14 夜の霧
ホテルランデンからの帰り道、月華は湖の橋の上で立ち止まった。
フィリップの部屋で話しこんでいて、ずいぶん遅くなってしまった。夕暮れ時の朱色は空から消え去り、辺りは真っ暗だった。
その中で湖面だけが透明な青の光を放って輝いていた。
月華は振り返って、ホテルランデンを見上げる。
元々ウィルに会って何を訊くつもりもなかった。彼が獣人という異の者であっても、彼やフィリップに人への害意は感じられなかった。
(私はただ、天駆の周りの人たちを知りたかっただけ)
まるで自分だけが天駆の唯一でありたいのだと、わがままを言うような気持ちがくすぶっていた。
湖が漂わせる淡い霧が、しんとした空気に広がる。
そんなときに、どこからか月華に声がかけられた。
「家族を替えたい?」
月華には、ふいに心の隙間に何かが入り込む音が聞こえた気がした。
(そんなことは思っていない。家族を替えるなんて、そもそもありえない)
月華は何を恐れるのかもわからないまま恐れて顔を上げた。
ロザリエルに会ったときよりなお濃厚な甘い香りが立ち込めて、一瞬めまいがした。
そこにいたのは、人ではなかった。
辺りを飲み込みつつあった夜に半分溶けるようにして、黒い正装をまとう者だった。
長い金髪がなびき、目鼻立ちは穏やかな笑みを作っている。四十歳に手が届くか届かないかという年齢に見えるが、老いを知らないようなきらめく瞳をしていた。
面差しはフィリップに生き写しだが、彼のあでやかなまなざしに射すくめられて、月華はすぐに言葉を返すことができなかった。
心が吸い寄せられるようにして踏み出そうとしたら、月華の足を強く止めたものがあった。
別の声が鋭く、男に声を投げかける。
『なりません。月華様はご自身が一族の頂点に君臨される方です』
夢から覚めたように月華が横を見下ろすと、獣姿の天駆が月華の服をくわえていた。
天駆は油断なく前を見据えたまま言う。
『長らくご挨拶に参らず申し訳ございません。伯爵』
警戒をまとったまま、天駆は慇懃無礼に頭を下げる。
伯爵と呼ばれた彼は、それに怒るでもなくゆったりと笑んだ。
『こちらこそ、久しぶりだね。天駆、また会えて嬉しい』
詩でも吟じているような優雅な口調で彼は言う。天駆は深く頭を下げたまま慎重に月華を見て言った。
「月華様。こちらはフィリップ様のお父上、ディアマンテ伯爵でいらっしゃいます」
伯爵は月華に笑いかけて、優しい声で言った。
『フィリップと同じ学院に通っているのだそうだね。気難しい子だが、天駆にずいぶん世話になったのはあの子もわかっている。仲良くしてやっておくれ』
彼の声が心地よく胸に響いてきて、月華はこくりとうなずいた。
天駆が制止するように強く月華の服を引いた。月華はなぜ天駆がこの優雅な存在にそこまでの警戒を抱くのかわからず、不満げに天駆を見下ろす。
天駆はそんな月華の視線に気づいているだろうに、伯爵から目を逸らさないままに問いかけた。
『伯爵、恐れ多いことですが、ロザリエルに何をなさったのですか?』
伯爵は天駆のぶしつけな問いに怒りはせず、さほど意を留めずに答える。
『罰を与えたよ』
『罰?』
『ソファラを幻都に連れ去った罰を』
天駆はそれを聞いて、ごくりと息を呑んで答える。
『……それは、ありえません。どうかロザリエルをお許しください』
天駆は言葉の一つ一つに緊張を張り巡らせて進言した。言い終わってから天駆は口をつぐみ、伯爵からの言葉の答えを静かに待つ。
伯爵はふいに笑みを消すと、肯定も否定もしないまま言った。
『罪には罰を。それでもう済んだ。後は私がソファラを迎えに来ただけだ。どこかで私の迎えを待っているだろう』
伯爵の言葉は、妻のことというよりは幼い我が子を案じるような口ぶりだった。
天駆が口をつぐんだままでいると、伯爵はまた柔和なほほえみを浮かべて言う。
『もうそんな子どもではないと、ソファラは怒るのだろうな。息子が生まれた今でも、私はあの子の中に頼りない少女が透けて見えるのだ……』
伯爵の姿は夜の霧のように揺らぎ、まばたきの後には消えていた。
湖から流れ込む霧は晴れていた。月華が涼しい風を感じてはっと我に返ると、天駆がつぶやくのが聞こえた。
「……伯爵は、お変わりない」
天駆は答えを求めてはいなかったが、月華は言葉をかけていた。
「天駆、どうしてあの方を恐れているのですか?」
月華が言葉を選びながら告げると、天駆は月華の方を見ようとせずに俯いたまま言った。
「我が君、ディアマンテ伯に逆らってはなりません。あの方は原型と呼ばれる、獣人の祖のおひとりなのです」
「原型」
「そう。絶対者の一人です」
天駆は力なく首を垂れるようにしてうなずいた。
彼は恐ろしいものを語るように言葉を続ける。
「何も見ず、何も気づかぬふりをして、口をつぐんでください。でなければすべてを食らわれます」
小さく言ってから、天駆は顔を上げてようやく笑った。
「ご安心ください。私がお側にいる限りあの方の逆鱗に触れることはいたしません。さ、そろそろ帰りましょう」
服を引いて促す天駆に、月華の中に焦燥感がこみ上げた。
月華はふいに口を開いていた。
「どうして……」
月華は心の中で天駆を責め立てる。
(私の方を見ようともせず、口をつぐんでいるのはあなたの方ではないのか。ロザリエルとウィルもそうやって捨ててきたのか?)
けれど天駆の答えはわかっている。たぶん彼は、それが己の使命だからとでも言うのだろう。
その使命に凌駕されて捨てられたロザリエルたちを哀れむべきなのか、すべて使命に収められて何も自由にさせてもらえない自分を哀れむべきなのか。
(ロザリエルたちと自分、どちらが可哀そうなんだ?)
月華はそう思いながらも、口に出してそれを天駆には言えなかった。言葉に出すことで、すべてが壊れてしまうのを恐れた。
月華は自分を押し殺して、天駆の言葉に同意する。
「……はい。帰りましょう」
月華はいつものように曖昧な笑みを浮かべる。
心の中の何かが、ぱらぱらと音を立てて崩れていく気がした。
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