9 優等生
若彦は幻都に古くから住む神職の息子だが、彼自身に仰々しい雰囲気はどこにもない。むしろ明るく開けた性格で、後輩の面倒見はとてもいい。
少し友人を選んだ方がいいのではと思うほど、どこにでも出入りする性質だ。だからその日若彦に連れられてきた店を見て、月華は言葉に詰まった。
「こ、ここでいいんですか?」
「ん、入るぞ」
そこは三ノ街の裏通りに門を構える酒場だった。さすがにまだ明るい時間帯だから客引きはいないものの、れっきとした花街だった。
この辺りは男子学生の身なりで近づきたくない。時折女性の身なりでさまよっていることは差し置いて、今の月華は優等生の生徒会長の外面がある。
どうしてこんなところで食事をする必要があるのだろう。この辺で出てくるものはほとんど酒とつまみのはずだ。
悪い遊びに誘われていると思うのが普通だったのかもしれないが、どうしてかそれはないという確信があった。
若彦との三年間の付き合いは長いとはいえない。けれど彼が月華を陥れようとする人でないのは知っていた。
しぶしぶ若彦に続いて青い看板のかかった店に足を踏み入れると、店内はまだ静まり返っていた。
若彦は店内を見回してつぶやく。
「あれ? いないのかな」
若彦は首を傾げたものの、勝手に奥へと入っていこうとする。
月華はそんな彼の背中に声をかけた。
「若彦、まだたぶん」
「開門の鐘はまだ一刻も先ですよ」
月華の声に重なるように、奥から出てきた人が告げた。袖幅の広い袍服で、片手にキセルを持っていた。
あ、と月華は声には出さずに驚いた。
それは以前裏町で月華を止めた男だった。彼はキセルを置くと、若彦に気安く声をかける。
「なんだ若彦君か。来るなら何か用意しといたのに。今何もないよ」
若彦も気楽に顔を上げて言葉を返す。
「いいんだ。ちょっと聞いてほしいことがあってさ、叔父さん。こいつなんだけど」
そう言って若彦は月華を指差す。月華は冷や汗が背中をつたうのを感じながら、学院で見せるような愛想笑いを張りつけて頭を下げた。
若彦はうろたえた月華には気づいていないのか、文句のような紹介を続ける。
「こいつは由宇って言ってさ。堅い奴なのはいいことなんだよ。外泊しないし、この年で放課後にまっすぐ家に帰るんだぜ。すごいだろ」
若彦の叔父の視線が痛い。この手の人たちは結構な記憶力を持っているという。
「女の子とも付き合わないし、男とも群れないし。でも一匹狼ってわけじゃなくて、生徒会長してたりする」
「ふーん、それはまた」
二人が月華のことを話すのも、なんだか遠い出来事のようだった。
それは月華が必死に言い訳を考えていたからだった。一月前の人物と同一人物だと思われたら、学院に通えなくなってしまう。ただその一心で、月華はごまかしの言葉を頭の中に並べ立てた。
都合がいいのか悪いのか、若彦は十分もしないうちに席を立って言った。
「なんかつまんできていい?」
「どうぞ。場所知ってるよね」
若彦の叔父という男は軽く返して、若彦は厨房と思われる奥に入って行く。
若彦の姿が見えなくなってから、男は薄く笑って月華を見た。
月華はため息をついて男に目を向ける。
「たぶん、私にそっくりのあの人に会いましたね?」
うなずいた彼を見て、月華は取っ掛かりには成功したと思う。
月華はその安堵が消えないうちに言葉を続けた。
「彼女と私を同じに見る人がいるんですけど、見ての通り私は男なので。あの人については触れないでください。よく言われるんですけど」
今まで男女両方の状態で会った他人はいなかったから、使ったことがない言い訳を使った。
月華は気まずさの中で男の反応を待った。月華自身の悪癖を人のせいにしようとしているのだから、良いことだとも思っていなかった。
若彦の叔父がそんな月華の後ろめたさに気づいたかはわからないが、彼はそっけなく言った。
「本当によく似てるね」
