5 おとぎ話

 しんとした静寂で目覚めた月華は、ひどく天駆の顔が見たいと思った。

 いつもなら男性の天駆とは距離を置きたいと思うのに、今夜はそんな天駆に側にいてほしい。

 月華は意を決して体を起こすと、そろりと天駆の休む部屋の前に立った。

「天駆、起きていますか?」

 天駆は眠っていても、月華が呼べば起きてしまう。だから申し訳なくて小声で告げたが、案の定すぐに声は返ってきた。

「ええ。どうぞ、お入りください」

 襖が開かれて、そこに天駆が立っていた。彼は中へ月華を招き入れると、灯篭に火を入れようとマッチを手に取った。

「あ、灯りはいいです」

 月華は、今はあまり顔を見て欲しくなかった。天駆は目がいいから灯りなどなくても見えてしまうだろうが、月華は手で天駆を制した。

 天駆は座布団を取ってきて月華を座らせると、自身は月華の斜め横に座る。

 天駆は少し首を傾げて月華の言葉を促した。月華は気まずい思いで口を開く。

「なんだか眠れなくて」

 言葉にできたのは言い訳じみた一言だった。だけど悪い夢ではない済まない過去を何と伝えればいいのかわからなくて、仕方なく辺り障りのないことを言った。

 けれど言ってから、自分がひどく情けなく思えてきて苦笑する。

「……やっぱりいいです。たぶん明日では生理は終わらないし、通学は無理でしょうから。多少眠れなくたって、別に」

 月華は愛想程度に笑って立ちあがった。

 一体何をやっているんだろうと自分に呆れて、けれど目の端ではまだ天駆を縋るようにみつめていた。

「我が君」

 月華は襖を開こうと後ろ手で探ったが、天駆はそんな月華の甘え心を見通したらしい。

 天駆は部屋の中心に敷いてあった布団を軽く叩くと、子どもの甘えを受け入れる調子で言った。

「少し気分を代えると眠れるかもしれません。どうぞ」

 普段の月華だったら、私をいくつだと思ってるんですと言い返しただろう。

 けれど今は心が幼い頃に飛んでいるせいなのか、勧められるままに布団に近づいた。

 月華は天駆の布団にもぐりこむと、彼に背を向けて横になる。

 天駆は布団の傍らに座ったまま、壁にもたれて月華に言った。

「……月華様は近頃、妙な笑い方をされる」

 独り言のようにつぶやいた天駆の言葉は、ひどく哀しく聞こえた。

「いつからそのような笑い方を覚えられたのですか? 笑いたくない時は笑わなくていいんですよ」

 月華は天駆から目を逸らしたまま口元をむずつかせた。今は、天駆と面と向かって言い返せる気がしなかった。

 天駆は深く息をついて言葉を続ける。

「月華様が幼少の頃は実にわんぱくで……この言いようは失礼かもしれませんが、手を焼きました。でもその分月華様の御心は理解していたつもりです。今よりはずっと」

 天駆は手を差し伸べるように優しく言う。

「悩み事なら何でも天駆にお話しください。私に遠慮などする必要はございません。確かに私はいつも人型であれるわけではありませんが、大抵のことなら成す自信がございます」

「天駆ほど頼りになる従僕なんて、いないですよ」

 月華はまだ背を向けたまま言葉を返す。

「私が今まで大病を患ったこともなく、生活の苦労をしたこともないのは、すべて天駆のおかげです」

 それは天駆の言葉には、あんまりに差しさわりのない答えに違いなかった。

 けれど月華はそれ以上、心に落ちる影をみつめる勇気がない。

 この気持ちは天駆のせいだと思うけれど、天駆が悪いとも思えない。

 天駆のことを考えるとなぜか心が痛くて、そこをのぞきこもうとするとひどく怖くなる。

「私はたぶん何も知らなくて、不安なんでしょう」

 その言葉は言いつくろって出たものだったが、言葉にして案外いい考えだったと思った。

「先のことを考えなければいけないのに、何もわからなくて。王華国は、私は初めて行くも同然ですから。久しぶりに……寝物語を話してください」

 振り返った天駆は、険しい顔でじっと月華を見ていた。月華は露骨すぎた話題転換だったかもしれないと思ったが、嘘を言ったつもりもなかった。

 天駆は天井を見上げて、片膝の上で手を握る。

「わかりました」

 天駆が真にみつめているのは天井ではなく、彼はどこか遠い世界を臨む目をしながら話し出した。

「千年の昔、王華国に天帝がいらっしゃいました」

 月華が何度となく聞いた寝物語は、そうやって始まった。

「天帝はその地の娘と交わって御子を残し、自身の世界へと旅立たれました。また、この時天帝に噛まれた獣たちが、私たち守護獣人の祖となっています」

 天駆は一瞬黙り、静かに続けた。

「古くは、一族は神のような特殊な力も持ち合わせていたゆえ、その地の王族と融合していくのに時間はかかりませんでした。ただ敵も作りやすく、明確に王座から分かたれた時もございます」

