7 薔薇の香
幻都には、温度で異の存在を示すものたちがいる。
路地の影、橋の下、何気なく通り過ぎた人の匂いの中に、それは混ざっている。
「我が君」
行き違った人に月華が足を止めて振り向こうとすると、獣姿の天駆が優しく制止した。
見上げた金色の瞳は、月華に振り向かないようにと伝えてくる。
天駆は、古い時代から月華に流れる血が異の存在に気づかせるのだと言う。月華には人ではない混ざりものを恐れる、あるいは惹かれる感情があるのだと。
天駆はこうも月華に言った。人でない一族の当主となる月華に、異なるものへの感覚は必要なものです。けれど我が君自身はそれと混ざることはなく、ただ空におわす月のようにありなさい。
天駆が月華に求めることはどうにも難しい。だから天駆は言葉ではなく感覚で教えるようにして、時々月華を連れて街を歩く。
冷たい霧のような気配が遠ざかったのを感じて、月華はようやく息を吐く。
月華が路地裏の壁にもたれかかって息を整えていると、天駆が月華を見上げて言った。
「それでよろしいのです。随分上達されました。もういつでも王華国にお戻りになれましょう」
「どうでしょうか。王華国にはもっと、明らかに人でない形をしたものが行き来するのでしょう?」
月華は天駆に聞いた話を口に出して、少し顔を歪める。
「はじめて遭遇したときは、怖くてたまらないのでしょうね」
「私がお側におります、我が君。私がいる限り、彼らはあなたに害なすものにはなりません」
月華は天駆を見下ろしながら思う。
月華にとって異なる存在、その一番身近な存在は天駆だった。
月華はふと恐れより親しみをもって言った。
「私が天駆のようになるのは、生きている内では無理なのでしょうね。それでいいと思いますが」
また二人で人通りの少ない道を選んで歩き始める。路地側を歩かせれば、夜の闇に溶けて天駆の姿はあまり目立たない。
ごわごわした毛を揺らしながら、天駆は月華の歩く速度に合わせてゆっくりと、しかし力強く進む。灯篭の下がらない暗い道に入ると茶色の目は金色を帯びて、月華はつい見惚れてしまった。
天駆はつと月華を見上げて問いかけた。
「どうかされたのですか?」
月華はそれに気負いなく答えた。
「見惚れていました。獣姿の天駆は好きですよ。とても綺麗です」
「私が?」
天駆は首を傾げながら、誰かが残した酒瓶を飛び越す。
「月華様は不思議なことを仰る。私のこの形は人に怖がられます」
「人間にとって危険な動物には違いありませんから」
街で天駆とすれ違う人間は、大抵は天駆を避けて端を歩いていく。
月華も何も知らなければ同じ行動を取るだろう。けれど天駆は好きだった。
白い牙の輝き、夜の闇を縫う足取り、豊かな知性を湛える、鋭い金の瞳。
人間である時の方が種族は近いだろうに、月華は獣姿の天駆の方が落ち着く。人間の天駆が嫌いなわけではないのだが、幼い頃からの馴染みは獣の方が深い。
(でもずっと獣であったなら、天駆はどうやって私を育てたのかな)
ふいに湧いた疑問に、月華は更なる疑問を投げかけた。
天駆は満月の晩に人間に変身するが、普段は獣の姿をしている。それでは子どもを育てるのは難しいのではないだろうか。
(私はずっと天駆に育てられたという確信があるのに?)
記憶ではなく、体に刻まれたような安心感がそう告げる。
よく考えれば、月華は幼い頃のことをほとんど覚えていなかった。どこの土地に住み、どんな生活をしていたかという記憶があまりに欠如している。
(……記憶が、途切れている?)
