11 守護の籠

 警戒を抱くべき相手に興味を持ってしまったのは、タンレンという獣人が少し天駆に似ていたからだった。

 彼は口を大きく開けなければ牙も見えず、耳や尻尾があるわけではない。けれど月色に似た瞳をしていて、どこか天駆と似た禁欲的な空気をまとっていた。 

 月華も、興味は怪我の元になると承知している。けれど大人だって興味を失って過ごすことができないように、子どもはもっとそれを押し殺していることができない。

 タンレンは月華を繁華街の外れにある喫茶に連れてきて、そこで月華に珈琲を勧めた。

「どうぞ。安物ですけど」

 夜の喫茶店、それは不穏な話を予想させてしまう。

 けれど兄を殺した男と向き合うのだから、元より愉快な話が待っているはずもない。

 タンレンはじっと珈琲をみつめる月華を見て、可笑しそうに笑い飛ばした。

「毒なんて入ってませんよ。そんなことをしたら天駆に殺される」

 天駆に比べれば彼はくだけた方だが、仕草の一つ一つは無駄がなく、明るい世界の住民には見えなかった。

 彼は自分に春奈の頭をもたれさせて横の席に寝かせていた。春奈は完全に眠っているらしく、全く起きる気配はなかった。

 月華の視線の先に気づいたのか、タンレンは何気ないことのように言った。

「こうも暗示がうまくかかると楽しいですね。私は下手な方なんですよ。習熟すれば、目を見るだけでできるものですが」

「本題に入る前に」

 月華は先輩として言うべきことは先に口にした。

「まず春奈さんに危害を加えないのを約束してください」

 タンレンは軽く頷いて返す。

「約束します。元より今の私は彼女の家に雇われています。彼女を守る立場の者です」

「それが一時的でない保証は?」

 月華がにらむように見返すと、彼は苦笑してみせた。

「お疑いですか? 仕える者にだって矜持はあります。確かに春奈様の家は仮の主家に違いありませんが、対価分は働かなければなりません」

「王華の一族は許してくれたのですか?」

 天駆の話を聞く限り、王華の一族に仕える守護獣人たちは厳しい教育を受けているという。簡単に他家の主家に仕えることを認めるとはとても思えない。

 タンレンは明るく笑って手元の珈琲に口をつけた。

「まさか、内緒に決まってるでしょう。私は天駆みたいな個人資産があるわけじゃないんですから、時代に便乗してうまく世渡りしないとやってられないです。幸い王華の守護獣人は見た目ではそれとわかりませんしね」

 タンレンは結構楽しいですよと笑って珈琲を置く。

 やはり簡単に信用するわけにはいかないと、月華は珈琲に手を伸ばさずにいた。

 タンレンはふいに真顔になって、追及するように問う。

「月華様。あなたは天駆をどう思われますか?」

「どう思う、とは?」

 彼の意図を図りかねて言葉に詰まると、タンレンは答えを待たずに続けた。

「私のように今や旧時代の縁と仕事だけでつながっている者と違い、彼は生粋の守護獣人だ。天駆はあなただけを主として慈しみ、過剰なほど甲斐甲斐しく仕えているでしょう?」

 他の守護獣人と過ごしたことがない月華は、彼らが天駆を語る言葉を初めて聞いた。

 もっとも、天駆が愛情深く月華を育ててくれたことは誰よりよくわかっている。月華は深く頷いて言った。

「天駆には感謝しています。とても大切に私を守り育ててくれました」

「でしょうね。彼は正統なる一族の守り神。私利私欲に走る守護獣人もいる中で、ひたすら一族の血を見守ってきたのですから。一族こそが彼の守るべき、愛すべきすべてなのでしょう」

 タンレンは言葉を切ってうつむいた。

「でも、彼にも一族以外の者を愛したことがあるんですよ。今から数百年も前の話なのですが」

 月華は首を傾げて思い返した。それは天駆の話してくれた、おとぎ話のような歴史の中に出てきた気がする。

 タンレンは月華のその記憶に重なるような言葉を続ける。

「王華の守護獣人たちが各地へ放浪した頃です。天駆は西方に亡命して、そこで……ある一族の恋人ができました」

 タンレンは膝の上で手を組み、その手をせわしなく組み替えながら苦い声で言った。

「私が彼を訪ねた時、彼は豊かな森にある館でひっそりと暮らしていました。その女性は聡明で美しい方で、天駆は彼女の前夫との子もわが子のようにかわいがっていて……とても幸せそうでした」

