13 知らない過去

 学院が終わり、日没からもそれなりの時が過ぎた。そろそろ帰っている頃だろうと、月華はホテルランデンのロビーに足を踏み入れた。

 輝くシャンデリアと精緻な彫刻で整えられたここは、ランデンの貴族が幻都に来た時に土産として建てていったものだ。今もランデンから客が来ると必ずここに滞在するが、宿泊にも食事にも相当な費用がかかるのはご愛嬌だ。

 幻都には数年前に初めて作られた、エレベーターに乗って四階へ向かう。軽い浮遊感と共に動き出したエレベーターの壁にもたれながら階ごとの説明を見ていると、ふと最上階にあるレストランに目がとまった。

 月華はこんな高級なところ自分とは無関係だと思っていたが、一度だけ来た事があった。

 確か中等部の時で、ちょうど今くらいの季節だった。たまにはいいでしょうと天駆に誘われて、何かの祝いで一緒に食事にやって来た。

 しかし六月は月華の誕生日でもないし、天駆の誕生日は知らない。祝うような何かがあったかを考えても、どうも思い出せなかった。

 肩を叩かれるような音と共に扉が開くと、思考が途切れた。

 絨毯張りの廊下を歩くと、エレベーターからかろうじて見える角に402の札が見えた。

 随分一部屋ずつが広くとってあるんだなと感心しながら、月華は402室の前へ立って、扉を軽くノックした。

 返事がなく、もう一度ノックをしてみたが結果は同じだった。留守なら少し待とうかと思って壁に手をつくと、隣の部屋の扉が開いた。

 顔だけ覗かせたのはフィリップだった。扉に401号室の札が見えて、ウィルの隣の部屋に滞在しているらしかった。

 フィリップは波のない調子で月華に言葉をかけた。

『ウィルは今出かけてる。とりあえずこっちに来たら?』

 フィリップは眠たそうに目をこすりながら扉を開く。バスローブの上に金髪が寝乱れているのを見ると、寝入っていたらしい。

 月華は廊下で待っているよりはと、せっかくの厚意を受け取ることにした。

 フィリップは月華が入ったのを見届けて扉を閉めると、部屋の中央にあるソファーに腰を下ろした。

 彼は幻都語が堪能でないのは知っていたので、月華は頭の中でランデン語を整理する。その間に、フィリップは顔をしかめてソファーから立ちあがると、やはり幻都では希少な保冷庫の前に屈んだ。

 フィリップは月華に背中を向けたまま無造作に言う。

『座って』

 一応気を遣ってもらっているらしいと、その言葉で理解した。

 月華はフィリップが座っていた向かいのソファーに腰を下ろす。フィリップはグラスに何か注いで月華の元に戻って来た。

 月華はグラスを前に丁重にお礼を言う。

「ありがとうございます。いただきます」

 けれどグラスに口をつけた瞬間、月華は小さくうめく。

「……ぐ」

 それは思わず吹き出しそうになる味のトマト味だった。

 やっぱり歓迎されていない。月華が下を向いて飲み干すと、フィリップは目を細めて言った。

『それがまずいってことは、一応同属なんだな』

 何をそんなに納得することがあるのか、フィリップは真剣な顔でうなずいた。しかも彼はテーブルの隅にある紙片に手を伸ばして何か書いていた。

 フィリップもまずそうにトマトの飲み物を一口飲むと、綺麗な青い瞳で月華を見据える。

『でもこうやって血の気に近いものを口にしないと、僕らは欲求に呑まれるからさ』

『欲求?』

『君も嚙みたいと思うことくらいあるだろう? でもそれは強い覚悟で相手の人生を引き受ける覚悟がなければ、やってはいけないことだからね』

 フィリップは事も無げに言葉を告げる。

『君も僕も、獣人だろう?』

 月華が息を呑むと、フィリップはもう一つ、と付け加える。

『ウィルもそうだよ』

 あっさりと月華がここに来た目的を言い当てられて、月華は思わず彼の顔をまじまじと見てしまった。

 彼はまだ眠そうで目がとろとろとしていたが、言葉は淡々と告げる。

『満足したかな?』

『あなたはあまり私に良い感情を持っていないように思います』

『気づいていたか。お前には悪いと思うけど、その通りだ』

 フィリップは手を紙片から離す。彼はだるそうにテーブルに片肘をついて言った。

『天駆はお前たち一族のために、ウィルとロザリエルを傷つけたから』

 天駆の名前も出されて、月華は言葉につまった。

 フィリップは再び立ちあがって背を向けて、手に持ったグラスをゆっくりと飲み始めた。

『昔々、僕ら一族のところへ鉄鍋一本持って亡命してきた男がいたんだ』

 昔話というにはあまりにも最近の話題を扱っているかのように、彼は話した。

『当時そこには求婚者殺到中の美人がいて、誰も予想しなかったけどその男とくっついた』

 窓の外を見つめながら、月華の方を見ることなくフィリップは話し続ける。

『でも百年もしない内に伴侶を捨てて王華国へ帰った』

 振り返ったフィリップは、氷のような冷ややかな目をしていた。

 フィリップは波のない声に鋭い感情を含めて告げる。

『最低な男だな。義父として恥ずかしいよ。そうウィルに言わせた』

 月華は言葉の意味をよく考える間もなく、頭にかっと血が上るのを感じた。

 月華は跳ね返すようにして言う。

『最低とはなんだ。それが古くからの彼の役目だった!』

 声を荒げてフィリップに食いついてから、月華には後悔がよぎった。

 月華は自分に仕えていた間の天駆のことしか知らない。彼が家族と暮らした日々は、直接目にしてもいなかった。

 冷静に見えたフィリップの目に怒りの色が宿る。フィリップはその感情を声に出して言った。

『天駆は伴侶と義父の義務を怠った』

『彼にはその前に一族の義務があった』

 月華は手をついて椅子から立ちあがる。フィリップは薄い青の瞳でじっと月華を見上げて、首を横に振る。

 フィリップは信じがたいというように月華に言う。

『王華国の一族は、なぜ家族を第一にしない?』

 突き放すような態度とは裏腹に、フィリップは弟を諭すような言葉をかけてくる。

『時代も良くなかった。獣人狩りの頃だった』

 フィリップは今目の前にそれを見ているように、憂いを帯びた目で言った。

『馬鹿げてた。人間に捕まったのは、小さな子供がいて弱っている女性の獣人ばかり。……そんな時期に伴侶の側を離れるなんて、男のすることじゃない』

 それきりフィリップは口を閉ざして、月華も言い返す機会をなくした。

 月華は椅子に掛けなおして、ふと部屋全体を見回した。

 そこは荷物類がきちんと整頓された、欲のない部屋だった。

 机の上には勉強道具があって、小さな手帳が横に広がっている。

 これといった装飾品も見つからないし、真面目で質素な生活に見えた。

 フィリップはふいにぽつりと言った。

『お前には天駆の匂いがする。いつも一緒にいたんだろう』

 月華がフィリップに目を戻すと、彼はまた波のない口調で言った。

『過去は今更変えられない。でもお前をウィルがどんな思いで見ているかは、気にしてやってほしい』

 独り言のように告げたから、かえってそれが彼の本音なのだとわかった。

 月華が天駆から受けた愛情を、本来与えられるべきだった少年を思い出した。

 ……ここで待って彼に会うのは、彼を傷つける気がする。

 月華はうつむいて、敗北のように言葉を口にした。

「わかりました」

 月華はそれだけ告げて、ホテルランデンを後にした。

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