ただ彼は月華の言葉に突っ込んでいく様子はなかった。月華はその距離感に、内心でほっとする。
月華は苦笑を浮かべて言葉を返した。
「ええ、血を分けたひとに違いないので。彼女の悪癖だって、よくないとはわかっています。ただ止められるものでもないだけで」
月華はそう告げて言葉を切った。彼が見過ごしてくれるのを祈ってふと見返すと、彼は何か面白くなさそうな顔をしていた。
男はふいに呆れたように言葉を告げる。
「若彦君の言う通りだな」
「え?」
「君は学院でいつもその調子なのか?」
「……たぶん」
どうして彼を不機嫌にしたかはわからないまま、月華はうなずく。
男は眉をひそめて月華に言う。
「君は不和を招かないようにひたすら努力しているように見える。そんなことばかりに体力を使って疲れないのか?」
月華が首を傾げると、彼は目をそらして口の端を下げた。それは若彦が時々月華に見せる顔に似ていた。
男は思い出すように目を細めて続ける。
「彼女の方が自由に見えたよ。意味があってないような行動で何かを探しているように見えた。方法は賛成しないが、たぶん吞み込んでいる言葉があるんだろう」
ぎくっと心臓が跳ねた。呑み込んでいる言葉、それが一瞬喉元をついて出そうになる。そんなこと他人の彼にわかるはずもないのに、どこかで見透かされて安堵している自分もいる。
「言葉にしなくていいのか?」
呆れ顔で彼は追及するような言葉を投げる。
呑み込んでいるのは、そうしなければ何もかもを失いそうだからだ。月華は無理やりに笑って首を横に振った。
月華は優等生然とした表情で言う。
「私は不自由ではありませんよ。今の生活に満足しています」
まもなく若彦が戻ってきて、月華と彼の間に腰を下ろす。
若彦は叔父と月華を見やって言う。
「由宇はたぶん、一人で抱えている何かがあるんだろうな」
若彦は叔父に苦味をこめて言う。
「周りは何か言ってくれないかってずっと待ってるのにさ。何も言ってくれねぇんだよ」
そのときになって、若彦が帰国の話を気にしていたのを思い出した。
(その気持ちはありがたい。でも私だって、好きで隠していたわけじゃない。伝える言葉がみつからなかっただけ)
月華は心の中で言い訳のようにつぶやく。
(好きでこんな体に生まれて、秘密を持っているわけじゃない……!)
「……っ」
途端、月華は下腹部に切り裂かれるような痛みを感じた。
視界に幾筋もの線が入って歪む。ガンガンと頭痛が鳴り響く。
予定よりずいぶん早いはずなのに、体の変化が始まっている。
席を立たなければと、テーブルに置いた手に力を込める。しかし手が汗ばんでいるせいか滑って、顔を伏せる形になってしまった。
「由宇! 熱でもあるのか? そういうこと、なんでもっと早く言わないんだよ」
若彦の手が肩に触れる。二人が席を立ったのがわかった。
「若彦君運べるか? 俺は人呼んでくる」
「ああ、頼むよ。由宇、立てそう?」
若彦たちの気遣いは嬉しいが、もう体は女性化し始めている。顔はともかく、背負ったりでもしたらばれてしまう。
月華は鞄で胸を隠しながら、どうにか自力で立ち上がった。
「いいです。勝手に帰りますから。大丈夫……」
月華は朦朧とした頭で入口へと向かう。
外はまだ夕暮れ時だった。月すら出てないのにどうして変化が始まっているのかわからない。
……それとも変わらないことを願ったとしても、否応なしに未来に引きずられる時期に来ているのか。
「待てって! なんでお前はいつもそう」
若彦の手が肩に置かれた時、月華は強い力で前へと引っ張られた。
肩から羽織をかけられ、月華はすっぽりと腕の中に納まる。じんとした温もりに、月華は息をつく。
月華の体を通して、なじんだ声が聞こえる。
「この子の保護者です。引き取りに来ました」
天駆の声を聞きながら、月華はゆっくりとまぶたを閉じた。
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