4 月の守護者

 遠いところで子どもの笑い声が聞こえていた。

 それはだんだんと月華に近づいてきて、いつしか彼女は自分が出している声だと気づいた。

 月華は三歳ほどの子どもになっていた。これは夢を見ているのだと思って、月華はかえって冷静にみつめることができた。

 子どもの月華はそんな現在の懐かしさとは無関係に、元気にはしゃいでいた。

「天駆、あそんで!」

 月華は天駆の返事も待たずに、獣姿の彼にとびついた。

 天駆は月華を受け止めて、慎重に月華の襟首をくわえると、月華を背中に乗せてくれた。

 月華はきゃっきゃっと笑いながら天駆の耳を引っ張ったり、牙を握ってみたり、乗ったまま飛び跳ねたりする。現在の月華から見たら、天駆に迷惑だっただろうと思う。

 そんな彼女を見かねたように、月華にたしなめるような声がかかる。

「こらこら、月華。天駆を困らせるものじゃないよ。離れなさい」

 天駆に乗ったまま月華が振り返ると、男が杖をついて立っていた。ひどく痩せて疲れた雰囲気をにじませていて、それでは遊びたいばかりの子どもを留められるようには見えなかった。

「やぁーだ、天駆とあそぶの!」

 案の定、月華は天駆にしがみついたまま離れなかった。天駆でなければ怒らせてしまうほど、月華は彼をもみくちゃにしていた。

 ひとしきり天駆の上で遊ぶこと半刻は経ち、やっと堪忍したらしく、月華は天駆から飛び降りて走って行く。

 男は申し訳なさそうに天駆に言う。

「すまんね、天駆。私がもう少し丈夫なら、妹と遊んでやれるのに」

 天駆は男の手をぺろっと舐めた。けれどすぐに月華の方に視線を戻して息を呑む。

 月華は尖った木に足を引っ掛けて登ろうとしていた。天駆が焦ったように走ってきて月華の襟首をくわえ、地面に戻す。

 小さな月華はぷぅっとむくれて叫ぶ。

「なんで、きのぼりしたいの!」

 月華がじたばたしても天駆は動じない。天駆は月華を引っ張って先ほどの男の前に連れてくる。

 月華はおもいきり天駆に文句をつける。

「天駆なんてきらいだ。あれもだめこれもだめ。いつもじゃまばっかり」

「天駆はお前が怪我しないようにと止めてくれたのだよ。そう言うものじゃない」

 男がたしなめるのも聞かず、月華はぶすっとして地面に座り込んだ。

 天駆が側まで寄ってきて頭を寄せる。月華がそっぽを向くと、哀しそうに喉を鳴らした。男が苦笑いしながらそれを見守る。

 でも月華が吐き出した言葉は全然本心じゃないから、怒ってみせて気を引くのも長くはもたなかった。

「きらいじゃないよ」

 月華はふくれ面をしながらぶっきらぼうに言う。

「天駆も、兄さまもきらいじゃない」

 月華の兄という人は、その言葉にかすかに頬を緩めた。

 男は兄というには月華とずいぶん年が離れていて、ほとんど父のような気持ちで月華を見守っていたに違いなかった。

 天駆が喉を鳴らして月華に再びすりよってくる。月華は天駆の首に腕をまわしてごわごわとする毛をなでていた。

 そのとき、異の気配が辺りに立ち込めたようだった。

 風を切る音がして、天駆が月華をくっつけたまま跳び、月華の……兄と思しき人の喉に何かが刺さって、倒れた。

 月華は目を見開いて兄を見た。何が起こったのかわからない。それは現在の月華にとっても同じだったが、子どもの月華はなおのこと自分の見ているものが信じられなかっただろう。

 兄はもうぴくりとも動かなかった。真っ赤な血が流れて地面を染めていく。

 誰かが逆光の中から現れる。天駆が低くうめいて歯を噛み締める音が聞こえた。

「子供を狙えと言っただろう、タンレン」

「申し訳ありません」

 現れたのは老年の男と、その脇に膝をついている少年の二人組だった。

 月華が怯えて後ずさる前に、少年が動く。

 少年の手から針が生えて、今度は真っ直ぐ月華に飛ぶ。何もできない月華の前に天駆が飛び出して、肉を貫く鈍い音がした。

 月華はびっくりして天駆に飛びつく。

「て、天駆っ! 天駆!」

 月華は悲鳴を上げて、針を抜くこともできずにぶるぶる震えていた。

 そんな月華を天駆の方がなだめるように、頭で月華の頭をぽんと叩く。

 天駆は大丈夫というように月華の頬をなめると、ふいに前に向き直って顎を引いた。

 月華はごくりと息を呑む。

「あ……」

 天駆がじわりと毛を逆立てて震えたら、まるで小枝のようにぱらぱらと刺さっていた針が散った。

 老年の男は舌打ちをして、うなるように言葉を放つ。

「どういうつもりだ、天駆。お前がその欠陥品をかばうとは」

 それに天駆は身を屈めて、慇懃無礼に一礼したようだった。

 天駆は身を起こすと、鋭い牙を見せて口を開く。

「……当主、御心をはかりかねます」

 月華は先ほどとは違う意味で身を震わせた。今は聞きなれた天駆の声を、初めて聞いたからだった。

 天駆は月華を背に庇いながら眼光鋭く問う。

「月華様は正統な一族の後継者でございます。なぜ害そうとなさるのですか」

「属州生まれの賤が後継者になれるものか」

 当主は鼻で嗤ったが、それに応えた天駆の声は揺るがなかった。

「無論。議論の余地もない事にございます」

 月華は動物が話すのを非常識と考えるにはまだ幼かった。ただ淡々と話す天駆の声をちょっとだけ怖いと思いながら、いつものように天駆に触れていいのか迷っていた。

 天駆はそんな月華の恐れを読み取ったのか、振り向いて月華の頬に顔を寄せる。

「我が君、天駆は怖いものではありません。私はあなたをすべてから守ります」

 月華は自分をみつめる金色の瞳に気圧されて立ちすくんでいた。天駆はそれ以上は月華に近づくことなく、一歩後ずさる。

 天駆は冷えた目で当主たちに向き直って言った。

「……異論がおありか? つまり当主は、後継を早めたいと仰せなのですね?」

 月華には天駆の言葉の意味するところがわからなかったが、場に落ちたのは凍るような沈黙だった。

 当主の手が震えていた。タンレンという少年は顔を伏せたまま、当主を横目でちらと見たが、当主はそれに気づいた様子はなかった。

 天駆は言葉の調子を違えることなく、投げかけるように念を押す。

「我が君はまだ幼い。今少し外の世界を知る時間が必要ではと考えますが……いかにお思いでしょうか?」

 それを許さないならどうなるかと、天駆が含みを持たせたのに気づかなかったのは、たぶん月華だけだった。

 そのときの月華は、倒れている兄を見ていた。

 兄にもう息はなく、流れていく血の筋が跡を作っていた。

 開いたままの兄の瞳を怯えを持ってみつめながら、小さな月華はうずくまった。

 兄と、当主と、天駆と。ぐるぐるとそれらが頭の中をめぐっているうち、過去と現在の月華が混ざっていく。

 ひとつだけそのとき、月華が思ったことを覚えている。

(この状況を招いたのは、私なんだ)

 でも月華はどうしたらいいのか、今もわからないままだった。

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