16 二律背反

 湿気た日が続く中で、久しぶりの晴天がやって来た。

 この絶好の天気の中で下級生たちは実習に行っている。場所は牧場で、西方から輸入された乳牛の乳しぼりやバター作りを体験して、一泊二日で帰ってくるらしい。

 てっきりわざわざ泊まりで牛の世話をしに行くなんてと言うかと思いきや、三年生たちは羨ましそうな顔で後輩を見送った。

 確かに教室で勉強するよりは実習の方が楽しいかもしれないと言ったら、クラスの男子はそろって首を横に振った。

 男子学生はむすっとしながら月華に言う。

「だって神楽かぐら先生も引率で行っちまったし。暇じゃん、自習」

 若彦の姉でランデン語の神楽先生は、男子生徒たちの憧れの的だった。はつらつとした授業の進めっぷリと、姉のようなおおらかさは月華も好きだった。

 月華はちらりと横に座る若彦を見る。

 若彦は自習中だというのに雑誌を読み漁っているが、この間帰国のことで一悶着あって以来、どうも話し掛けづらかった。

 月華があきらめて前を向いたところで鐘が鳴って、自習の時間が終わった。机を立って、月華は鞄に入れた弁当を取ろうと屈む。

 月華が弁当に手をかけたとき、若彦としっかり目が合ってしまった。

 若彦は月華が何か言う前に言葉を投げる。

「由宇。弁当外で食おう」

 若彦は鞄から握り飯の包みを取り出して、さっさと教室を出ていってしまった。

(やっぱりまだ怒っているのかな)

 だが喧嘩別れして終わりでは寂しいとも思った。月華は一つため息をついて若彦の後を追う。

 校舎裏には幻都の伝統的な庭の名残があって、苔の中に飛び石が散らばる。若彦が飛び石の一つに腰を下ろしたので、月華も近くの石の上に座った。

 若彦はしばらく黙々と握り飯をかじっていて、月華も黙って弁当を食べた。

 若彦は放課後に弓道部に通っているだけあって、あっという間に両手の平より大きな握り飯を食べ終わってしまった。

 彼は米粒をなめて思案してから、じっと月華の弁当を眺めた。

 月華はそんな若彦の視線に首を傾げて問いかける。

「はい?」

「いや、それ自分で作ったのかと思って」

 月華は錦糸卵と野菜を混ぜた酢飯を口に運んで飲み込むと、何気なくうなずく。

「ええ、まあ」

「うまいもんだな。俺は作ったことないから知らねぇけど」

 若彦はいつも購買の握り飯だ。けれど月華はいい加減な食事をすると天駆が猛反対するから、早く起きてでも自分で作っていた。

 若彦はふいに真顔になって月華に問いかけた。

「帰国の前に、ほんとは訊かない方がいいこと訊いていいか?」

 それは随分遠まわしな言い方だった。若彦にしては珍しいと思った。

 月華が軽く頷くと、若彦はじっと月華を見て言った。

「先に言っとくぞ。俺はそれだから悪いなんて言う気はないんだ。……お前、母ちゃんいないんじゃないか?」

 若彦は慎重に、言葉を選んでくれたようだった。

 だから月華は傷つかずに済んで、ほっとした気持ちで若彦に返す。

「ええ。若彦が会った人も義兄なんです。とてもよくしてくれて、家族同然ですが」

 親がいないことは確かに寂しかった。けれど天駆が父親で母親で、家族のすべてを背負ってくれていた。幼い日に亡くしたという母はもうずっと昔の過去になっていて、時々思いを馳せるくらいだった。