 月華は、天駆が優しいことを誰より知っているつもりでいた。けれど彼にはそれ以上に彼のことを知る人がいたらしい。その事実は月華に痛みを抱かせた。

 天駆は溢れるほどの愛情をその身に持っている。きっと恋人を大切にしただろうし、その家族も愛したに違いない。

 タンレンは憂えるように言う。

「私は当時まだ子供でした。離散した一族を取り戻すために、夢中で天駆に助けを求めに行ったのです。どうしても天駆の力が必要だと泣いて」

 うつむいたまま月華を見ようとしないタンレンを見つめながら、月華は小さく頷いた。

「……あなたは、無理に天駆を連れ戻したんですね」

 タンレンはふと遠いところをみるようにして目を細めてうなずく。

「はい。彼はとても情が深い。彼の美点で欠点です」

 唐突に彼は月華の手を取って、その手を自分の胸に強く押し当てた。

 月華は困惑のままに喉を詰まらせる。

「な」

「わかりますか?」

 息を呑んだ月華の手には、女性のふくらみがあった。

 彼……いや、彼女は、月華の目を見据えて言う。

「天駆が私を助けてくれたのは、親を失い、ただ遠い日の血のつながりを求めてやって来た一族だったからでしょうか。……それともただ、泣いている女の子を放っておけなかったからでしょうか」

 タンレンはあっさりと月華の手を解放して、困ったような苦笑いを浮かべる。

「ご安心ください。年上の身近な男性に憧れを持つのは少女のさだめです。過去に彼と何かあったことはありませんし、私も今は自分の家族を持っています」

 タンレンは一度息をついて言葉を続けた。 

「家族を持ってはじめて、過去の自分が酷い仕打ちをしたと気づきました。一族は、彼を家族と引き離してまで守るべきものだったかと」

 彼女らとの平穏な暮らしに満たされて己の使命を忘れたくはなかったと、天駆は言った。

 それは本当に彼の本心だったのだろうか。天駆が一族に並々ならぬ思いを持っていたとしても、彼はその他のことを簡単に割り切れるような情の浅い男ではない。

 遠縁のタンレンにさえ情を抱いた彼が、自分の家族にどんな思いをもっていたのか。

 タンレンはまた月華に目を戻して言う。

「最近この辺りに、ある女性の獣人が出没するようになりました」

 遠い世界の話のようで、それはまちがいなく月華に関わる事実だった。

 タンレンは手をテーブルの上で組んで身を乗り出すと、切実な眼差しで問いかけた。

「ロザリエル・オッカム。私は覚えていますよ。忘れるはずがない」

 月華の心臓がどくんと不穏に動いた。

 できればその先を言わないでほしいと思った。言ったら月華は、きっと子どものようにすがってしまう気がした。

 ……天駆は決して私と離れないと言ったと、泣いてしまう。

 先週の、一言も話さずに歩き続けた天駆を思い出す。

 タンレンは月華を見据えて言葉を告げた。

「ロザリエルはかつて天駆の想い人だった獣人です」

 月華は言葉を発することなくタンレンを見つめていることしかできなかった。

 タンレンは眉をひそめて言葉を続ける。

「ただ、どうも様子がおかしいのです。以前私が西方で会った彼女とは雰囲気がまったく違う。獣人の貴族の彼女が、領地から遠く離れた幻都にいるのも奇妙だ。何かあったのではないかと思いますが……」