そう思ったとき、天駆の鋭い声に目が覚めた。
「月華様、下がって!」
天駆の声を聞いて、反射的に月華は後ろに飛びのいた。
路地壁の上から人が飛び降りてくる。けれどそれは降りるというより跳躍で、不気味な力強さをまとっていた。
地面に足を下ろしたそれは、擦り切れて汚れた服に、何日も洗っていないような髪と淀んだ血走った目が、すさんだ空気をまとっていた。
天駆はそれを見て目を細める。
「王の血脈を噛もうというのか。愚かな」
言葉が終わるや否や、天駆はそれに食らいついた。
「ぐ……ゥ!」
それは天駆の牙から逃れようと素早い動きで跳びあがり、壁の半ばに掴まってこちらを見下ろす。
それが天駆に気を取られているのをみとめて、月華は腰から爪状の刃を抜いて中指につけた。
「伏せて、天駆!」
親指で引き金を引くと、爪が獣人の喉に刺さった。
獣人は収縮するように体をひねると、灰に変わって風にまぎれていく。
天駆は月華を振り返いてうなずいた後、険しい顔で灰の逃れた方向を見た。
「形を持った
幻都に彷徨する異の存在は、ほとんどが霧のように確かな形がなく、意思もない。けれど今月華たちを襲ったものは違っていた。
「あれが眷属ですか。意思を持って人を襲うという」
「そうです。ということは」
無機物と変わらない異のものと、眷属と呼ばれるものは違う。眷属は主と紐づけされた獣人で、主の意思を鏡のように映す。
天駆は眼光鋭く周囲をうかがって言い放った。
「……近くに、人に敵意を持った獣人がいるということです」
ふいに天駆は庇うように月華を背に隠して、夜空を見上げた。
一瞬の後、月華は路地壁の谷間に蝙蝠のような翼を広げて飛ぶ女性を見た。
女性は栗色の巻き毛をけだるげに指先にからめて、こちらを見下ろしていた。
挑発するように笑いかけて、彼女は夜の闇に消える。
花の匂いに似た芳香が辺りに漂った。
「あれは……」
天駆は呆然とした顔をして、言葉をなくしたようだった。
月華はそんな彼を見たことがなくて、少し不安になりながら彼の言葉を待った。
天駆は月華がみつめているのにようやく気付いたのか、月華に安心させるように笑いかけようとした。
でもそれは結局笑みに変わることはなく、天駆は力ない声で言った。
「……見知った、異なる一族でした」
天駆はそうつぶやいてから話し始める。
「西方に住まう、ロザリエル・オッカムという者です。西方の獣人たちはめったに領地を出ないのですが……」
月華は慎重に問い返す。
「でも、彼女は眷属に、人を敵として命じたのですね」
その事実は言ってはいけないことだったのかもしれない。天駆の顔が一気に青ざめた気がした。
天駆は肯定しようとして首を横に振った。何か言うのを恐れているようで、なかなか言葉を発しようとはしない。
やがて天駆は一言だけ月華に告げた。
「我が君はここにいてはなりません」
彼は月華の服の裾を引くと、先に歩き始めた。いつもと違って、月華がそれを追いかけた。
月華たちは路地を抜けて、表通りに出る。
繁華街を出ても、天駆は一言も話さない。問い詰めるのも何を問えばいいのかわからなくて、無言で帰路を辿ろうとした時だった。
真っ暗な公園を通り過ぎるとき、向こうから歩いてくる影があった。
精巧な人形めいた面立ちに、少女にも見まごうような華奢な体格の少年だった。
少年はざわつくまなざしを持って月華と天駆をみとめると、二人の前で口を開いた。
「君たちはいつ、ここを去るの?」
あっさりとではあるがはっきりと敵意を含んだ声で、少年は月華たちに話しかける。
「幻都は君たちの属州ではないよ」
天駆は低く少年に問いかける。
「弥生、それは守護獣人としての宣戦布告か?」
天駆の生身の人間ならば恐れるような気迫に、少年は微笑みを返してみせた。
「そうとも。……主のために争いをいとわず。守護獣人はそういうものだからね?」
少年は肩をすくめて、宙に歩むように跳んだ。
まばたきをしたとき、既に少年の姿はなかった。
遠く、消えかけた街灯りだけが月夜に輝いていた。
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