気づいた。

 けれど客も店員も、伯爵と目が合うと夢見るような目をして、それ以上彼をみつめたりはしなかった。

 月華は伯爵を正面にみつめて、慎重に言葉を切り出した。

『選択……とは何ですか?』

 言葉を頭の中で探しながら訊ねた。ランデン語で難しい話ができるか心配になったが、意外にも伯爵はにこやかに返した。

「幻都語で良いよ。多少古臭い話し方であるのは許してくれ」

 彼はなまりなどほとんど感じさせない流暢な幻都語で月華に応えた。

 月華はとっさにきょとんとして言う。

「お上手ですね」

「そうかね」

 月華が思わず正直に感想を口に出すと、伯爵は嬉しそうにうなずく。

「獣人同士は古くから交流があるのだよ。幻都などはその吹き溜まりで、多くがここで交わる」

 伯爵はふと苦笑して続ける。

「そうは言っても、ランデンと幻都が遠いのに変わりはない。その距離が争いを遠ざけてきたとも言える。その点、王華国と幻都は、いささか近すぎるのだろう」

 伯爵は憂えるように顎に手をあてた。

 月華が伯爵を仰ぎ見ると、彼は月華の目の奥を窺うような瞳でじっと見ていた。

 伯爵は親戚の子どもにさとすような口調で告げる。

「今回選択と私が言うのはそのことだ。王華の一族と幻都の一族は、古くから争いが絶えない」

 月華は膝に手を当てて、じっと言葉を待った。

 恐らくはその争いを目の当たりにしてきた証人はゆったりと語る。

「どちらの一族も、新しい当主が玉座につくときには異なる血を引く生贄が必要と決まっているんだ」

「……生贄」

 伯爵はぞっとするようなことを淡々と口にした。月華は顔から血の気が引いていくのを感じていた。

 伯爵は近い未来をみつめるように目を細めて言った。

「君はじきに当主となる。幻都の一族もじきに代替わりを控えている。そのために、ある二人がずっと争いを続けている」

 主のために争いをいとわず。守護獣人はそういうものだ。

 そう言ってあるときは笑い、あるときは哀しそうに月華から手を離した少年。月華は彼の言葉と表情を思い返してつと息を止めた。

 伯爵は低くその事実を告げた。

「幻都で夜ごと、君の従者である天駆と、弥生という少年が命の取り合いをしているんだ」

 外で馬車が何かにつまずいたのか、少し店も揺れた。

 作り話だと笑い飛ばすには、月華は天駆の一途さを知りすぎてしまっている。

 月華は乾いた喉に息を通して告げる。

「……弥生君は、まだ学生です」

 月華の言葉は言い訳じみて聞こえただろうか。伯爵は冷たい調子で月華をいさめた。

「それだけで優しさをかけるのは、彼を侮ることになるだろう。彼はもう三か月近く、君の知らないところで天駆と戦ってきた。立派な守護獣人だ」

 黙りこくった月華に、伯爵も少し考える時間を与えてくれたようだった。

 やがて伯爵は窓の外を見ながら口を開く。

「君に対して天駆がたくさんの隠し事をしているのはわかっているだろう。王華国に戻ればなおさら、君が知らない世界が待っている。ただそれはどこの世界でも同じこと」

 伯爵は月華をみつめて苦笑した。

「我が一族も、他の一族には言えない事情ばかりだ。それでも私たちが一族のままであるのは、捨てきれない一族への愛着があるからだ」

 彼は月華に手を差し伸べて、ふいに問いかけた。

「君に問う。君は孤独か?」

 はっとして月華が見つめ返すと、伯爵は問いを重ねる。

「天駆は君に、彼との関係しか与えなかったように思う。たった一つだけの絆で生きていくよう強いるのは、あまり感心しない」

 伯爵は手を伸ばして月華の頬に触れる。一瞬の出来事だったので指先の温かさを感じる間もなかった。

 彼は外套から封筒を取り出す。伯爵はそれをテーブルに置いて月華に差し出した。

 それを見下ろしながら伯爵は月華に言い。

「ランデン人の居留地への招待状だ。私は今そこに滞在している。君が我が一族として生きることを選ぶなら、私たちはランデンに君を迎え入れよう」

 彼はそっと月華の頭を撫でた。他人にされるには子どもじみた愛情表現だったのに、どうしてか目の奥がにじんだ。

 悪戯っぽく笑って、伯爵は首を傾げる。

「今のままでは、君は恋もできないよ」

 伯爵の姿がゆらめいたかと思うと、彼は一瞬後には店の外を歩いていた。軽く手を振って優雅に去っていく。

 机の上には二人分の飲み物代と、手紙に捺された赤い刻印が光っていた。

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