6 日常の狭間

 久しぶりの学院では、試験と生徒会と、その仲間たちが月華を待っていた。

 生徒会室は奥まった角部屋だが、不思議と人が入り込みやすいところにある。一応は生徒会の構成員のための部屋ではあるが、学院の生徒なら誰でも歓迎していた。

 副会長の若彦は、椅子の背にもたれながら愚痴を飛ばす。

「じじいに怒鳴られたんだよ。別に神社の息子に試験なんて関係ないってのにさぁ」

「で、でもね若彦君」

 書記で若彦の従妹、春奈は困ったようにたしなめる。

「やっぱり平均点はとらなきゃ……」

「学院の基礎学術なんて、社会じゃ役に立たねーぜ」

 そう言い捨てる若彦だが、副会長を引き受ける彼は見た目ほどいい加減な人間ではない。

 月華はそれがわかっているから、春奈に乗って苦笑する。

「春奈さんの言う通りですよ。追試、がんばりましょう。若彦」

「けっ、優等生どもめ」

 月華だって変身中で学院に来られなかったから、追試組だ。けれど事情を詮索しない若彦は、月華が訊かれたくないことを知っているのかもしれなかった。

 上級生の三人が話していると、下級生たちが生徒会室にやって来る時間になった。

「ふぃー! 終わりました!」

「……ちは」

「おつかれさまです、先輩方」

 一年生の三人組が、それぞれのあいさつをして入って来る。

 三人はそれぞれ生徒会室内の椅子にかけて試験の話を始める。

「わかってたけど私、ランデン語はさっぱりだった!」

「開き直ることじゃないでしょ。ぜんっぜん勉強してないくせに」

「まあまあ。俺もランデンなんて行くあてねぇし」

 試験で盛り上がっている一年生たちでは、生徒会の仕事も全然進まない。

 若彦がふいに一年生たちに言葉を挟む。

「お前ら、働くところの言葉は自分で勉強しとけよ。卒業して幻都を出たらうちの言葉が通じねぇぞ」

 若彦の言葉に、月華もうなずいて同意する。

 幻都は自治区で独特の言葉を使っているが、一生を幻都で過ごす者は少ない。少なくとも東方で勢力の強い王華語と、西方諸国で多数が使用するランデン語は必修だった。

 けれどまだ一年生たちでは、今一つその危機感は少ない。

「ふふふ。私はネイティブ・幻都人だからさ」

「だからなの? そのわけのわからない言葉使ってるのは」

「ほどほどにしてやれって。まあ確かに幻都の土地を相続できるってのはうらやましいけどな」

 春奈は後輩たちに混じって彼らをなだめる。

「だ、大丈夫だよ。教授だって、今の時代は東方も西方も行ける時代なんだから、がんばればどうにかなるって」

 月華は微笑ましい気持ちになって、ああ学院に戻ってきたんだなと実感した。

 月華とて、幻都に一生いるつもりはない。けれど幻都の同級生や後輩を見ているのは楽しい。学院も試験も、悩み事には違いないけどまぶしい。

 王華国は東方で大きな勢力を持つわりに、こういう場で話題に出たのを聞いたことがない。王華国は地縁血縁を重視するところで、余所者にはあまり優しくない国だった。

 その代わりに王華国で生まれた者は、人生を王華国に縛られることになる。

 王華国で月華を待っている現実は、彼らには見せたくなかった。

 ふいに若彦は月華に言葉を投げかける。

「由宇も肝心な時に体調崩すよなぁ」

「ん? 試験なんて面倒なだけなんじゃなかったんですか、若彦」

 月華が若彦を振り返ると、彼は笑いながら否定した。

「違う違う。試験じゃないって。いやちょっと話題があってさ」

 若彦の面白いことはろくでもないことであることが多い。月華は苦笑して問いかけた。

「何なんです? 教えてください」

「いや、いいのかな、これ。言っちまって」

「焦らさないでくださいよ。一体」

 月華がいい加減焦れたところで、若彦はようやく月華に耳打ちした。

「王子が婚約したんだってさ」

 その言葉に、月華は学院で王子と呼ばれる少年を頭に思い浮かべた。

 弥生という、二年生の男の子がいる。幻都に古くから住む由緒ある家系で、黒髪に黒い瞳の、中性的で禁欲的な容姿をした子だ。男女問わず人気が高くて、入学したときから注目の的だった。