 若彦はくしゃっと顔を歪めてうなずいた。彼は頭をかいて言う。

「変なこと言って悪かった。なんとなく弁当で気づいていたんだ」

 だったら一緒に昼を食べていた一年生の時からもうわかっていたのだろう。月華は改めて彼がそういう思いやりをする人間だったと思い返した。

 若彦は息をついて言葉を続ける。

「俺も母ちゃんがいなくてさ」

 月華は弁当から顔を上げて若彦を見る。彼は目を伏せて地面の石ころを凝視していた。

 若彦は月華の気づかわしげな視線に気づいたのか、いや、と言葉を返した。

「あ、そう気にするなよ。俺はさっぱり覚えていないから、母親のこと」

 若彦はひらりと手を振って笑う。言葉面だけでは量れなくとも、少なくともそう言った彼の目は明るかった。

 若彦は首を横に振って言葉を続けた。

「俺が言いたいのはそういうことじゃなくって。周りからは心配されたけど、俺はそうやって心配する周りの大人がすごく多かったんだ。何より、姉貴がいてくれた」

 若彦は照れ隠しに頭をかいて、思い返すような目をした。

「姉ちゃんは年が離れてて、俺が小さい頃にランデンに渡っちまったけど、ずっと手紙をくれて見守ってくれた。ほんとはすごく感謝してるんだ、俺」

 同級生には恥ずかしくて言えないけどなと、若彦は付け加える。

 若彦は遠い世界を臨むように目を細めて言う。

「考えてみれば、どれだけ苦労したんだろう。飛行船が使えるのは特権階級だけ。馬車だって山は越せないから、基本歩いて自力で辿り着くしかない時代。ランデン語の授業ができたのだって最近のことだし、姉貴の頃は言葉なんて通じない」

 若彦は立ちあがって背伸びをすると、ふと真顔になって月華を見下ろした。

「でも姉貴は俺が大きくなったのが見られたから、今となってはそんな昔のことはどうでもいいよって言うんだ。許す……ってのは言いすぎかもしれねぇけど、家族ってそういうところがあると思う」

 小さくため息をついて若彦は目をそらした。

「……お前の兄貴、追い詰められた顔してたぞ」

 月華は気づかれないように箸を握りしめた。若彦がそんな月華の後ろめたさに気づいたかどうかはわからないが、彼は言葉を続ける。

「説教くさいかもしれねぇけど言っとく。お前はにこにこして人が近づくのを全部拒絶してるんだよ。それが友だちだろうと兄貴だろうと。そういうのって軽蔑されるのより堪えるんだぞ」

 そうだろうかと、月華は反発するような気持ちを抑え込む。

 冷たい態度をとること、傷つくような言葉を投げかけること、それは駄目だ。怒った顔よりは笑った顔の方がいい。

 月華はにらむように若彦を見て思う。

(私は間違っているか?)

 月華は天駆の望むように自分を変えていったはずだった。それで実際、周りの評判も良かった。

(なぜそんなことを言うんだ、若彦。どうして私を否定するようなことを言う?)

 月華は心を落ち着けるために、一度目を閉じる。

 どうしてか心臓の音が異様に大きく聞こえていた。次第に速くなって、体中の血液の動きが変わっていく。

(あ、れ……?)

 乾いた音をたてて弁当箱が落ちるのが、他人事のように聞こえた。

 若彦が月華に近寄って問う。

「どうした、また例の発作か?」

 若彦が屈みこんでいるのに、その顔が月華に見えてこない。

 視界に映るのは一面、黒い霧だった。その中に無数の赤い目が浮かぶ。

「……ぐ、っ」

 月華はたまらずうずくまって顔を覆った。若彦が慌てて駆け寄る。

「おい、とりあえず人呼ぶか? てかお前、ちゃんと医者に通ってんのか? 由宇!」

 まだ真昼で、明るい日差しの中だというのに、無数の異の者が視界を覆う。

 吐き気はおさまらず、視界がぐるぐる回って、耳鳴りがする。

 月華は自分を囲む者たちの声なき声に震えた。

(呼んでいる。私へ……ここに来いと)

 月華にはそれを振り払えない。それらは月華に限りなく近い、同属といえるものに思えた。

 引きずられ、吸い込まれる。月華がそんな錯覚に囚われたとき、低く鳴動するような声が響いた。

『去れ』

 その声に怯えるようにして、周囲の霧はいっぺんに晴れた。

 月華は目尻に涙がたまったまま顔を上げると、庭の中心に伯爵が立っていた。

 ふいに若彦がその場に倒れる。

 月華は慌てて若彦に駆け寄って叫んだ。

「若彦!」

 けれど若彦は目を閉じて、静かに寝息を立て始めていた。

 不可解だと月華が顔を上げると、伯爵は穏やかに月華を見て言う。

『君はもうすぐ大人だね』

 風で伯爵の髪が揺れ、紅玉のような瞳が輝いた。彼はなお言葉を続ける。

『友だちには眠ってもらった。異の一族として、これから君には選択をしてもらわなければいけない』

 月華はごくんと息を呑んで、問うように伯爵を見上げたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る