「……あなたは私に何をしろと言うのですか」

 タンレンを責めるのは間違っているのかもしれない。だが月華は苛立ちをこめた声で問いかけた。

 そのとき、月華はこれがタンレンの償いなのだと気づいた。かつて一族のために天駆を連れ去った代わりに、今度は天駆を家族の元に帰したいのだと。

 タンレンの言葉は月華の予想のとおりだった。タンレンは一瞬黙って、静かに頭を下げる。

「天駆を血塗られた一族の争いから解放してやってください。彼に一人の男として得るはずだった、平穏な生活を返してやってほしいのです」

 お願いしますと言ったタンレンを、月華はしびれた頭で見ていた。

 話を聞いている間張り付いていた、追いすがるような不安はなかった。

 天駆は結構たくさんの人たちに愛されているのだと、なんだか寂しい思いだけがしていた。

 月華は目を伏せながらタンレンに問う。

「私は何をすればいいのですか?」

 もう一度問いかけたのは、今度はタンレンを責める気持ちではなかった。

 月華は元より王華国に行くのを望んでいない。口に出した事は無いが、天駆に促されるまま行くだけだ。

 月華にはずっと自分の世話をしてくれた彼に報いる必要がある。

 ……その結果天駆と離れる覚悟は、まだできていないが。

 タンレンは顔を上げて、ほっとした表情で言った。

「わかっていただけましたか。ありがとうございます。いえ、天駆と離れて暮らしていただければ、あとは……」

 明るい表情で言葉を紡いでいたタンレンが、何かに気づいたように言葉をやめる。

 タンレンはふいに重苦しく口をつぐむと、早口に切り出した。

「……今はここまで。またお会いしましょう」

 タンレンは素早く春奈を抱え上げ、飛ぶような速さで店を出て行った。

 その速さに不穏なものを感じて、月華は一人緊張する。

 飲みかけのコーヒーカップを眺めて、自分もここを去った方がいいのではと思う。

 天駆を解放するために何をすればいいのか最後まで聞けなかったのが気がかりだが、タンレンにまた会えばすぐにわかるものに違いない。

 ひとまず支払いの札を手に取ると、その手がぐいと引かれて無理やりに立たされた。

 月華はごくんと息を呑んでつぶやく。

「……天駆?」

 見上げると、いつ来ていたのか天駆の姿があった。

 天駆は矢のように鋭い声で問う。

「タンレンですね。何を話されたのです?」

 背筋が凍ったのは、天駆がまるで月華の知らない人間に見えたからだった。

 天駆のまなじりはつりあがっていて、目が獰猛な獣のようだった。

 天駆は低く弾劾するように言う。

「言いなさい。さあ」

 決して声を荒げているわけではないのに、月華の体は足元から震え出していた。

(怖い。怖い怖い。どうして忘れていたのだろう)

 月華は目の前が真っ暗になるような思いにとらわれる。

(天駆が優しいはずないじゃないか。だって天駆はたぶん、私の知らないところで数えきれないほど手を汚してきた……!)

 踵を返して逃げようとした月華の肩を天駆が掴む。月華の全身に震えが走った。

 恐怖が胸を衝いて、月華は幼い子どものように叫んでいた。

「……ごめんなさい! 怒らないで、天駆!」

 こんな大声を出すのは久しぶりだった。

 天駆は我に返ったように息を呑むと、慌てて月華の手を離す。

 天駆はうろたえた様子で謝罪する。

「月華様っ……。も、申し訳ありません」

 天駆は今度は優しく月華の肩に触れると、声を和らげて言う。

「大丈夫です。天駆は怒っていませんよ」

 天駆は月華を席へ戻して座るように促した。

「飲み物でもどうぞ。気分が落ち着きます。さ、何がいいですか?」

 けれど月華はうつむいたまま視線を合わせようとしなかった。そんな月華を見かねて、彼は遠くにいた給仕を呼ぶ。

 注文を終えて給仕は去っていった。月華は天駆の顔色をうかがってから、迷った末にぽつりと言った。

「天駆のかつての家族の、話をしてました」

 静かな音楽にかき消されて、もしかしたら天駆に聞こえないかもしれないと思った。

 だがその心配は無用のようだった。天駆はうなずいて、確認するように言う。

「私と離れるようにと言われたんですね」

 落ち着いた天駆の声に恐る恐るうなずき返すと、彼は苦い表情で月華を見返した。

「いけませんよ、月華様。私と離れては月華様の身が危うい。絶対になりません」

 天駆はたしなめるように月華を叱った。

「王華の一族は東方に君臨してきましたが、敵も多いのです。どうか私に守られていてください」

 天駆はタンレンの残していったカップを見ながら、眉を寄せて言う。

「我が君。タンレンの詭弁に乗せられてはいけません。あれは仕事として一族に服従しているとうそぶきますが、子どものように純真な情を持っています。明確な意思をもって目的のために動きます」

 月華はふと純粋にタンレンという獣人を思った。

(彼女は子どもの頃に抱いた天駆への淡い思いを、今も持っているのでは?)

 一瞬その感情が、月華に現実味を持って迫る。

(家族を持った今、もうそれは切実な思いではないかもしれない。でも、初恋が特別なもののように、忘れがたい思いはきっとある)

 ただその感情の正体を確かめようにも、タンレンは既に去った後だ。

 月華にはそれよりもっと気にすることがあった。天駆がタンレンのことをどう思っているのか以上に、ロザリエルへの思いを今も持っているのか。天駆は彼女の元に戻った方が……幸せなんじゃないか。

 月華の考えを遮断するように、天駆は低く心地のいい声で問う。

「天駆の言う通りにできますね?」

 それを聞いた途端、月華の頭は考える事を拒否するかのように麻痺して、気がつくと月華は小さく頷いていた。

 天駆は表情を和らげてうなずく。月華は彼を見上げてつぶやいた。

「天駆……」

 天駆の雰囲気が落ち着いたのを見て、月華は問い掛けた。

「いつも私を守っていてくれますね?」

 天駆は穏やかに笑って月華の頭に手を伸ばす。そのままゆっくりと月華の頭を撫でて言った。

「私は月華様がお生まれになったとき、天帝に祈りました。お仕えする主人の幸せと、生涯変わりない忠誠を。……もちろん、月華の仰せのとおりに」

 そう言った天駆の瞳はいつもの、優しい金の瞳に戻っていた。

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