 月華は興味を引かれて若彦に問いかける。

「誰と?」

「真秀ちゃん」

「え」

 月華には、その相手の女の子は意外だった。若彦も月華にうなずく。

「やっぱり驚くだろ? 王子もずっと秘密にしてたんだ。やっぱりさ、王子の相手にはどうかって思うじゃん」

「真秀さんは由緒ある幻都のご令嬢ですよ。家柄だって釣り合います。ただ」

 月華がその後の言葉を濁すと、若彦はあっさりと言ってしまう。

「正直、地味なんだよな。真秀ちゃん」

「こら」

「いい子なんだけどな。大人しくて、慎ましやかで」

 若彦はそこで一拍考えて、何気なく言った。

「王子、卒業するまで身軽でいりゃいいのにな。家同士の事情なんだから仕方ないけどよ」

 月華は若彦を見返して当人たちに思いを馳せた。

 東方と西方が相争っていた昔に比べると、今は自由な時代だと教授たちは言う。けれど今でも血筋が学生たちの未来の邪魔をする。

 月華の兄たちはみな亡くなったと天駆は言う。王華国で兄たちと育てば、彼らに愛着を持ったかもしれないと思う。

 月華の心の弱い部分は、今も淡く肉親を求める。天駆がいれば何もいらないと言い切るには、月華はまだ子どもだった。

「だよな。そんなわけねー」

 若彦たちの話題はもう移っていて、いかにも楽しそうに笑っている。今日の生徒会活動は進みそうもないなと、月華も笑っていた。

 ふいに軽いノックの音が聞こえてきて、一年生の一人が扉に向かった。

「はぁい?」

 一年生が扉を開けると、背の高い少年が進み出た。

「こちらが生徒会室と聞きました。初めまして」

 少年はくしゃっとした栗毛の癖毛を耳にかかる程度に切りそろえ、悪戯っ子のような茶色の瞳を持った、西方人らしい少年だった。

 けれど少年は月華と目が合うと、露骨に眉をひそめた。西方人に知り合いはいないはずなのにと、月華はいぶかしく思う。

 でも月華が彼に何か感情を返す前に、彼は朗らかな笑顔を浮かべてみせた。

「僕はウィルヘルム・オッカム。ウィルと呼んでください。この学院に転入する留学生です」

 すらすらと出てくる幻都語は見事だった。彼は慣れた様子で自己紹介をしてみせる。

 後輩の一人が進み出て、軽く少年と握手をしてみせた。

「ほー、留学生さんですか。どーぞ楽しんでいってください」

 この後輩は誰にでも人懐こい子で、硬直している他の一年生と違ってにこにこと続ける。

「どうもー、こんにちは。あなたも留学生さんですか?」

 留学生はもう一人いて、後輩の言葉に首を傾げる。困ったことにそちらは完全に幻都語がわからないらしかった。

 もう一人の留学生は見事な長いさらさらの金髪に青い目という、繊細な容姿をしていた。少し神経質そうな空気も人目を引いた。

 ただ美少女だったら喜ぶくせに、こういう綺麗な少年に洗礼を加える男もいる。

「幻都語くらい覚えてこいよ、留学生」

 一年生の後輩が臨戦体勢で文句をつける。金髪の留学生はその態度にいらだちを返した。

『幻都語なんて何の役に立つ? 君達はランデン語もまともに話せないようだが?』

 罵倒というのは案外空気で伝わるもので、留学生は幻都語で告げた後輩の言葉を何となく感じ取ったようだった。

 一方、先に喧嘩を売った後輩も馬鹿にされたという感覚はきちんと読み取ってしまう。

『幻都人馬鹿にしてんじゃねぇぞ。ランデンの常識はうちでは通用しねぇからな』

 後輩は語学が苦手だと聞いていたが、売り言葉と買い言葉はしっかり覚えているようで、もうどうしようもない。

 月華は困り顔でため息をついて、留学生と後輩の間に割って入る。

『……ごめんなさい。遠くからいらっしゃったのに失礼しました』

 月華は留学生二人に頭を下げる。

『私が生徒会長です。後輩の失礼は私が引き受けます』

 月華は顔を上げて留学生たちに声をかけた。

『あなた方の留学生活にも水を差したくない。殴って気が済むならそのように』

『夕宇先輩!』

 春奈が悲鳴を上げたが、月華は何てことないように留学生たちを見据えたままだった。

 月華は誰かに屈服するのを恥だとは思っていない。暴力は恐ろしいがもっと大きな災厄を逃れるためなら甘んじて受ける。

 そして何より、可愛い後輩たちの他愛ないひとときを、こんなことで台無しにしたくはない。

 留学生二人はまっすぐにみつめる月華を見返して、ふいに二人で顔を見合わせた。

 沈黙を破ったのはウィルだった。ウィルはもう一人の留学生に言葉を投げかける。

「フィリップ、行こう。あいさつは済んだ」

 ウィルがぴしゃりと言い放って、フィリップと言うらしい留学生に合図を送った。

 フィリップも、月華とウィルを見比べてうなずき返す。

 二人が去ると止まっていた時が動き出したように、皆がそれぞれの椅子に戻っていく。

 月華は、なんだか不思議な気分だった。喧嘩にならなくて済んだのはほっとしているが、謎めいた留学生たちに気持ちがまだら模様だった。

 月華は仕方なく手を叩いて皆を動かす。

「……さ、気持ちを切り替えて活動しましょう。球技大会の場所取りがまだですよ」

 しばらく生徒会室に顔を出すつもりではあるが、夏季休暇より後は手伝ってやることができない。

 大げさかもしれないが、彼らには笑っていてほしいから。できるなら肉親の争いなどとは無関係の、平穏な日常と馬鹿騒ぎに明け暮れていてほしい。

 身勝手とはわかっているけど、月華は切に願っているのだった。

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