10 境界の向こう
変身に至る過程は、深く冷たい海の底を歩く気分に似ている。
その中で月華は夢を見ていた。幻都に来たばかりの頃のことだ。
月華は岸壁から深い海峡を見下ろしていて、背に受けた湿気た風を覚えている。
月華は人の姿をした天駆に抱えられていた。月華は彼の首に手を回しながらあどけなくたずねた。
「ここはどこ?」
「幻都というところですよ、我が君」
天駆は月華によく景色が見えるように、少し彼女を傾けてくれた。
でも月華は目の前の珍しい景色より、少し前まで一緒に過ごしていた人のことの方が気になっていた。
「兄さまはどこ?」
月華が過去を振り返るように首を巡らせたので、天駆はそんな月華を留めるように腕に強く抱き直した。
「兄君は、遠い所へ行ってしまわれました。月華様はここで暮らしましょうね。天駆と一緒に」
みつめた天駆が悲しそうだったので、月華は彼の言葉を繰り返した。
「天駆と一緒?」
「はい。天駆は何があっても月華様から離れません」
その関係は近くて閉鎖的すぎると、幼い月華に教える者は誰もいなかった。
天駆は月華の頬をなでて言った。
「天駆は、我が君が生まれつき得るはずだったものをお返しします」
海峡を冷たい目で見下ろした天駆は、どんな未来を描いていたのだろう。
「必ずお帰りになりましょう。……玉座に」
月華が寝返りを打って壁掛け時計を見上げると、もう夜も深い時刻だった。
居宅の中に天駆の気配はなく、なんだかひどく空腹だった。
月華が起きあがると、肩が少し凝っていた。格好を見ると制服姿に変わりなく、襟元とベルトだけ天駆が緩めてくれたらしい。
勝手に着替えさせないでくれと今まで散々文句をつけたのは、多少効果があったようだ。
天駆が店に来た後の記憶がなく、完全に意識を失っていたらしかった。
月華はひとりの空気に息を吐いてつぶやく。
「だんだん間隔が短くなっている気がする」
夕暮れ時から変化が始まったのも初めてで、自分の体なのに自分の思うままにならないのがもどかしかった。
台所へ向かう途中、机に天駆からの置手紙が残されていた。
『釜にご飯、鍋にスープとおかずがございます。お漬物の類もあるのでそちらはお好みで。私は十二時には帰ります』
月華がとりあえず鍋を覗くと、香ばしい鶏のスープの匂いが漂った。
置手紙どおりの夕ご飯を食卓に持ってきて食べ始める。今日も文句なくおいしいとうなずきながら、月華はふと彼のこの特技に思いを馳せた。
その昔、政争に明け暮れたという激動の男が何を間違って料理人並みの腕を身につけたのだろうか。想像するとちょっと可笑しいが、きっと単純に真面目な天駆の性格が成せるわざなのだろう。
食べ終わって食器を片付けると、女物の袍に着替えた。伸びた髪をとかして後ろで結び、かんざしを挿す。そしてそれらに不似合いな爪の武器を腰の横に隠した。
鏡の前で一通り確認してから、月華は夜の町に繰り出した。
繁華街まで来ると、路地の壁にもたれかかった。目を閉じて辺りの気配を探って、ぼんやりと思う。
(なぜ来てしまうのだろう。天駆に怒られるとわかっているのに)
月華は目を開いて苦笑する。
(いや……天駆に怒られるから、来たいんだろうな)
悪い子の気持ちを止められなくて、月華は裏通りへの道を辿った。
ふと歩きながら空を見上げる。色とりどりの灯篭に彩られた屋台が阻んでいて、金の月はどこにも見えなかった。
天駆が言うには、天帝は役目を終えた後に月へ帰り、そこから子どもたちを見守っているのだという。それは多分に神話的で、今を生きる月華にとって現実味はない。
けれど、月華は月を見たときの心地には神聖なものを感じる。月の光を浴びると、まるで母親の胎内で守られているような気分になる。
(色も好きだな。……天駆の目の色に、似ている)
「あっ、ごめんなさい」
月華の考えが中断したのは、人がぶつかってきたからだった。相手が怯えた女の子だったので、月華は慌てて屈みこむ。
「いいえ、私こそすみません。……あ」
月華は思わず声をあげそうになって、すんでの所で言葉を呑み込んだ。
少女はふわふわの長い髪を花飾りで緩く結い、桜色の着物をまとっていた。おろおろと視線を動かす様子が、年よりも幼く見えた。
少女は月華を見上げて声を上げる。
「あ、あれ? 由宇先輩?」
それは若彦の従妹で生徒会の書記を務めている、春奈だった。月華は内心で慌てながらも、表面上は落ち着き払って言葉を返す。
「いえ、由宇は私の親戚で……。見たところお困りのようですが、どうしたんですか? ここは危ないですよ」
月華は彼女を表通りへ誘導することにした。月華が先に立って歩き始めると、春奈はぺこりと頭を下げて言う。
「あ、あの、春奈といいます。幻都学院の二年生で、いつも由宇先輩にお世話になっています」
春奈ははにかみながらたどたどしく礼を取った。男子学生たちはそういう彼女の拙さが可愛らしいと、よく騒いでいた。
春奈は邪気のない様子で言葉を続ける。