 天駆は微かに表情を曇らせた。ほんのわずかな変化だったが、そのときの無念を思い出したように苦い声が混ざる。

「今から四百年ほど前、一族は王座を追われて散り散りとなり、守護獣人も王華国から追われました」

「天駆もでしたね」

 月華が眉を寄せている天駆に告げると、彼は深く頷いた。

「ええ。王華一族と離れざるをえないのは心苦しかったのですが、時代が変わるのを待つしか方法がなかったのです。再び王華国に戻ったのは百年ほど後になります。同じ守護獣人のタンレンに呼び戻されました」

「……タンレン」

 はっと月華は息を呑む。夢の中、過去にいた少年を思い出す。

「それは幼い日に私の兄を殺した、あの?」

 月華が恐々とその名前を口にすると、天駆は不自然な沈黙をもって月華を見つめた。

 幼い頃の話だから、月華が覚えていないと信じていたのだろうか。けれど天駆が一瞬身にまとったのは、もっと強い感情のように思えた。

 天駆は唇をかんでから口を開く。

「お許しを。恐ろしい記憶を今も抱いていらっしゃったとは存じ上げませんでした」

 天駆は息をついてから、月華をみつめて言葉を続ける。

「ですが、ご安心ください。二度とあのようなことはございません」

 天駆は柔らかく笑い返して言った。

「……当主の御子は、今は月華様おひとりでございますから」

 その事実を微笑んで告げた天駆に、月華は空恐ろしさを感じて震えた。

 ひととき月華の記憶の中で、針を持ったタンレンという少年と天駆が重なった。

 当主を守っていたタンレンと、月華を守ってきた天駆。その狭間で血が流れた瞬間を思い出して、月華は首を横に振った。

 月華は天駆に問うというより、自分を縛る疑念に向けて言う。

「私が王華の後継者になっていいのでしょうか」

「何を仰います」

「だって、古くは持っていたという神のような力は、私にはないでしょう?」

「そのお考えには異論を申し上げます」

 天駆は笑みを消して、少し声を落として言った。

「当主は、月華様の母君が属州の者であるからと仰いました。私はそのお考えこそ、一族の力を失わせたと思っております」

 母は月華が幼い頃に亡くなったと聞く。もしかしたらその血筋ゆえに、一族の中で生きていけなかったのかもしれないと、月華は思ったことがある。

 続く天駆の声には後悔が色濃く滲んでいた。

「おそらく一族が力を失ったのは近親婚の徹底のためです。閉ざされた血の檻にいたために、西方のように血脈を広げることができなかった」

 月華は会ったことがないが、西方には独自の貴族社会を築いた者たちがいるという。

 今も古い理と爵位を継ぎ、人と一定の距離を保ちながら共存している獣人たち。

 彼らは王華一族と共に生きられると、いつか天駆が言っていた。でもほとんど只人である月華には、その資格はないのかもしれなかった。

「どうされましたか?」

 ……自分と天駆も、本当は共に生きられないのでは?

 その問いは今日も投げることができず、月華が口にしたのはもっと個人的な気がかりだった。

「訊いていいのかわからなくて」

「月華様がためらわれることは何も。どんなことでしょうか」

「えと……」

 月華は、こういう時でもなければ訊けないと腹をくくって問いかえした。

「天駆がずっと一族に仕えてきたのは知っています。でも、その……家族は?」

 天駆は一瞬虚を突かれたようで、言葉を忘れたように口をつぐんだ。

 けれど彼はすぐに真顔になって言う。

「一族をお守りするのが私の第一の使命です。私情を挟むきっかけは無いにこしたことはありません」

 月華はある程度、天駆ならそう答えるだろうと予想していた。ただこうもきっぱりと言われると、それ以上口を挟むのもはばかられた。

 月華はうなずいて沈黙すると、ささやかだが訪れた眠りの波に揺られた。

 天駆はそんな月華に気づいたようで、ふっとほほえむ。

「そろそろお休みください。よい夢が見られるように、見守っています」

 天駆は月華に丁寧に布団をかけ直して、その上からぽんぽんと月華の背を叩く。

 月華は彼の仕草に誘われるようにして、少しだけ体を丸める。

 そのとき、天駆が小声でささやいた。

「……家族を作ろうとした時もありました」

 背中を向けているから、彼がどんな顔をしてそれを言ったのかはわからなかった。

「ただ彼女らとの平穏な暮らしに満たされて、己の使命を忘れたくはなかったのです」

 聞き取れるか聞き取れないかくらいの声で天駆は告げた。

 月華がそこに後悔と、寂しさと、決意を聞き取ったところで、彼が手を離す気配がした。

 窓の外には、欠けた月が沈んでいく。

 月華は急速な眠気に襲われて、そのまま意識を手放した。

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