「その、果物屋さんを探してたんです。せ、生徒会のお友達に差し入れは何がいいかって聞いたら、山盛りのマンゴーって言ってて」
それは絶対に一年生のあの子のことだと、名前を言わなくてもわかった。一年生のあの子は決して悪気はないが、時々とてもはた迷惑なことを言う。
この時間には果物屋など閉まっているし、花街は食品を探しに行くところではない。それでだいたい彼女がここにいる理由が想像できた。
月華は苦笑して春奈に問いかける。
「迷っちゃったんですね?」
それにこくりと頷きが返って来る。
(危なっかしいな、この子は)
月華はため息をついて天を仰ぐ。異なるものもうろつく裏町は、甘い菓子のような女の子に害悪そのものだった。
月華は言い聞かせるように彼女をのぞきこんで言った。
「言った通り、ここは治安がよくないですから。門まで送るのでついて来てください」
月華は客引きに合わないように道の真ん中に春奈を誘導しながら歩き始めた。
春奈は物珍しそうに両脇をきょろきょろ見ながら歩いていたが、ふと月華を見上げて言った。
「あの、由宇先輩にそっくりなんですね」
「ええ。よく言われます」
月華はあまり詮索されたくはないと思いつつ短く答えた。すると春奈は柔らかく笑って言葉を続ける。
「由宇先輩はとっても優しくて頼りになる、先輩の鑑みたいな方です。生徒会の後輩はみんな、由宇先輩が大好きなんです」
屈託ないほめ言葉と、照れながらも無条件で向けてくる温かな気持ちに、月華は少し居心地が悪かった。
月華は前から彼女のことを、愛されて育った子だと思っている。周りにかわいがられて育ったのか、人が良くて鬱屈したところがない。
きっと温かい陽だまりの中で、これからも生きていくのだろうか。そう思うと少しうらやましい気がした。
月華が足を止めてしまうと、春奈は不思議そうに月華を見上げる。
「ええと?」
そんな春奈に、月華はにっこりと笑って首を横に振った。
「何でもありません。もうちょっとで表通りですから歩きましょう」
月華は言葉とは裏腹に、胸に痛みを感じた。
(自分だって愛されて育ったはずだろう。少なくとも天駆には。肉親といえる人たちが、もう遠いところにしかいないだけで)
月華はその痛みを無視して歩み続けた。
けれどその足が十歩も進まない内に止まることになる。
「みつけたよ、春奈ちゃん。どこ行ってたの?」
振り向くと、裏町がよく似合う男が立っていた。
年齢は二十台前半くらいで、灰色の着物の上に派手な龍模様の羽織りをまとった男だった。茶色の目は笑いの形に細められていて、この街で客引きをしている商売人そのものだった。
だが春奈は彼をみとめると、ほっとしたように駆け寄って言う。
「レン兄さま!」
春奈は甘えるようにその人の袖につかまる。純真そうな少女と商売人らしい男、なんだか構図としてはすごく似合わなかった。
月華の疑いの目に気づいたのだろうか。レンという男は気さくに笑って言う。
「ありがとうございます。うちのお嬢さんを保護していただいて」
「うちのお嬢さん?」
「俺は彼女の家の雇われ人なんですよ。お嬢さんの帰りが遅いから探してこいと言われましてね。まさかこっちの街に来てるなんて思っていませんでしたけど」
あまり信用できないと思って月華は黙っていたが、レンはそんな反応には慣れているようだった。
レンは春奈の手をとりながら、月華の方も見て言う。
「行こうよ、春奈ちゃん。はは、なんか疑われているみたいなんで、そちらも表通りまで来ます?」
月華としては関わり合いになりたくないと思ってはいたが、春奈が彼の袖を握っているのが心配だった。月華は仕方なく二人について歩き始める。
路地裏に入って、三者三様の足音がこだましていた。
裏通りと表通りのちょうど中間ほどでレンはふいに足を止めて、春奈を見下ろして言った。
「ずいぶん遅くなってきたね。眠くない?」
春奈は不思議そうにレンを見上げてうなずく。
「そういえば……そうかも」
レンは視線を合わせたままにっこりと笑うと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そう。もう起きてられない。すぐ眠たくなる……」
月華はその言葉に、自分も眠気を覚えて体を硬直させた。
(これは……!)
見る間に春奈はゆらゆらと揺れ始めて、つとまぶたを閉じる。
レンは口元に笑みを刻んで、宣言するように言葉を切った。
「おやすみ、春奈ちゃん」
レンは立ち竦む月華を振り返りながら春奈を背負う。
正面から彼を見て、月華はどうして今まで気づかなかったのかと自分自身に唖然とした。
レンは先ほどまでの俗世の匂いを綺麗に覆い尽くして、慇懃無礼に礼を取る。
「お久しぶりですね、月華様。無礼は致しませんので私の話を聞いて頂けますか?」
彼は身なりは変わったものの、確かに月華の兄を殺したタンレンだった。
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